なぜなぜ光る
この頃わたしの目には、世界が灰色に見える――なんて言ったら、ママは心底うんざりって顏で「なに言ってんの」と言ったけど、心底うんざりなのはわたしの方だ。
朝起きて、学校へ行って勉強をして、夕方になれば家に帰って夕飯を食べて、夜になれば眠りにつく。
この途方もない日常は、どこへ向かっているっていうんだろう? もしかして、大人になるって、このルーティーンの“学校”が“会社”に、“勉強”が“仕事”に変わるだけ?
なんて、そんなことに気づいてしまった日にはもう大変。
わたしはすっかり、何もかもに絶望して、やる気がなくなってしまったのである。
「だらけたいからって、そんな言い訳ばっかりして!」
ママはわたしにそう言って怒るけど、べつにだらけたくて言っているわけじゃない。まあそりゃ、ちゃきちゃき動くのは苦手だけど。でも、そうじゃなくて、わたしはこの頃本当に、自分の将来ってやつのことを、漠然と不安に思うのだ。
ママだってわたしくらいの頃、将来が不安じゃなかったの? それとも、ずっと楽しくてたまらなかったの?
そう訊くと、ママはやっぱりうんざりって顔で、
「そんな昔のこと、覚えていないわよ」
と、言うのだった。
じゃあわたしも、ママくらいの年齢になったら、こんなもやもやした気持ちのことはすっかり忘れてしまうのかな。
もしそうなら、今自分がこうしてじたばたしていること自体、ものすごくむだなことに思えてきてしまう。
歩(あゆむ)がわたしの灰色の世界に、圧倒的な光を放って飛び込んできたのは、わたしがそんな風にぼんやりと憂鬱を抱えている時のことだった。もっとも、歩のことを“光”なんて言うのは、わたしくらいかもしれないけれど。大人たちは、むしろ歩が、“闇”の方に飲み込まれたと思っているみたいだ。
原因は、髪。きらきら光る、派手な金髪。
物静かで、控えめで、絵に描いたような“大人しい少年”の歩が、中二の夏休みを前にして、髪を金色に染め上げた。
チョーシに乗ってる、ってばかにして笑うやつもいたし、わたしたちの担任の小田先生なんて顔を真っ青にして歩に詰め寄り、何かいやがらせをされているのかとか、誰にやられたんだとか、歩が自分で染めたなんて夢にも思っていないであろう質問を投げかけた。
対して歩は、いっそ清々しいほど堂々と、
「誰にもやられていません。自分で染めました」
と、言ってのけた。
あの時の小田先生の、まさしく鳩が豆鉄砲を食ったような、心底びっくりしましたって顔を思い出すと、ちょっと笑えてくる。
歩は市販の安い染髪剤を使ったようで、しかもあんまり染めるのが上手じゃないのか、頭のてっぺんの方は既に地毛の黒色に戻ってしまっていた。でも、そのちょっとてきとうな感じが、わたしにはむしろ格好よく見えた。
髪の色が変わったからと言って性格まで変わるわけはなく、歩はそれまで通り、物静かに過ごした。
その髪どうしたのとか、何かきっかけでもあったのとか、やいやい聞いてくるクラスメートたちを突っぱねるでもなく、ただちょっと困ったようにしながら「気分転換だよ」とか「大した意味はないよ」とか返答して、また静かに黙り込む。クラスメートたちは三日もすれば慣れたのか(飽きたとも言えよう)、歩の髪色についてあれこれ言う人は次第にいなくなった。
先生たちは歩を生徒指導室に連れて行って、こんこんと何時間もお説教をしたり、反省文を書かせたり、しまいには黒髪に戻せる染髪剤を買って渡したりしたが、どれもこれも効果は見られなかった。
結局歩の髪は、夏休みがはじまった今でも、輝かしい金色のままである。
B棟の裏。駐輪場横の、花壇前。
そこがわたしたちの集合場所だ。
四階建てで、一棟につき二〇世帯が生活する、いわゆる“団地”ってやつに、わたしも歩も暮らしている。
まったく同じ外観の建物がAからGまで等間隔に並んでいて、引っ越してきたばかりの頃はどれが自分の家だかわからなくなって、よく迷子になったものだ。
わたしはC棟、歩はA棟の住人だから、間をとってB棟の裏で会おう。
そんな取り決めをしたのは、お互い引っ越してきたばかりで、まだ五歳だかそこらの小さな頃の話だ。新しくできたばかりの団地には同い年くらいの子供が大勢いたが、わたしはみんなより少し遅れて越してきたため、その輪に上手く入ることができなかった。
ちょうどそんな時だった。歩のことを見つけたのは。
今日みたいに、うんざりするほど暑い、夏の日のことだった。
わんわん鳴く蝉の声。カンカン照りのお日様の下で、帽子も被らず、日陰にも入らず、ただじっと、アスファルトに転がるタマムシの死骸を見つめる男の子。
それが、歩だった。
「なにしてるの?」
と、声をかけると、歩はパッと顔を上げた。両頬が真っ赤で、汗をだらだらかいていたので、わたしは幼いながらにぎょっとした。歩はただ真っすぐに、ちょっと舌足らずな口調で、
「きれいな虫が、死んでる」
とだけ言うと、またしても視線を下げてしまった。
……ヘンな子。
率直にそう思った。
歩が見つめる先に転がる、灼熱のアスファルトの上で息絶えるタマムシの、あの鈍い緑色の輝きを、わたしは今でも鮮明に覚えている。それくらい印象的だった。
それからわたしは、歩のことを半ば無理やり自分の家に招いて(たくさん汗をかいていたので、倒れちゃわないか心配だったのだ)、お友達を連れてきたのねと嬉しそうなママにかき氷を作ってもらい、イチゴ味のシロップをかけて食べた。
歩はずっと、ぽかん、という顔をしていた。銀色のスプーンでかき氷をすくって一口食べた時なんて、まるで、こんなにおいしい食べ物が、この世界にあったのか……とでも言うような驚き顔で固まっていたものだ。
その日以降、わたしは、歩を見かけては声をかけて一緒に遊んだり、うちでアニメを見たりして過ごすようになった。
歩は、いつも一人だった。
いつもいつも、世界からポイッって放り出されたみたいな顔で、団地の隅の小さな公園とか、神社の境内にでんとそびえ立つけや木の下とか、集会所横のベンチとかに座ってじっとしていた。
わたしには、それが不思議でならなかった。
十七時を知らせるチャイムが鳴っても、歩を迎えにくる人は誰もいない。一人、また一人と公園から消えていくのに、歩だけは、帰っても、帰らなくても、べつにどっちでもいいかな、みたいな顔をしている。
だからわたしはいつも、歩の小さな手を引いて、ほらっ、帰るよ! と、ママの真似事の、叱るような口調で彼に言った。手を引いたところで、帰る家は別々なのに。
しかし、そんなわたしに対して歩はいつも、垂れ目がちな目をきゅっと細めて、
「うん」
と。可笑しそうに笑って、頷くのだった。
「純、プール行ったでしょ」
「え? うん。なんでわかんの?」
「塩素の匂いがする」
その日、歩はやってくるなりすんすんと鼻を鳴らして、どうでもよさそうな口ぶりでそう言った。この頃歩はずっとこんなかんじだ。ぼうっとしていて、なにもかもどうでもいい、みたいな顔をしている。
「歩も行こうよ。学校のプール、午前中だけ開放しててさ。奈々と行ってきたんだ。他の子たちも結構来てたよ」
「よかったね」
歩は、にこっと笑って言った。嘘くさい笑みだったし、「俺は行かない」という意味合いが含まれている気がして(実際そうなのだろう)、わたしはちょっとむっとした。
「なんか歩、最近変じゃない?」
「変って?」
「急に髪染めたりするし」
髪のことを話題に出されると、歩はいつも機嫌を損ねたように黙り込んでしまう。
五歳の時からずっと一緒にいて、約束するでもなくお決まりの場所に集まって日が暮れるまで一緒に過ごしたり、同じ布団にくるまって昼寝したりしていたのに、最近じゃとんと冷たくなった。こうしていつもの場所で会うのだって、なんだかんだ一週間ぶりだ。
夏休みがはじまって、五日目の夕方。わたしはいつも通り、だらだらととりとめもないようなことを歩に話した。宿題が多すぎて終わらないとか、ママが若手俳優にハマってずっとドラマを見てるとか、奈々とお祭りに行く約束をしたとか……とにかくそういう、ありふれた日常の話を。
歩はそんなわたしの話を、時折相槌をいれたりしながら聞いていた。
けれど、しばらくして話のネタがなくなって、お互いなんとなく無言の状態が続くと、まるでその瞬間を見計らったかのように口を開いた。世界から切り離されたかのような、妙にはっきりとした口調で。
「純。俺はもうここへは来ない」
わんわんと鳴く、蝉の声。
赤茶けた煉瓦の花壇に腰かけるわたしを見下ろしながら、歩はそう言った。西日が傾いて、派手な金髪が恒星みたいにきらきらと輝いてみえる。
「……来ないって、なに?」
「そのままの意味。……中二にもなって、男子と女子が無意味にべたべたしてるのもおかしいだろ。ほんとは一年の時から考えてたんだ」
なにそれ? そんな素振り、全然見せなかったじゃない。
歩は何かを確かめたがっているみたいに、わたしの目をじっと見た。わたしは、ああそうですかとか、寂しくなってもしらないよ! とか、そういう悪態をついてやりたいと思うのに、上手に言葉が出てこなかった。
「じゃあまあ……そういうことだから」
歩はそれだけ言うと、ふいっと顔を逸らして歩き出してしまった。
「あ、」
歩、と名前を呼びたいのに、声が出ない。呼び止めて、もし振り向いてくれなかったら、わたしたちの関係が全部おしまいになっちゃうような気がしたから。
遠ざかる細い背中が、狭い団地の角を曲がって見えなくなるのを茫然と眺めながらわたしは、頭の隅で、いつの日か見たタマムシの、あの鈍い緑色の光を思い出した。
わたしはその後、自分が悲しんでいるとか、傷ついているとか、とにかくそういう暗い気持ちを抱えているのだということを認めたくなくて、歩のアホ! と精いっぱい胸の中で悪態をつきながら家に帰った。
その夜は、妙に胸がざわざわして、全然寝付くことができなかった。窓を開けると、むっとした生ぬるい空気が部屋に入り込んできて、満足に換気すらできそうにない。
薄曇りの夏の夜。雲のむこうにうっすらと月が浮かんでいるのが見える。
こんな落ち着かない気持ちになるなんて、全部歩のせいだ。わたしはやっぱり、胸の中で幼馴染にそう悪態をついてから窓を閉め、今度こそ大人しく布団に戻った。
今思えば、あの夜の胸のざわつきは、“虫の知らせ”ってやつだったのかもしれない。
歩はわたしと会ったのを最後に忽然と姿を消し、もう一週間も家に帰っていない。
そして今日。
近所の川の下流から、歩のスニーカーが片方発見された。
*
歩のママはいつも、香水とたばこの匂いが混ざった、ちょっと独特な香りを漂わせている。
胸いっぱいに吸い込むにはあまりに濃く、けれど存在をありありと示すかのように漂うその香りは、大人の女の人、というかんじがして、私はわりと好きだった。
歩は、どうだったのだろう?
「純! いい加減にしなさいよ、夏休みだからってダラダラして!」
相変わらずやかましい蝉の声と、同じくらいにやかましい(こんなこと本人に言ったらぶっ飛ばされるだろうから言わないけど)ママの声で、わたしは目を覚ました。
我が家にはエアコンが一台しかなくて、しかもその一台はリビングにとりつけられているので、わたしは毎夜毎夜扇風機の軟弱な風と、リビングからわずかに漏れる冷気を頼りに眠りについている。早い話がとんでもなく寝苦しいのだ。
目が醒めた瞬間、汗で体がべたついていると、うげっ、って気持ちになってしまう。
なんだかもう、それだけで今日一日という日のはじまりを億劫に思ってしまうっていうか……。
「ママ、今日もパートの後、歩くんを探すの手伝ってくるから、帰り遅くなるからね」
「……はあい」
気の抜けた返事をすると、ママは何か言いたそうな顔をして、でも結局言わずにため息をついて去っていった。どすどすどす、と苛立ちを隠そうともしない乱暴な足音が遠ざかって、ドアの向こうに消えてゆく。
歩が消えて、もう十日。
川からスニーカーが発見されて、三日。
わたしはまったくの初耳なのだが、歩のママによると、歩は二年生になったあたりから二,三日家に帰らないなんてことはしょっちゅうだったようで、しかも夏休み中ということもあり、
「お友達の家にでも行っているんだろうと思った」
だ、そうだ。
しかし、それが一週間ともなれば話は違う。
流石におかしいと感じた歩のママが警察に通報し、行方不明者届を提出して、本格的に捜索がはじまった。
「純ちゃん、ごめんなさいね。あたしがぼけっとしていたから、ごめんなさいね」
歩のママは、大きな瞳からぽろぽろと涙をこぼしながら、なぜかわたしにそう何度も謝った。
ふわふわの長い髪からは香水とはまた違うコロンの香りが漂って、大きな瞳にはいつも華やかなメイクが施されている。小さな子どもみたいな、ちょっと甘ったるい喋り方は、出会った時からずっと変わらない。
「歩、きっとあたしのことが嫌になったんだわ。そうに決まっているわ」
呼び出された警察署で、やっぱりぽろぽろと泣きながら、歩のママはわたしと、付き添いで来ていたわたしのママにそう言った。わたしたちは困ってしまって、顔を見合わせていつもより多く瞬きをした。
「と、とにかく、周辺を探しましょう。行きそうな場所とかに心当たりはないですか? それから、親しいお友達のお家に連絡をして、家に来ていないか聞いてみましょう。お嬢ちゃんは、歩くんのお友達なんだよね? 歩くんと仲が良い友達とか、わかるかな?」
どんよりと重たく、そしてどこか気まずい空気の中、そう切り出してくれたのは、真新しい制服の青が眩しい、若いお巡りさんだった。
そんなこと言われても……とわたしは困ってしまった。
行きそうな場所なんて、学校か、あの狭い団地の敷地しか思い浮かばないし、物静かな歩は学校でも特段親しい友達はいなかったし――だから当然、そんな歩が一週間も身を置けるような場所を知っているとも思えない。
「最初にお家に戻らなかったのが、八月一日の夜で間違いないですか? その前日、彼と何か話をしましたか?」
お巡りさんの質問に対して、歩のママは「いいえ、何も。あの子、あたしのこと避けていたから。やっぱりあたしがいけないんだわ。あたしが……」とまたしても泣き始めてしまった。対してお巡りさんは困ったように「ああ、大丈夫ですよ、落ち着いてください」と声をかける。さらにさらに、見かねたわたしのママが一歩前に出て、「須藤さん、とにかく、心当たりがあることを全部洗いだしてみましょう。ね? きっと大丈夫ですよ」なんて言いだして――まさに“あたふた”ってかんじだ。
一体全体、なにが“大丈夫”だって言うんだろう?
そう思ったが言わなかった。言えばきっと、歩のママはワッと堰を切ったように泣き出してしまうし、困り顔のお巡りさんをもっと困らせてしまうだろうし、なによりママにものすごく睨まれるだろうから。
元から放浪癖のある少年の家出、ということで、警察の人たちは最初、緊急性をあまり感じさせない態度でわたしたちに接してきたが、捜索をはじめてすぐに、歩のスニーカーが川から発見されてからは、一変して怖い顔であれこれ聞いてくるようになった。
スニーカーが発見された川は、高いところでも膝下くらいまでしか水位がなく、溺れたとか流されたとか――まして入水自殺をした、なんてことは考えにくい。しかし、今度は誘拐とか、なんらかの事件に巻き込まれた可能性が浮上してくる。
わたしは、歩が消えた八月一日の夕方、いつものあの場所で彼と会ったことこそ大人たちに話はしたが、「もうここへは来ない」と言われたことは話さなかった。
話した方がいいなんてことは、もちろんわかっている。
でも――でも、きっと。
きっと歩は、話してほしがらないだろうな、と思ったから。
ママはこの数日、ずっとイライラしている。わたしの推測では、その理由は二つある。
まず一つ目の要因は、歩のママ。
自分の息子がいなくなって、気が動転しちゃうのはまあ、しょうがない。
でも、あんまりにもずっとめそめそと涙をこぼしたり、「あたしがいけないんだわ」とか言うばかりなので、迷ったら即行動! のママからしたら、「そんなこと言ってる暇あるんなら、足を使って探しに行きなさいよ!」って思っちゃうのだろう。口には出さないけど、ママは顔に感情が出やすいからよくわかる。
二つ目の要因は、このわたし。
歩がいなくなって、わたしは自分が知り得る限りの情報はすべて警察に話した。ていうか、歩のママは歩のことを、ほぼほぼわかっていなかったので(身長とか体格まであやふやな始末だった)、おのずとわたしが喋らざるを得なくなる。
しかし、わたしはそれ以上のことをしていない。
つまり、警察や、自治体の人たちと一緒になって歩を捜索したり、川に入って何か他に手がかりが落ちていないか探したり、そういうことに一切加担していないのである。
ママからしたらきっとわたしは、ものすごく薄情な娘に見えているのであろう。実際、捜索がはじまって最初の数日は、
「あんたも手伝いなさい」
とか、
「歩くんがどうなってもいいわけ!?」
とか。あれこれ言われたものだ。
わたしだって、心配していないわけではもちろんない。
でも、水を吸ったせいで汚れが色濃く浮き出た、ボロボロのスニーカーを目にしてから、ずどんと胸に、鉛でも圧し掛かったかのように気分が落ち込んで、そしてそれ以来ずっと考えしてしまうようになったのだ。
誰かともみ合いになった際に脱げたものなのなら、それは確かに大ごとだ。
でも――もし、そうじゃなかったとしたら?
歩があの川で、何か意図的に、きちんと自分の意思を持って靴を捨てたのだとしたら。
わたしには、むしろそっちの方が怖いような気がする。
なにがどう怖いのかは、自分でもまだよくわからないけれど。
「ここまで探して見つからないってなるとさあ」
奈々は、シャーペンの頭の部分を顎にくっつけて、カチカチと無意味に芯を出しながら、不意にそう言った。
「なんか、やばい事件に巻き込まれてるんじゃないかって思っちゃうよね」
「やばい事件って?」
「そりゃ、ヤクザとかマフィアとかが絡んでいるような……」
「ヤクザもマフィアも、歩みたいなひょろひょろの中学生相手にするほど暇じゃないでしょ」
わたしが言うと、奈々は「それもそうか」と顎からシャーペンを離して、からんと音をたてて机に置いた。
わたしたちは今日、制服を着てわざわざ学校へ登校し、自分たちの教室である二年一組の机に向き合っている。
ずっと家にいるとママにあれこれ言われるし、外をほっつき歩くにもこの炎天下では限界がある。かといってどこかお店に入って時間を潰せるほど、中学生という生き物はお金持ちじゃない。
というわけで、わたしたちはしばしば、夏の間もこうして学校へ集まって、一緒に宿題を片付けたり、何時間もお喋りをしたりして時間を潰しているのである。
わあわあと騒がしい掛け声が窓の外から聞こえる。サッカー部が他校を招いて練習試合をしているみたいだ。
「純、けっこうクールだけど、心配じゃないの?」
「……うーん」
「なに、うーんって」
「いや、そりゃ心配だけど。なんていうか、いまいち実感が湧かないっていうか……」
「はあ?」
「誰かに連れ去られたのか、それとも自分の意思でいなくなったのか。そのどっちなんだろう、どっちの方がより恐ろしいんだろうって、そういうことばっかり考えちゃうんだよね」
「……そりゃ、誰かに連れ去られた方が恐ろしいに決まっているでしょう!」
珍しく大きな奈々の声。何言ってんだこいつ、とでも言いたげな眼差しでわたしを見ている。同時に、窓の外から歓声が上がる。どっちかのチームがゴールを決めたらしい。
「どうしたの、純。色々考えすぎておかしくなった?」
「そうじゃないよ、そうじゃないけどさあ……」
「まあ……仲が良かった分、あれこれ考えちゃうのはしょうがないとは思うけどね」
奈々の言葉に、わたしはうっ、と言葉を……いや、胸をつまらせた。
歩と仲が良いかどうかと問われれば、それは微妙だ。小さい頃は良かったかもしれない。けれど、中学に上がってからのわたしたちは、教室では全然話さなくなったし、B棟の裏で集合したって、なにも和気あいあいとお喋りをしていたわけではない。
ただだらだらと、惰性で一緒にいただけだ。
なんとなく、関係を断ち切るのが嫌で。
けれど、歩の方は少しずつ、わたしから離れたがっているようだった。わたしはそれを、実は薄々感づいていた。一緒にいたって、喋るのはいつもわたしばかりだし。
でも――会うのをやめたら。
あの団地の裏で、意味もなく集まってだらだらと一緒に居るのをやめたら。
ただのクラスメートとして、必要最低限のことしか話さなくなって、時が流れて別々の高校に進学したら、顔を合わせることすら滅多になくなって、そうしていつしか、どっちかが知らない間にこの町を出て……。
そうやって、連鎖が繋がるように縁が切れてしまうのが、わたしはすごく嫌だったのだ。寂しいとか悲しいとかじゃなくて、ただ単純に嫌だったのだ。
「わたし、歩は無事だと思う」
「え。どうしてそう思うのよ」
「幼馴染のカン」
本日二度目の、呆れた、って表情がこちらを向く。
「無事だと思うから、こんなにどしんとしていられるんだと思う」
「じゃあ、幼馴染のカンでわかんないの? 須藤くんがどこへ消えたのか」
「それはわかんない」
「呆れた!」
とうとう声にだして、奈々はそう言った。
ピーッ、というホイッスルの音が響いて、その後にまた歓声が上がる。
ひょいと窓の外を覗き込むと、知らない学校の名前が入ったユニフォームを着た男の子たちが、嬉しそうに飛び跳ねたり、ハイタッチをしたりしている。
残念ながら、我が校のチームは負けてしまったらしい。
夕暮れの帰り道。健全な中学生が一人、忽然と姿を消したばかりのこの町は今、妙な緊張感に包まれている。
そこら中を、制服姿の警察官とか、蛍光色のベスト(背中に「見守り強化中!」と太い字で書かれている)を着た大人たちがうろうろしていて、わたしたちのような学生が横を通るとぎろりと目を向けられる。たぶん、“見守られて”いるんだろうけど、なんだか落ち着かない気持ちになってしまう。
生ぬるい風が頬を撫でる。昼間ほど暑いわけじゃないけど、むしむしとしていて気持ちが悪い。背中に張り付いたインナーを、制服の上から引きはがすように手でつまんで、そのままパタパタと風を煽っていると、
「こんな時にこんなこと言うの、あれかもしんないけど……須藤くんってさーあ」
と、奈々が口を開いた。奈々がこういう風に、語尾を伸ばしたちょっと間抜けな話し方をするときは、なにか探りたいことがある時だ。
「結構いいよね」
「いいって?」
「かっこいい」
「え……マジで言ってる?」
「うん」
思いもよらない言葉だったので、わたしは思わずくらりとしてしまった。
「だって、他のばかな男子たちみたいにうるさくないし」
「そりゃ、控えめな奴だからね」
「乱暴じゃないし」
「ひょろひょろだからね」
「優しいし」
「えー。そうかなあ」
「女の子のこと、顔で順位つけたりとかしなさそうだし。それに、地味だけど、顔もけっこういけてると思う」
次から次へと出てくる歩への賞賛の言葉。わたしはそれを、どんな顔で聞いたらいいのかわからず、誤魔化すように爪先に視線を落とした。真っ黒な影が、ぐんぐんと長く、アスファルトに真っすぐ伸びている。
「純と須藤くんってさーあ」
「付き合ってないよ」
パッと顔を上げて、げんなりしながら、わたしは即答した。
「まだ何も言ってないじゃん」
「話の流れで、大体わかるよ。……それでなくても何回も訊かれてきたんだから」
小学生の時はあんまり(ていうか全然)訊かれなかったのに、中学に上がってからは再三尋ねられるようになった、面倒な質問。
お前らって付き合ってんの?
言うまでもなく歩はあまり社交的ではないので、そういう質問はほとんどの場合わたしに投げかけられる。
訊かれるたびにわたしは、お世辞にも可愛らしいとはいえないであろう、いかにも不愉快ですっていう顔をして、「付き合ってないっ」と答えるのだった。
わたしにはクラスメートたちが、小学校から中学に上がり、学生服という鎧を手に入れた瞬間、まるで違う人種にでもなってしまったかのように思えて、その変わりようがなんとなく嫌だった。小学生の頃から、中身はなんら変わっていないはずなのに、制服を着た途端急に自分たちはもう大人です、みたいな顔しちゃってさ、と、そう思った。
こんな風に思うのって、わたしだけなのだろうか?
みんなは、なんとも思わないのだろうか?
「わたしは歩のことが好きだけど……あ、好きっていうのはラブじゃなくてライクの方ね」
ぎょっとした顔の奈々に対して、慌てて言葉を付け足し訂正した。
「歩はもしかして、わたしのこと嫌いだったのかも。……ていうか、迷惑だったのかも」
「え……なんでそう思うの?」
訊かれた途端、頭の中に、歩の男子にしてはちょっと高い声とか、西日に照らされて光る金色の髪とかがフラッシュバックした。
――俺はもうここへは来ない。
「……べつに」
言葉にして説明すると悲しい気持ちになってしまいそうだったので、わたしはそう誤魔化した。
対して奈々は、「なにそれ! それも幼馴染のカン?」とちょっと納得いかなそうな顔をしたが、それ以上追求する気はないようだったのでほっとした。
わたしたちはいつも、川にかかる可愛げのない鼠色の橋の前で別れる。わたしは橋の向こうの団地へ、奈々は橋を渡らず右に曲がり、しばらく歩いたところにあるマンションへとそれぞれ帰るのだ。
「純。なにか手伝えることあったら言ってよね」
別れ際、奈々が何気なくそんなことを言うものだから、わたしはぽかんと間抜けに口を開いてしまった。
急になに?
さっきまでの会話と、全然話が繋がらない。
「じゃっ、また。さらば!」
困惑するわたしをよそに、片手を高く上げ、大袈裟なくらいぶんぶんと左右に降ってからくるんと回れ右をし、奈々は颯爽と去ってゆく。
わたしは少しの間、奈々の後ろ姿を見送っていたが、五時を知らせるチャイムにハッとして歩き出した。
西日が水面に反射して、とんでもないくらいの濃さの光を放っている。まぶしい。
結局今日も、歩が見つかることはなかった。
*
団地って、わたしあんまり好きじゃない。
同じ外観の建物がいくつも並んでいる様子は、なんか“無個性”ってかんじだし、何百人もの人が同じ屋根の下で暮らしているって、なんか、なんていうんだろう……。
「一人くらいいなくなっても、誰も気が付かないんじゃないかな」
ああ、そうだ。
いつだったっけ、歩がそんなことを言っていた。
わたし、あの言葉を聞いたとき、「あ、確かに」って思ったんだ。
誰も気づかないなんて、そんなことはあるはずない、なんて頭ではわかってる。万が一
家族に気づかれなかったとしても、わたしたちのような学生には学校という砦があるし、無断で欠席したら家に連絡がいくだろう。連絡がつかなければ先生が出張ってきて、きっとそこで失踪したことが発覚する。
でも、色んな人間がごちゃっと一つにまとめられた場所に住んでいると、不思議と「自分は大勢いるうちの一人でしかないんだ」って気持ちになって――そして、なんだか無性に悲しくなってくる。
世の中にはこんなに大勢人がいるんだから、自分一人くらいどうこうなったって何も変わらない、って。
こんなことばかり考えているから、世界が灰色に見えちゃうのだろうか?
「吉野さん。君に耳寄りな情報があるよ」
翌日の、朝八時。
燃えるゴミの日だったので、寝ぼけ眼の部屋着姿でゴミ捨て場にゴミ袋を放り投げ、家に戻って目玉焼きでも作ろうかね、半熟のやつ、とか思っていると、いまわしい声に呼び止められた。
「うわ、出た」
「出たとはなんだよ、出たとは。人を幽霊みたいに」
「幽霊みたいなもんでしょ。このバカ暑いのにそんな格好しちゃってさ」
わたしを呼び止めたのは、同じのクラスの辻くんだった。
小柄な背と、ぼさぼさのねこっ毛、夏なのに長袖の黒いパーカーを着て、フードをすっぽりかぶっている。そのくせ下はハーフズボンを履いていて、ひょろりと伸びる足は生白くて不健康そうだ。
彼は、A棟に住む歩と、C棟に住むわたしのちょうど中間、B棟の三〇三号室に住んでいて、こういう風にたまに出くわすと声をかけてくる。
学校じゃ全然言葉を発しないくせに、団地の敷地内にいる時の辻くんは、水を得た魚のように妙にはきはきと喋るのだ。
こういう人のことを、内弁慶っていうんだっけ?
「朝イチに出会いたくない人物ナンバーワンだね、辻くんって」
「なにそれ、なんで?」
「なんか、空気がどんよりしてるっていうか」
わたしの言葉に、辻くんはむっとした顔をしたが、正直ぜんぜん怖くない。
「いいのかなー、そんなこと言って」
「なに、まだ何かあるの? ていうか辻くん、それ、燃えるゴミの日に出しちゃだめだよ。シャツは資源ゴミだよ」
「えっ、そうなの? ありがとう」
指摘すると、辻くんは片手に持っていたゴミ袋の中から律儀に白いシャツ(だいぶよれよれなようだけど)を取り出した。
こういうところは素直でいいヤツなのに。
「それで」
「え?」
「まだわたしに用があるんじゃないの?」
「あ、ああ! うん、もちろんだよ」
ゴミ袋をゴミ捨て場に投げ入れ、鳥よけのカバーをきちんとかけてから、えっへん、となぜか偉そうな態度で辻くんは言った。
「……の、前に。あのさ、吉野さんって、佐伯さんと仲良いよね?」
「え? 奈々? まあ……うん、仲は良いけど。それが何?」
「れ、」
ごほん、と不自然な咳払い。
「連絡先を、交換したくて……」
「はあ!? ……念のため訊くけど、それってわたしの?」
「違う! 佐伯さんの!」
すぐさま否定する辻くんに、わたしはちょっと(ていうかかなり)むっとした。だから、そのむかつきを隠さず「ああそう、頑張ってね」と言い残し、その場を去ろうとした。
「ちょっと、待ってよ!」
しかし、案の定引き留められる。
「……なに。奈々と連絡を取り合うような仲になりたいんなら、本人にそう言えばいいじゃん」
「い、言えるわけないだろ!」
「なんで?」
「そ……っれは、だって……僕みたいなのに、急に声かけられても、迷惑かもしれないし……」
「よくわかってんじゃん」
ぎろり、とまた冷たい視線が飛んでくる。でもそんなのどこ吹く風だ。わたしは間違ったことを言っていないんだから。
「辻くん、奈々のこと好きなの?」
「す、」
「わかる、わかるよお、奈々って美人だもんね、ウン」
そう言うと、みるみるうちに辻くんの顔が赤く染まってゆく。
黒くて長い髪に白い肌、大きな目に、びっしりと生える濃い睫毛。手足はすらりと長くて、そのくせ華奢な肩。見る人を思わずぎょっとさせるような、そんなちょっと抜きんでた美貌を、奈々は持っている。制服を着ていないと、中学生にはとてもじゃないが見えないくらいだ。
でも、あんまりにも容姿が整いすぎているせいか、はたまた勝気な性格のせいか、奈々に関して同級生との浮いた話は存外聞かない。その反面、近所のイケメン大学生と付き合っているとか、遠距離恋愛しているイケメン彼氏がいるとか、隣町のイケメン高校生に熱烈にアプローチされているらしいとか……。そういう、誰かが面白がってたてたであろう、事実無根な噂をたまに耳にする。
わたしは結構ずけずけと踏み込んじゃうタイプだから、そういう噂を聞いた日には奈々に直接真相を聞いてしまう。
対して奈々はいつも、心底むかっとした顔で、
「もし本当にそうだったら、毎日もっとご機嫌な顔してるわ!」
と、言うのだった。
綺麗な顔を歪めて、心の底から心外そうにする奈々がおかしくて、わたしは毎回声に出して笑ってしまう。わたしが笑うと、奈々は「なに笑ってんのよ、もーっ!」と怒りながらもつられて笑う。それがわたしたちの、お決まりのやりとりだ。
「び、美人だからとかじゃなくて、そりゃ確かにすごく可愛いなとは思うけど……」
もごもごと、要領を得ない喋り方をする辻くん。そうこうしている間にも、太陽は燦々と輝き続け、容赦なくわたしたちを照り付ける。
ああ、暑い……。
じっとりと背中に汗が伝うのを感じて、わたしはもういてもたってもいられなくなり、「とにかく、」とちょっと乱暴に話を遮った。
「奈々が本当に好きで、連絡先を交換したいってなら、正々堂々本人に言いなよ。これはべつに辻くんだから教えないとかじゃなくて、誰に対してもそう言うよ、わたし」
「う……っ」
「じゃーね!」
はやくクーラーがきいた涼しい部屋に戻ろう。これ以上ここにいたらゆでだこになっちゃう。
そんなこと思いながら、さっさとその場を立ち去ろうとすると、意外にも意外、再び引き留められた。
「す、須藤歩の居場所を、僕が知っていたとしても!?」
ちょっと聞き捨てならない一言によって。
振り向いたわたしの顔がよっぽど怖かったのか、はたまた「言ってはいけないことを言ってしまった」と思ったのか、そのどちらかはわからないけど、とにかく辻くんは結果として、「ひっ」と短い悲鳴をあげたのち、ぴゃっとその場を駆けだした。それはもう、脱兎のごとく。
「あっ、ちょっと!」
追いかけようとして、自分がぶかぶかのサンダルを引っかけていることを思い出し、わたしはイライラしながら「こらっ待て、辻!」と叫んだ。でももう遅い。辻くんの姿は見えない。
ゴミ出しをしにきた、A棟のおばあちゃんがわたしをじろじろと怪訝そうに見つめてくる。いや、おばあちゃんだけじゃない。ハッとして顔をあげると、なんだなんだとベランダから顔を出す団地の住人と目が合った。わたしはなんだか恥ずかしくなって、サンダルを引きずりながら速足で家に戻った。
バタンッ、と乱暴に扉を閉めると、音にびっくりしたのか、仕事が休みでまだ眠っていたパパがのそのそと起きてきて、「なんだ、朝から騒がしいなあ」とのんびりした口調で言った。
「あ、ご、ごめんなさい」
「いや、まあ、いいよ。それより純、朝ごはん食べたか?」
「……ううん、まだ」
「よし、じゃあ作ってやろう。ちょっと待ってなさい」
ふあーぁ、とあくびをひとつ。パパはいつも眠そうで、ちょっと疲れた顔をしている。旅行会社の代理店で店長をしていて、夏の時期は特に忙しいみたいだ。
パパは顔を洗ってからのろのろと台所に立ち、冷蔵庫を開けて中身を確認しだした。わたしは台所と繋がっているリビングの椅子に腰かけて、ふぅ、と気持ちを落ち着かせるように熱い息を吐いた。
胸が、ドキドキいっている。さっきの、辻くんの言葉のせいだ。
歩の居場所を、知ってる? 辻くんが? どうして?
いや、そんなことより、居場所を知っている、ということは……そして辻くんの言っていることが本当ならば、少なくとも歩は無事だ、ということになる。
「純。ピザと、マヨコーンと、イチゴジャムと、マーマレード、どれがいい?」
「え……うーん、わたし、マーガリンがいい」
「安上がりな娘だなあ」
ははは、と呑気にパパは笑う。
「そうだ、歩くんのことだけど」
「え。なに?」
タイムリーな話題に、思わずドキンとしながらわたしは顔を上げた。
じゅうじゅう、パチパチ、と卵の焼ける音が耳に心地よく響く。
「純、実は居場所知っているんじゃないのか?」
パパの口調は穏やかだった。探ろうとしてるとか、そんなかんじじゃなくて、ただ事実を確かめようとしているだけってかんじの。
背中しか見えないからどんな顔をしているのかはわからないけど、でも多分口調と同じように穏やかな顔をしていると思う。
「……なんでそう思うの?」
「仲が良かったし。それに……なんとなくだけど、」
パパは言った。
「純も歩くんも、お互いがお互いのことを“しょうがないやつ”って思っていただろう、多分。二人して、“こいつは危なっかしいから、自分がちゃんと見ていてやらないと”って」
「な、なにそれ? そうかな?」
「そうだよ。少なくともパパにはそう見えたよ」
ははは、とまたしても笑い声。
「だから、もしかして歩くんは、純にだけは居場所を教えているんじゃないかって、そう思ったんだけど……違う?」
パパの言葉に、ズキン、と胸が痛くなる。
わたしだってそう思ってた。
もしどこか遠くへ行くのなら、姿を消そうとしているのなら。他の誰にも言わなかったとしても、わたしにだけは何か言ってくれるんじゃないかって――
「わたし……知らないの」
わたしは言った。
「ほんとうに、なに一つ、知らないの。……でも、歩は無事みたい。なんか、ワケを知ってるっぽいヤツを一人、見つけたから」
「そう」
「……ねえ、今わたしが言ったこと、ママや他の大人には内緒にしていてくれない?」
「うーん」
お皿に目玉焼きを移したり、トースターからパンを取り出したりしながら、パパはちょっと唸るような声を出した。
「本当は、常識のある大人なら然るべき人たちに報告をしなくちゃいけないんだけど……パパは常識の無いワルだからね」
その言葉に、わたしはホッとした。
「でも、危ない目に遭っているのなら話は別だよ。彼が安全な場所に居るっていう確証はとれているの?」
「ううん……どこかにいるらしいってことくらいしか、わかんない」
「うーん」
どんより。わたしたちの間に、重たい空気が流れる。
「……ひとまず、朝ごはんにしようか!」
パパのその言葉に頷いて、わたしは朝ごはんに手をつけた。
さくさくのトーストにマーガリンを塗ると、ふんわり良い匂いが漂う。
窓の外で、思い出したかのように鳴き始める蝉の声を聞きながらわたしは、今頃歩もどこかで朝ごはんを食べているのだろうか、と思った。
そうすると、どうしてだか心細いような気持ちになった。
辻くん宅のチャイムを鳴らしても、うんともすんとも言わない。居留守かと思って扉を叩こうとしたが、何回か見かけたことのある辻くんのお父さんが、かなり神経質そうな顔をしていたことを思い出して、寸前で思いとどまった。
「あいつめ、絶対とっ捕まえて事情を聞いてやる」
わたしは、年季の入った深緑色の扉を睨みつけながらそう呟き、階段を下りて三階を後にした。
B棟から出て、なんとなく後ろを振り向き、コンクリートでできたクリーム色の壁を見上げる。向かって左手にA棟、右手にC棟が建っている。
なんにも変わらない、ただの集合住宅。
同じような顔ぶれがいつも行きかう、小さな世界。
小さい頃は、この狭い団地の敷地内が世界の全てだとすら思っていた。自分の背丈の何十倍もある高い建物に、公園や、神社や、集会場もあって、敷地内を一周するだけでくたくたになったものだ。
それが、今ではすっかり背も伸びて、この狭い団地を、時折窮屈に感じるようになった。
E棟に住んでいた五つ上のお兄さんは、高校卒業を機に家を出て一人暮らしをはじめたらしい。いつの日か、歩がつまんなそうな顔でわたしにそう教えてくれた。
わたしと同じC棟の、一階に住んでいたお姉さんは、結婚して旦那さんの実家の近くに越していった。
出くわすたびに優しく声をかけてくれたお姉さんに、わたしは結構懐いていたから、いなくなると聞いた時は、置いて行かれてしまったという気持ちになってすごく悲しかった。
でも、わたしもいつか、ここを出る日がくる。
外へ出て、広い世界を知ったら、こんなに狭い世界で暮らしていた時のことなんて、忘れてしまうだろうか?
なんだかこの頃は、意味もなくそういうことばかりを考えてしまう。
「みぃーつけた」
声をかけると、辛気臭い黒い背中は大袈裟に肩を揺らして振り向いた。
「よ……吉野さん」
「どこ行くの? わたしも着いていっていい?」
にこにこと、嘘の笑顔を貼りつけながらそう訊くと、辻くんはあからさまに嫌そうな顔をした。
辻くんが行きそうな場所とか、考えそうなことなんて大体わかる。歩とほどじゃないが、同じ団地でずっと一緒に育ってきたんだから。
辻くんは団地内にある、熊野座神社という小さな神社の境内に隠れていたようで、そろりそろりと出てきたところをすかさず捕まえて声をかけた。
狭い境内に、大きなけやきがでんとそびえるこの神社は外から見て死角が多いので、かくれんぼの時の定番の隠れ場所だ。今でもたまに、近所の小学生たちが身をひそめてくすくす笑っているのを見かける。
「い、いや、暑いし、もう帰ろうかなーって」
「ふーん。じゃ、帰る前に訊きたいことがあるんだけど」
「……須藤くんのことなら、勘弁してっ」
この通り! 辻くんは深々と頭を下げて、わたしにそう言った。その拍子に、パーカーのフードがもさもさした髪を覆うように下がってくる。
「勘弁してってなに? 先に吹っ掛けてきたのはそっちでしょ?」
「そ、そうだけど、よく考えたらやっぱり、言うべきじゃないって思ったっていうか……」
「……もしかして、歩に口止めされてるの?」
そう訊くと、辻くんはわかりやすく動揺した顔をした。
「そうなんでしょ。ねえ、辻くん」
「う……ぼ、僕は、」
「正直に白状しなさい!」
じりじりと歩み寄る。すっかり高く昇ったお日様が容赦なく照り付けてものすごく暑いし、わんわん鳴く蝉の声はうるさいし、辻くんははっきりしないし……。なんだかイライラしてきた。
「……た、たまたま見かけただけなんだ」
やがて辻くんは、観念したように口を開いた。蝉の声にき消されちゃいそうなほどか細い声で。
「見かけたって、いつ、どこで?」
「……一昨日、青佐池の近くで。派手な奴らと一緒だった。たぶん、あの近くの大学の奴らだと思う」
それは、わたしにとってまったくもって予想外の言葉だった。
青佐池、というのは、ここから少し離れたところにある、麻溝運動公園という広い公園内にある池だ。
木製の、古いけれど立派な船着き場があるような、そこそこ大きな池で、小さな頃にはパパやママとスワンボートに乗りに行ったこともある。
「そこで、歩はなにをしていたの?」
「わかんない。でも、大学生たちは楽しそうだったし、少なくとも無理やり連れられているようには見えなかった」
「……なにそれ」
歩は、いったいどうして、そんなことを――?
「そ、それで僕、思い切って声をかけたんだ。須藤くんっ、って。力みすぎて、声が裏返っちゃって、そうしたら須藤くんはびっくりした顔で振り向いて、大学生たちは僕をばかにしたようにげらげら笑った」
ぎゅ、と拳を握りしめてうつむく辻くん。自信のなさの象徴のようなフードを、深く被り直す。
「須藤くんは慌てて僕に駆け寄ってきて“見なかったことにしてほしい”って言ったんだ。言うだけ言うと、やっぱり慌てて戻っていった」
「……それで、辻くんは今日まで誰にも言わずに黙っていたの? あんたに、歩に対して、そんなことしてあげる義理がある?」
「だって、」
よわよわしい声。
「だって、見なかったことにするのって、僕、得意だから」
「……はあ?」
「……とにかく、僕はもう話したよ。これでいいでしょっ」
一転、いつもの内弁慶っぷりをぞんぶんに発揮した態度で、辻くんは言った。開き直ったといってもいいだろう。
なんだか、情報量が多すぎて、頭痛がしてきた。
辻くんの話が本当なら、警察に通報した方がいいだろう。――でも、歩はそれを望んでいなくて――でもでも、万が一脅されていたりしたら? ――家族や友達に助けを求めたらタダじゃおかないぞ、ってあらかじめ釘をさされていて――だから歩は辻くんに対して慌てた顔をしていたんじゃ――
「……吉野さん、これからどうするつもり?」
「どうするもこうするも、」
色々と考えだしたらキリがない。
「……とにかく、一回行ってみる」
「え、行くって、」
「辻くんが、歩を見かけたって場所に」
行ったところで何にもならないかもしれないけど、ここでじっとしているよりマシだ。
どうやら、迷ったら即行動! のママから生まれたわたしにも、その性分は受け継がれているらしい。
「そっか……気を付けてね」
「ちょっと! あんたも行くの!」
「えっ!?」
「奈々に、あんたが奈々のことを好きってバラしてもいいの?」
そう言うと、辻くんはサッと顔を青くさせた。
「卑怯者!」
「歩の情報を材料に、好きな子の連絡先を聞き出そうとするような、姑息な奴に言われたくない!」
「うっ……それを言われると、自責の念が……」
辻くんは、胸をおさえて、ジセキノネン、とかいうやつに顔を歪めさせた。
二年生の夏休みも、もう半ば。
宿題はぜんぜん終わっていないし、夏らしい思い出の一つも作っていないのに、妖怪みたいに真っ黒い服を着こんだ辻くんと行動を共にすることになるなんて。
「……なにもかも全部、歩のせいじゃない」
わたしのその呟きは、蝉の鳴き声に紛れて消えた。
*
辻くんが運動公園で歩を見かけたのは、夜の八時頃だったらしいので、私たちは夜の七時半に団地の前のバス停で待ち合わせることにした。
「逃げたらタダじゃおかないわよ」
と、凄むわたしに、
「……どうせ女の子とお出かけするんなら、佐伯さんとがよかった」
と、うなだれる辻くん。
ぎろりと睨みつけると、「じょ、冗談だよ」とひきつった声で返されたが、全然信用ならない。
しかし、わたしの疑念をよそに、辻くんは約束の時間になると、きちんとバス停にやってきた。相変わらず、暑苦しい長そでのフードつきパーカー姿で。妙にそわそわ、きょろきょろする辻くんに、「なんでそんな挙動不審なの?」と訊くと、信じられない、とでもいうような目でこう言われた。
「だ、だって、誰かに見られて、勘違いされたら困るじゃないか」
「なに、勘違いって」
「そりゃ、僕らが、付き合ってるんじゃないか、とか」
「はあ!? ないない、あり得ない、てか、なんであんたが不満そうなのよ! あんたみたいな弱っちいやつ、こっちから願い下げだわ!」
「は!? ぼ、僕だって君みたいな――」
「何?」
「……なんでもないです」
言い返してこようとした辻くんを思い切り睨みつけると、言葉を詰まらせたのち、目線を外してもうそれ以上は何も言ってこなくなった。
そうこうしているうちにバスがやってきたので、ICカードをタッチして乗り込む。運動公園前は、団地から八個先の停留所だ。車内にはまばらにしか人がいなかったが、隣どうしで座るのもなんだかなと思い、わたしたちは優先席付近の吊革につかまって立っていることにした。
窓の外を流れる、夏の夜の景色。バスの中はクーラーがきいていて涼しい。肌寒いくらいだ。
「ねえ、歩と一緒にいた大学生って、どんなかんじだったの?」
ご乗車ありがとうございます、という、機械っぽい女の人の声を聞きながら、わたしは口を開いた。
「どんな感じって?」
「だから、えーと……何人くらいいた?」
「……暗かったから、よく見えなかったけど、でも、五人くらいだったと思う」
「ふうん……男?」
「いや、一人、女の人もいたかな。派手な金髪で、黒い帽子を被った」
「金髪」
頭の中に、チカッ、と金色の輝きが瞬く。その人の影響を受けて、歩は髪を金色に染め上げたのだろうか。
バスは、十五分ほどでわたしたちを目的地である運動公園前まで運んでくれた。昼間はランニングをする人や散歩をするお年寄りや親子連れで賑わっているけれど、この時間になると流石にそう人もいない。
入り口を入ってすぐ、アイスクリームやジュースを売っているワゴンが見えたが、カラフルなパラソルはすっかり閉じられ、言われずとも店じまいしているのだということがわかる。白い木でできた、見張り小屋のような管理事務所も、すっかり灯りが落とされている。
大きな池に沿って花壇や植木の並ぶ砂利道の上を、わたしたちは無言で歩いた。一歩歩く度に、スニーカーの裏がじゃごじゃこと音を鳴らす。
「も、もしも、」
無言で歩みを進めるわたしの背中を、いかにも不安げな声が追いかけてきた。
「もしも、須藤くんを見つけたら、どうするの?」
「そりゃ、連れて帰るわよ。当たり前でしょ」
「でも、もし、彼が怖い仲間をたくさん連れていたら? 背が高くて筋肉がムキムキで、眉毛が全部なくて、タバコをふかしてて、それから、えーと……」
辻くんの言う、いかにもステレオタイプってかんじの“怖い人”のイメージに、わたしは呆れて肩を落とした。
「そしたら、あんたを囮にして走って逃げる」
「え!?」
「そうなりたくなかったら、うだうだ言ってないでシャキッとついてきなさい!」
夏の夜は、犬の散歩をさせている人が多い。昼間に出歩くと、靴を履いた人間はともかく、裸の足で(肉球で?)歩く動物はやけどをしてしまうから、らしい。わたしは犬を飼ったことがないから詳しく知らないけど、前に奈々がそう言っていた。奈々の家は、茶色い毛並みのトイプードルを飼っている。途中すれ違ったチワワに、キャン! と吠えられ、ぎゃあっ、と叫ぶ辻くんの声を聞きながら、わたしはぼんやりそんなことを思いだした。
「……僕、犬って嫌い。うるさいし、獣臭いし」
「奈々は犬好きだよ」
「僕、犬って大好き!」
なんてどうでもいいやり取りをしていると、ようやくボート乗り場にたどり着いた。暗闇に浮かぶ薄汚れたスワンボートたちが、風に揺られてキィキィと音を鳴らしている。きょろりとあたりを見回して見ても、人の気配はない。
「本当にここにいたの?」
「う、うん。確かにいた」
「……まあ、同級生に見られたんだし、流石に避けるようになるか」
生ぬるい夏の夜の風が吹く。池から香る濁った水の匂いと、踏みつぶされて地面にへばりついた鯉のエサの匂いが混ざってツンと鼻を刺激する。月明かりが水面にゆらゆら揺れて、なんだか胸がザワザワする。
「よ、吉野さん」
そうやって、しばらくぼうっと池を眺めていると、それまで静かにしていた辻くんが不意にわたしを呼んだ。
「……あそこにいる人、」
あそこ、と言いながら、視線だけをちらりと遠くへ向ける辻くん。
促されるまま辻くんの視線の向く方へ目をやると、そこには、一人の女の人がいた。背中を丸めて、池を囲う木の柵に片手で頬杖をついて体重をかけるようしながら、もう片方の手ではタバコを指の間に挟んでいる。
そしてその人は、ハッと目を引くほど派手な金色の髪を持っていた。黒いキャップを目深にかぶっているから、表情はよく見えない。その姿を目に映した途端、わたしはすぐに辻くんへ視線を向けた。辻くんは女の人に会話を聞かれるのを恐れるように、ただ黙ってコクコクと頷く。
あの人が、歩と一緒にいた人。
ということは、つまり――あの人を辿れば、歩に会える。
「よし、尾行しよう」
「え!?」
吸い終えたタバコを携帯用の灰皿に押し込んで、ふう、と一息ついたのちに歩き出した女の人の細い背中を見ながら、わたしはそう言った。それから、抜き足、差し足、忍び足でそろそろと歩き出す。辻くんはそんなわたしのTシャツの裾をぐいぐい引っ張り、「やばいよ、やめようよ、帰ろうよーっ!」と言っているが、そんなのおかまいなしだ。
「帰りたいなら、あんただけ帰れば?」
「えっ、帰っていいの?」
パッ、とTシャツから手が離れる。
「うん。その代わり、奈々にあんたは弱虫の裏切者だっていうけど」
「ひ、卑怯者!」
辻くんは、少しの間べそべそぐずぐずと泣きごとを言っていたが、奈々からのイメージが悪くなるのがよっぽど嫌なのか、しばらくするとおっかなびっくりではあるが黙って後ろをついてきた。前を歩く女の人は、ジーパンのポケットに手を突っ込んで、ふらふらと覚束ない足取りで歩いている。
女の人は運動公園を出ると、そのすぐ正面の横断歩道を渡って、真っすぐに歩き出した。白いモルタル壁でできた豆腐みたいな四角い校舎が印象的な、浜北大学という大学の壁に沿って、ずんずんと直進してゆく。お世辞にも賑わっているとは言い難い、大学通り商店街を少し行くと、あるところでふいっ、と方向を転換し、路地の方へと入っていった。
「あっ、曲がった! 辻くん、行くよ!」
視界から消えたことで焦りが生じ、わたしは小走りで女の人が消えた路地へと向かった。
しかし、これがいけなかった。
「……ねえ、君たち、さっきから何?」
角を曲がった先には、目深にかぶったキャップの下で、ぎろりと鋭くこちらを睨む女の人が、仁王立ちしてわたしたちを待ち構えていた。
「ヒソヒソこそこそ、人のこと付け回してさあ……バレてないと思った? バレバレだから。大方、誰かに何か聞いたんでしょ。くっだらない噂をさ。あんたら、中学生? それとも小学生? なんにせよ、大人相手にあんまナメたまねしてんなよ。わかった?」
その人は、とんでもないくらい綺麗な人だった。
美女、という言葉が、正真正銘、等身大でよく似合う。体系はすらっとしていて、瞳はパチッとしていて、上手く言えないけど、とにかく全体的に整っていて……。凄まれているというのに、呆気に取られてまじまじとその様相を眺めてしまうくらいに。
「ちょっと、聞いてる?」
「あ、は、はいっ」
「そっちの小さい子は?」
「ハイッ、き、聞いてます!」
わたしの背中に必死で隠れるようにしていた(なんて姑息な)辻くんは、しかしその努力も虚しくあっさりと見つかり、ややあって恐る恐る前に出てきた。
「……あれ? 君、」
女の人が、辻くんを見て、動きを止める。
やばい、そうだ。
辻くんはこの人に――歩の同級生だと、知られているんだった。
「この前、ボート乗り場のところにいた子だよね?」
「し、知りません」
「嘘。だって、話してたじゃん。あの子と」
あの子、が誰だか、言われなくたってわかる。
わたしは、緊張で震える拳をぎゅっと握りしめて、小さく息を吸い込んでから、口を開いた。心臓が、ドキンドキンと激しく鳴っていた。
「あなたは、歩の居場所を、知ってるんですか?」
「ちょ、ちょっと、吉野さん」
「わたしたち、歩に会いたいんです。もし何か知っているなら教えてください。会って直接話したい。だってわたし、」
だって――だって、何? 幼馴染だから?
その先の言葉がどうしてだか思い浮かばず、わたしは口を閉ざして俯いた。わたしは、歩に会って、どうしたいんだろう。何を言いたいんだろう。いや、連れ帰りたい気持ちは確かだ。だって、これだけ大勢の人を騒がせているんだから。
でも、いや、そうじゃなくて。
「……君ら、あの子の友達?」
次の言葉を探して黙り込んでいると、その沈黙を破るように、感情の読み取りづらい、抑揚のない声が降ってきた。
「は、はい」
友達、という言葉がなんだかむずがゆく、変なかんじがしたけれど、否定せずに飲み込んだ。辻くんの方も、「友達……?」となんとなく怪訝そうな声を出したが、それ以上は何も言わない。
歩を探しているとバレてしまった。怒られる? 仲間を呼ばれて、ぼこぼこに殴られたらどうしよう?
わたしの胸に、ほんの一瞬そんな不安が満ちる。
しかし、そんなわたしの心配に反して女の人は、
「な、」
と、短く一言、言ったのち、
「なあんだ! もう、それ早く言いなよ! あはは、ウケる!」
と。
心底可笑しそうに、笑いだした。
想像とまったく違うその反応に、呆気にとられるわたしたち。
「なーんだなんだ。歩ちゃんたらお友達がいたわけね。二人も! しかも二人とも超カワイイ! あ、てか、あなたもしかして純ちゃん!?」
「は、ハイ」
「やっぱり! 歩ちゃんが話してた子だ!」
歩が、わたしのことを? どうして?
なんて思案に耽るヒマなく、金髪美女はその勢いのままわたしたちを連行(?)した。
あれよあれよとやってきたのは、浜北大学からほど近い距離にあるアパートの二階だった。錆びれた鉄骨階段を上ると、カンカン、と安っぽい音が大げさなほど響く。たてつけの悪い木製の扉のドアノブに細い鍵を差し込むと、キィ、と妙に耳に残る嫌な音と共に、内側に向って大きく開いた。
「あ、靴はそこに置いてね。おーすっ! ……って、誰もいない」
ぶつぶつと「もう、スプラするから集合なって言ったのはどこのどいつよ」、とかなんとか文句を言いながら、女の人は散らかった室内をのしのしと歩き出す。お酒の空き缶に食べかけのお菓子の袋、ゲームのカセットケースや漫画本に、時折混ざる美術系の雑誌。
「汚くてごめんね。ほら、ここ座って」
「あ、ありがとう、ございます」
ここ、と促された場所に座ると、ぺきっ、と音がした。おそるおそるお尻を持ち上げると、スナック菓子のかけらが粉々になっている。しかし、もう今は細かいことを気にしている場合じゃないと思い、そのままそこに座り続けた。
「で、えっと、なんだっけ。純ちゃんに、君は――」
「み、満です。辻満」
「ミチルくんっていうの? ふうん」
女の人は、辻くんの顔をじっと眺め、それからにこっと笑い、
「名前のわりに、全然満たされてなさそうだね」
と、言った。まったく悪気がなさそうなその言葉に、わたしは思わずブッと噴き出して笑ってしまったが、辻くんは渋い顔をしている。
わたしたち通された部屋は、一人暮らし用の部屋というかんじの、小ぢんまりした一Kだった。入り口を入ってすぐ左手がキッチンスペース、右手がバスルームになっていて、薄い水色のパーテーションで仕切られた先に八畳ほどの部屋が現れる。
そこには黒いカバーのかかったベッドと小さな机やテレビなどが置いてあり、余計な装飾や色のない空間はどことなく男の人の部屋、というかんじがした。
女の人は、「待っててね、なんか飲み物探してくる」と言って立ち上がり、パーテーションの向こうへ消えていった。
ガチャガチャと、冷蔵庫を漁るような音が聞こえてくる。二人になったタイミングを見計らい、辻くんが小さな声でわたしに言った。
「ね、ねえ、大丈夫かな?」
「大丈夫って、何が?」
「だ、だだだ、だって、ここ、知らない人の家なんだよ? 怖い人たちが乗り込んできて、ぼこぼこにされたら? どうすんの!?」
「今更そんなこと心配したってしょうがないでしょ」
「ねえ、君ってなんでそんなに肝が据わってるの!? 僕ちょっと怖いよ!」
今にも泣き出しそうな顔で、辻くんが喚く。
肝が据わってる、なんてとんでもない。本当はわたしだって、この状況には、流石に焦っている。冷たい汗が背中を伝っているし、膝の上で握りしめた拳はほんの少し震えている。知らない大人の家に上がる、なんて、人生ではじめての経験だし、それでなくともここは、なんていうか……なんとなく柄の悪い人が住んでいますってかんじの匂いがして、緊張感に背筋が伸びる。
「二人とも、炭酸飲める?」
しかし、わたしのそんな不安なんてまるで無視して、女の人はにこにこ嬉しそうに笑って缶ジュースを両手に持ち、こちらに向かって聞いて来た。
質問してきたわりに、それに返事をする前にわたしたちの手にジュースを持たせ(私はグレープ味、辻くんはメロン味)、自分は赤いラベルのビールの缶を手にして、「そんじゃっ、出会いを祝して、かんぱーいっ」なんて高らかに言ってプルタブをプシュッと開ける。
「あの、あなたは、」
親指でプルタブを持ち上げながら、おそるおそるそう投げかけると、女の人は「えっ、あれ? やだ、あたしったらまだ、名乗ってなかったっけ?」と、大きな目を更に大きくさせた。
「あたし、八千代。数字の八に、同じく数字の千に、代々木の代で八千代っての」
「八千代さん」
教えられた名前を、思わず繰り返す。先ほど彼女は辻くんに対し、「名前のわりに満たされてなさそう」と言ったが、それを言うなら彼女のその、いかにも大和撫子っぽい古風な名前は、言ってしまえばその華美な見目にそぐわないというか――ぶっちゃけしっくりこない。
「うん。似合わないでしょ。この見た目とキャラで、八千代って! って、よく言われる」
「い、いえ、そんな」
確かにそうですね、とは流石に言えず、わたしは乾いた笑みを漏らした。
「歩ちゃん、そろそろ帰ってくると思うんだけどな。待ってね、ラインしちゃえ。えーっと、とも・だち・きて・るよ………」
「あの、歩は今、ここに住んでるんですか?」
「へ」
効果音をつけるなら、きょとん、ってかんじの表情で、八千代さんが顔を上げる。
「住んでるって、なんで? そんなわけないじゃん」
「え」
「ああ、でもまあ、確かにずっと入り浸ってはいるみたいだね。あたしはあいつらと違って、毎日ここに来るってわけじゃないから、詳しくは知らないけど」
「……八千代さん、もしかして知らないんですか?」
「は? ……何が?」
キンキンに冷えた缶ジュースの冷たい感触が手のひらに伝わる。指先に少し力をいれると、べこ、と音が鳴る。八千代さんのいかにも呑気な反応に、わたしと辻くんは顔を見合わせた。
「ここ最近、この町で中学生が行方不明になったって」
「へー、そうなんだ」
「夏休み中の出来事だし、行方不明になった中学生は元からふらっと家を空けることも多かったから、ニュースとかにはなってないんですけど、でも時間の問題だと思います」
「ふーん………………えっ、待って。つまりそれって、」
缶ビールに口をつけていた八千代さんの顔が、みるみるうちに青く染まってゆく。
するとその時、ガチャリと扉が開く音がして、わたしはハッとして顔を上げた。どす、どす、どす、という、一歩一歩を踏みしめるような足音の跡、水色のパーテーションの向こうから、男の人が顔を出す。
「おー。なに、誰ちゃんと何くん?」
目にかかりそうなくらい長い前髪に、その下に覗くいかにも温和そうな垂れた瞳。お尻まですっぽり隠れるような白色のオーバーサイズのスウェットに、黒のスキニーズボン。
細身で、どこか中性的な印象を抱かせるその人は、わたしと辻くんの姿を確認するとへらっと笑い、「いつからここは子ども一一〇番の家になったわけ?」と言った。
「神崎! ねえやばいよ、歩ちゃんのこと!」
「なに、歩がどうしたの」
「どうしたもこうしたもないよ! 行方不明扱いになってるらしいじゃん!」
「お前それ、今気づいたの? やっば」
「なに笑ってんの!? あたしたち……っていうか、あんた誘拐犯になるんだよ!? 人生終わりなんだよ!?」
「はは。んなわけねーじゃん」
神崎、と呼ばれたその男の人は、八千代さんから缶ビールをひょい、と取り上げると、テーブルに置いた。そしてそのまま、わたしと辻くんの正面にドスンと座り込み、胡坐をかく。
怖いくらい大きな目が、一瞬だけ辻くんの方を向き、その後すぐにわたしを捉える。小さな子供のようにきらきら光って、それがなんだかとてもちぐはぐに見えて、わたしはゴクンと唾を飲み込んだ。
「君、純ちゃんでしょ」
「え」
「歩の口から、唯一名前が出た子。君がそうでしょ」
試すような、値踏みするような眼差しに、思わずぎゅうっと、自分の手を握る。手汗でべとべとして気持ち悪い。
「歩のこと迎えにきたんだ?」
「……はい。まあ」
「ふーん」
にやにやと口元を弧の字にさせながら、神崎さんはわたしを見る。感情がまったく読み取れない。こんな人、はじめてだ。そして、何を考えているのかわからない相手と対峙するというのは、結構、怖い。
「純ちゃんって、得意科目何?」
「はっ? ……な、なんでですか?」
「いいからいいから。ただの雑談」
膝の上に肘を置き、頬杖をつくような姿勢で、神崎さんがわたしにそう言った。前髪がさらりと流れて、大きな両目が露わになる。
「……体育、です」
「ぶはっ! なんで?」
「好きだから、走るの」
集団行動が好きじゃないって理由で部活には所属していないけど、わたしは走るのが結構好きだ。ぐんぐん風を切って体が前に進んでいくかんじが気持ち良い。だから、体を動かせる絶好の機会ともいえる体育の授業は得意な方だ。
神崎さんは相変わらず、心底楽しそうに笑っている。何がそんなに可笑しいのだろう。
「くくく……そっか。いやあ、いいなあ。俺の周りにはいないタイプだわ。体育が好きなんて子」
「そ、そうですか?」
「うん。俺、気に入っちゃったな、純ちゃんのこと」
「……ちょっと、神崎」
軽蔑するような、咎めるような八千代さんの声。
神崎さんはぐるんと八千代さんの方を向き、「あ? なんだよ」と、ほんの少し低い声を出す。それに対し八千代さんは渋い顔をして、「ちょっかいかけんのやめな、中学生だよ」と言う。
しかし、それに対し神崎さんは、どこかバカにしたような声色でこう言った。
「中学生。中学生ね。歩も君たちも、バカみたいにまっさらで、世の中の汚いことなんも知りませんって顔しててさ。はは。……なんか、見てるとブッ殺したくなる」
彼が部屋に入ってきた時から感じていた違和感の正体が、わたしはその時、ようやくわかった。
この人、表情は確かに笑っているんだけど、目が据わっているんだ。
誰かに「殺したくなる」なんて言われた経験なんてもちろんないわたしは、神崎さんのその言葉にぴしりと固まり、何も言えなくなった。
心臓が、緊迫感に痛いくらいにドキドキいっている。
……殺したいって、なに? わたしのことを? なんで?
「……純ちゃんさあ、」
「あーっ! なんてこった! そろそろ門限の時間だ!」
何か言いかけた神崎さんの言葉を遮って、そんな風に大きな声を出したのは、わたしの横でずっとだんまりを決め込んでいた辻くんだった。
急に大声を出した辻くんを、神崎さんは「あ?」と一瞥する。しかし、辻くんはそんな神崎さんの反応を無視してわたしの腕をぐいっと引っ張り、「それじゃあ僕ら、帰ります! もう来ません! お邪魔しました!」と叫んだ。そのまま、大慌てで靴を履き、アパートの廊下を抜け、階段を下る。そこまで来たところで辻くんは私の腕から手を放し、「走ろう!」と言うと、言葉の通り駆け出した。
辻くんの背中を追うように(とはいえ、めちゃくちゃ遅かったけど)しばらく走り続け、運動公園の入り口まで来たところで、わたしたちはようやく立ち止まった。
「げほっ……はあっ、はあっ……うっ、えほ、」
「ちょ、ちょっと、大丈夫?」
「むり……吐く」
「はあ!? もーっ、ちょっと待ってて!」
公園に入ってすぐのところにあるベンチに、なだれ込むように横になりだした辻くん。その所作だけはまるでフルマラソンを完走した選手みたいだが、あのアパートからここまで、そんなに距離はないというのに。
私は呆れながら、近くにあった自販機に小銭をいれて、ミネラルウォーターを一本買った。暗闇の中を煌々と照らす自販機は誘蛾灯のように羽虫を呼び寄せていたので、片手をブンブン振りながらそれらを追い払った。
「……ほら、飲みなよ」
ペットボトルを差し出すと、辻くんは大人しくそれを受け取り、ごくんと一口飲みこんだ。
うなだれるようにしながらベンチに腰掛ける辻くんの隣に、わたしもそっと座る。蒸し暑い夏の夜。池から漂う湿った匂いが、肌に直接張り付くようだ。
「……あの人、やばいよ」
しばらくすると、か細い声をわずかに震えさせながら、辻くんが言った。ペットボトルをべこべことへこませるようにしながら。
「吉野さんも見たでしょ? あの人の目、全然笑ってなかった。ほんとに殺されるかと思ったもん、僕」
「……大げさな」
そう言いつつも、辻くんの言うことが、私にはよくわかった。
不思議なことに、はじめて会ったはずなのに、神崎さんは私たちのことを憎んでいるように、わたしには見えた。憎たらしくて、だから殺してやりたいって、あの目が確かに言っていた。でももちろん、わたしにも、辻くんにも、神崎さんに憎まれたりするようなことは何もないはずなのだ。
「須藤くんは、どうしてあんな人のところにいるんだろう」
「……そりゃもちろん、脅されて、」
「そうかなあ。だって、八千代さんとかいうあの女の人の反応を見るに、べつに無理やり連れられてるかんじじゃなかったじゃないか。むしろあのかんじだと、望んであそこにいるみたいだった」
「……何。何が言いたいわけ?」
はっきりしない辻くんの物言いにイライラして、わたしは思わずきつい口調でそう訊いた。けれど辻くんはまったく怯んだりはせず、それどころか顔を上げて、真っすぐこう言った。
「僕ら、これ以上首を突っ込まない方がいいんじゃないかな。……僕ら自身のためにも、もちろん、須藤くんのためにも」
「は?」
「……と、とにかく。僕はもう行くから。この件でこれ以上巻き込まないで。それじゃ!」
「あ、ちょっと!」
言うや否や、立ち上がって駆け出す辻くん。しばらくその背を見送るようにしていると、ものの数秒で走るのをやめ、よたよたと歩き出した。……なんて情けない奴なんだろう。
わたしは辻くんを追いかける気にも、帰る気分にもなれず、しばらくそのままそこに座っていた。家に帰ったらきっと、ママはわたしを叱るだろう。それでたぶん、こんな遅くまでなにをしていたのって、わけを話すまで解放してくれない。
べつに、遊び歩いていたわけじゃない。わたしにはわたしなりの“事情”ってやつがあって出歩いていたのに、でもママはそんなこと、夢にも思っていないだろう。
辻くんはさっさと逃げちゃうし、結局歩には会えないし、あの大学生たちはなんかヤバそうだし――
なんだかもう、色んなことが面倒くさい。
わたしはため息をひとつついて、現実逃避をするように目をつぶった。
瞼を開けたら全然違う世界に飛ばされたりしてないかな、と思ったけど、もちろんそんな不可思議なことが起こるはずはないのだった。
*
わたしがまだ小学校低学年くらいの時、パパと二人で夜中に映画を見たことがある。
その晩、わたしはなんだが寝つきが悪くて、時計の針が日付の変更を告げた後も、一向に夢の世界に旅立つことができずにいた。
物心ついてからというもの、毎日快眠、布団に入ったらものの五分で眠れるわたしにとって、それはちょっととんでもない出来事で、はじめての経験だった。
なんだか妙にそわそわして、そうっと自分の部屋を出る。すると、リビングの灯りがまだついていて、パパが缶ビールを片手にテレビを見ていた。わたしが起きてきたことに気が付くと、パパはわずかに驚いたように目を丸めて「お、純か。珍しいな。どうした?」と声をかけてきた。
「……なんか、上手く眠れなくて」
「そうかそうか。そういう夜もあるよな」
パパはどうしてだか嬉しそうに笑いながらそう言って、「ホットミルクでも淹れようか」と、私の返答を聞くより早く立ち上がった。
パパは言葉の通り、はちみつ入りのホットミルクをマグカップに淹れて戻ってきた。それから、もうそれ以上は何も言わず、テレビ画面に視線を戻した。
私はふうふうとホットミルクを冷ましながら、パパの真似をするように画面に視線を移した。
カチコチと鳴る壁掛け時計。ママやわたしを気遣ってか、小さめに設定されたテレビの音。聞きなれない外国の言葉。ホットミルクのやさしい匂い。
その夜、パパが見ていたのは、外国の古いラブストーリーだった。
主人公の青年は、体の弱い母親の看病をしながら、小さな田舎町に暮らしている。ある日、旅をしながら生活をする美しい女性がキャンピングカーに乗ってやってきて、二人は恋に落ちる。青年に対し、一緒にこの町を出ようと誘いかける女性だったが、青年はついに首を縦には降らず、二人はお互いを思いあったまま離れ離れになる――
「なんでこの男の人は、女の人と一緒に行かなかったんだろう」
映画が終わる頃には、深夜の一時を過ぎていた。
私はうとうとと船を漕ぎながら、それでも最後まで意識を手放すことはなかった。パパは私が眠そうにしているのを横目でみながらも、もう寝なさいとか、続きは明日にしようとは言ってこなかった。ママだったらきっとそう言って、途中でテレビの電源を落としただろう。朝や昼間に見たって、意味がないのだ。そもそも、わたしが映画に興味を惹かれること自体なかっただろう。眠れない夜に、パパが淹れてくれたホットミルクを飲みながらだったからこそ、わたしはきっと最後まで見ることができたのだ。そういうことを、パパはよくわかっていた。
「だって、お母さんが大変なんだよ。純だったら心配じゃない?」
「そりゃ心配だけど……でも、そのお母さんも言ってたじゃん。自分の人生を生きなさいって」
「うーん、我が娘はクールだね」
「ていうか、お母さんも一緒に連れていけばいいんだよ。何も今の町で暮らさないといけないなんて決まりはないんだし。三人で町を出て、今よりもっと素敵な場所を見つけてさ、そこで暮らすの。うん、それがいいよ」
私が言うと、パパはあははと可笑しそうに笑った。ばかにしているかんじじゃなくて、どこか嬉しそうな笑い方だったので、いやな気持ちにはならなかった。ただ、パパがどうしてそんな表情をするのかだけが不思議だった。
「純は、遠くへ行ける足を持っているんだね」
「なにそれ」
「パパだったらきっと、あの主人公と同じように、町に残ることを選ぶだろうな。それできっと、いつか全然違う人と結婚して、子どもが生まれて、孫までできて、しわしわのおじいちゃんになっても、あの女の人を忘れられずにいると思う。そうなるって最初から全部わかってるのに、やっぱり一緒には行けないだろう」
「え……後悔するってわかってるのに、行けないの? なんで?」
「うーん」
パパは、もうすっかり飲み終わったビールの空き缶を、ぺこん、と小さく凹ませて、
「現状を変えてしまって後悔するより、現状を変えずにいて後悔する方が、気持ち的にずっとずっと楽だからね」
と、言った。
その時のわたしには、パパの言っていることの意味がよくわからなかった。いや、今のわたしでもよくわからない。
でもきっと、自分はとても子どもっぽいことを言ったのだろうということだけは、なんとなくわかった。世の中には、あの映画に出てきた青年のように、どうしようもならないこともあるのだろう。
わたしは、あの夜見た映画のことを、今でもたまに思い出す。
いつかわたしも、パパやあの青年がした選択を、理解できる日が来るのだろうか?
理解をしたら、理解をしなかった頃にはもう、戻れなくなるのだろうか。
「純! 歩くん、見つかったんですって!」
急転直下って四字熟語を聞くと、わたしはいつも、いつの日かパパやママと遊びに行った遊園地で乗った、ジェットコースターを思い出す。よくあるレーンの上を乗り物が滑走するやつじゃなくて、かなりの高さまで垂直に上がっていって、そのまますごい勢いで落とされるやつだ。
「……は?」
「だから、歩くん、お家に帰ってきたんですって! もーっ、ママほっとして、涙出てきちゃった」
言いながら、ママは本当に涙ぐみだした。手の甲で目元をぐいっと拭って、気持ちを落ち着かせるようにふう、と息を吐いている。
ママがそんな風に、まさしく“急転直下”なニュースを運んできたのは、わたしと辻くんが神崎さんの家へ行った、わずか翌日の夜のことだ。
その時のわたしは、夏休みの宿題の一つである英語のワークを机に開いて、ジェシーだかキャシーだかよくわからない女の子が買い物をする時の会話を英語に訳していた。すると、仕事から帰ってくるなり世話しない足音を響かせながら、ママがわたしの部屋に飛び込んできたのだ。
「え、なにそれ、いつ?」
「お昼頃よ。ママは仕事だったから確認が遅れちゃったけど、ほら、ちゃんと連絡がきてたのよ」
言いながら、ママはスマートフォンの画面を私に見せるようにした。そこには、『須藤歩くん捜索隊共有グループ』という名のグループラインのトーク画面が表示されており、歩のママと思われるキティちゃんをアイコンにした人が「うちの子、今日帰ってきました! お騒がせしました!」と、たくさんの絵文字つき、そしてぺこぺこ頭を下げるうさぎのスタンプつきで投稿している。それに対して何人もの人が、「よかった!」とか「怪我はない?」とか「警察にはもう連絡しましたか?」とか言っているが、それらの質問に対しての返事は投稿されていない。
「ママ、これから須藤さんのお家に行くけど、あんたも来る?」
「は? ……なんでママが行くの?」
「なんでって、そりゃ顔が見たいからよ。心配でしょ。それに、何日も家を空けて、お腹を空かせているかもしれないし」
ママは言うなりさっさと立ち上がり、キッチンへと向かった。何か、食べるものを持っていこうとしているのだろう。
歩のママは、お世辞にも料理が上手とはいえない。というより、料理をほとんどしない。小さな頃、何度か遊びに行った須藤家のキッチンには、カップラーメンとか冷凍食品とかお菓子の袋しか置いてなかった。その話をママにしてからというもの、ママは「作りすぎちゃったから」とか「田舎からたくさん送られてきたから」とか「うちの子これあんまり好きじゃないから」とか理由をつけては、時折食事を持って行っている。だからたぶん、今回もそうしようとしているのだろう。
「ほら、行くよ」
「……わたし、いい。行かない」
「はあ!? ……ま、いいわ。でも、落ち着いたら連絡くらいしてあげなさいよ。大事なお友達なんだから」
それだけ言うと、ママはトートバッグに食べ物をあれこれ詰め込んで、家を出て行った。……もっとあれこれ嫌味を言われると思ったけど、案外すんなり解放されたな。まあ、ママからしたら私なんかに構っている場合ではないのだろう。
しんとした静寂が、室内に広がる。なんとなく気持ちが落ち着かなくて、からからと窓を開ける。入り込んできた外の熱気は、数日前よりほんの少し和らいだ気がする。
歩が帰ってきた。
私は、その事実に自分が思いのほかホッとしているということに気が付いた。
いてもたってもいられなくなって、家を出る。するとすぐに、上の階に住んでいる小学生の兄弟が喧嘩をする声が聞こえてきた。泣いているのは弟くんだろうか。少し遅れて、「もう、静かにして!」というお母さんの声が聞こえてくる。そうかと思えば今度は、ドッドッドッ、という低く唸るような音が響いてきた。どこかの家の誰が、バイクで帰ってきたみたいだ。立て続けに、近くにあるバス停にちょうどバスが停まって、車掌さんの「ありがとうございました」という声。それを追うように、ICカードのピッという機械音が響いてくる。
団地の夜は、賑やかだ。
そして、そんな賑やかな音の間を、わたしはとても静かに、足音をたてないように歩いた。どうしてだか、そうしたい気分だった。サンダルと裸足の隙間を、夜の風がスッと入り込んでゆく。
B棟の裏。駐輪場横の、花壇前。
なんとなくそんな気はしていたけれど、やっぱり、金色の髪がそこで揺れていた。
「歩」
名前を呼ぶと、歩はあっけなく顔を上げた。
わたしたちの間を、沈黙が包む。歩は、頬に絆創膏を貼っていた。怪我の大きさより微妙に小さいそれは、歩の頬に青あざができているのだということを、絶妙に隠せていなかった。
歩は、何も言わなかった。わたしも、何を言えばいいのかわからなかった。何を言っても、軽蔑されるような気がした。
「……歩、わたし、」
ようやく口を開いたわたしに対して、
「純には関係ない」
ぴしゃんと、歩は言い放った。
「お前、スバル君の家に来ただろ。なんで勝手にそんなことすんの? マジで迷惑。ていうか、この前も言っただろ。もうこれ以上、俺に構うな。俺とお前じゃ、住んでる世界が全然違うッ」
スバルくん、というのは、神崎さんのことだろう。
一生懸命興奮を抑えようとしながら話す歩だったけど、言葉を連ねていくうちにどんどんと勢いが増して行って、最後にはほとんど怒鳴るような声になった。
考えもよらなかった言葉に戸惑うわたしを、歩はギロッと睨みつける。はちみつ色の瞳が、怒りに燃えていた。ぎゅっと下唇を噛んだせいで、わずかに血が滲んでいる。歩のこんな顔を、わたしは初めて見た。
「あ……あんた、何言ってんの? 住んでる世界が違うって、何? 全然違わないじゃん。全然、違わないよ」
「いや、違う。……俺は、純みたいにいられない。純みたいに、普通にできないんだ」
「は?」
「お前といると、いつもそうだった。今もそうだ。自分がみじめで、嫌になる。弱くてくだらない自分が、嫌になるんだ。だからもう、関わらないでくれ」
みじめって、何? 弱いとか、くだらないとか、そんなこと、そんな風に思ってたってこと、今まで一度だって言ったことなかったじゃない。
「歩。あんたは確かにひょろっちいけど、でも、だからって弱いってわけじゃないし、ましてくだらなくなんかないよ」
「……何を言ったって、きっと理解できないよ、お前には」
「歩!」
言うだけ言うと、歩はさっさと背を向けて、歩き出してしまった。
みるみる遠ざかっていく、金色の髪。細い背中。風が吹いて、土の匂いが宙を舞う。
「だったら――だったらあんた、なんでまたここへ来たの?」
もう来ないって、確かにそう言ったのに。
それなのに、わざわざここへ来たというのには、何かきっと、歩なりのわけがあったんじゃないの?
「何か、よくないことに巻き込まれてるんなら、力を貸す。だから、戻ってきなよ」
絆創膏の下の怪我を思いながら、わたしは言った。
わたしの言葉を背中に受けながらも、歩は振り返らなかった。迷いのない足取りで、ぐんぐんぐんぐん、進んでゆく。
歩はもしかして、もうずっと長いこと、わたしのことを鬱陶しく思っていたのだろうか。
そう思うと、どうしようもなく辛く悲しい気持ちになって、でもいつもみたいに悪態をついて振り払う気力もなくて、わたしはただしばらくそこに突っ立っていた。
正直ちっともそんな気分にはなれなかったけれど、その翌日、わたしは奈々と近所の商店街で開催されている夏祭りに出かけた。
奈々は良いところのお嬢さんなので、こういうイベントごとのときは、必ずといっていいほどそれに見合った格好でやってくる。つまり、今回の場合は浴衣だ。
紺地に、真っ赤な金魚の揺れる浴衣を、上品な淡いグレーの帯で結んだ奈々は、正直私と同い年には見えないくらい綺麗だった。黒くて長い髪を、ゆるく編み込みにしているのもステキだ。
「あっづ~。てか、人多すぎ!」
ひらひらと自分自身を手で扇ぐようにしながら、奈々が言う。静かにしていれば涼し気な美人なのに、口を開くと私と同じ、中学二年生の女子になる。
全長二百メートルくらいのアーケード商店街に沿って夜店の立ち並ぶ、その大きすぎず、小さすぎない規模のこの祭りには、毎年たくさんの人が訪れる。このあたりに住んでいる人たちは、ほとんどみんな参加しているんじゃないだろうか。
アーケードを抜けて少し先の方にある公園には櫓が立ち、そのてっぺんからは電飾が方々に伸びている。公園には夜店はなくて、『管理事務局』と書かれたテントの下で、たいていおじさんたちがお酒を飲んで大笑いしている。
私は奈々と二人、はぐれないようにしながら、夜店をぐるっと見て回ることにした。「金魚すくい」「りんごあめ」「かき氷」「イカ焼き」「やきそば」なんかの定番の屋台と並んで、「揚げアイス」「おやき」「磯辺焼き」なんかの変わり種もちらほら見受けられる。そうかと思えば、普段アーケードに軒を連ねる雑貨屋が、フリーマーケットの要領でちゃっかり自分の店の商品を売っていたりもする。
「ねえ、純。何から食べる?」
何食べる? じゃなくて、何から食べる? ってところが奈々らしい。
「うーん……なんか、普通にお腹空いたな。たこ焼きとか食べたいかも」
「いーね! じゃ、買いに行こ」
にこにこ笑って、奈々が頷く。ぎゅ、とわたしの手首を握る。普段はそんなことしてこないのに、ちょっと浮足立っているのだろう。奈々の熱い手のひらの感触を感じながら、そう思った。
たこ焼きの屋台には、五人ほど人が並んでいた。列のいちばん後ろに二人して並んで、順番を待つ。
遠くに見える櫓の上では、米粒みたいな人たちが踊っている。さっきまでは『東京音頭』が流れていたけれど、今は『炭坑節』が流れている。
♪月がああ 出た出たあ 月が出たあ ヨイヨイ
「純、須藤くんに会ったの?」
櫓に揺れる提灯の赤をじっと見つめていると、不意にそんなことを訊かれた。振り向くと、奈々の大きくて丸い目がこっちを見ていた。
「ん」
なんとなくバツが悪くて、わたしは短く頷いた。歩が無事に戻ってきたということは、保護者たちのネットワークを通して、昨日のうちで広く知れ渡ったらしい。
「そっか」
奈々は何かを察したように、それ以上何も訊いてこなかった。気を遣ってくれたのだろう。
でも、わたしはむしろ、もっとつっこんで訊いてほしいような気持だった。自分からは上手く切り出せないけれど、奈々がいつもみたいにからっと笑って、「で、で!? どうだった?」って訊いてくれたら、「それがあいつさあ!」って笑って――そう、文字通り笑い話にすることができたのに。
そうこうしている間に、わたしたちの番がきた。屋台の近くは鉄板の熱気がじんじんするほど伝わってきて、いっそ痛いくらいだ。
屋台のおじさんが奈々を見て、「お姉さん、かわいいねー!」と白い歯を見せる。それがあまりに爽やかな言い方だったので、奈々は珍しく、ちょっと照れたように「ありがとう」と言った。
二人して列を抜ける。時刻は夜の八時過ぎ、祭りがいちばん盛り上がる時間だ。
「これ、どこで食べよっか。一回アーケード抜けて、公園の方でも行く?」
ちゃっかり一個おまけてしてもらったおかげでパンパンになったプラケースを持ちながら、奈々がわたしに尋ねる。
「だねー。ここじゃ人多すぎて、ゆっくり食べられそうにない、し……」
その時、わたしは視界の端で、奇妙な光景を目にした。……いや、奇妙というか、不吉というか。
鮮やかなピンクや赤、大輪の向日葵みたいな黄色、目の冴えるようなブルー……。色とりどりの浴衣を着た人たちが足早に過ぎてゆく賑やかな大通り。そんな華やかなお祭りの会場で、異彩を放つ黒いパーカーの男の子がいた。
……間違いない、辻くんだ。
あいつ、お祭りなんてくるんだ。こういう賑やかな場所、嫌いそうなのに。
そう思いながら、わたしはぼうっとその背を眺めた。辻くんはこちらに気が付いていないようだった。
浴衣姿の奈々と一緒にいるところを見つかったりしたら、かなり面倒なことになりそうだし、このまま何事もなく通り過ぎてくれますように……。
「辻! こっちこっち!」
ふと、しゃがれた声が聞こえてきた。見ると、坊主頭の男子三人が、辻くんを手招きして呼んでいる。確か、三組の子たちだ。名前は知らないけど。
ばりばり運動部で、いわゆる“陽キャ”に分類されるような人たちが、なんで辻くんみたいなのと一緒にいるんだろう?
なんてそんな失礼なことを思いながら、わたしはぼうっと辻くんを見た。坊主頭の一人が辻くんの肩に腕を回し、ほとんど引きずるような形で連れてゆく。体格差がかなりあるせいで、辻くんはよろけてしまう。それはなんだか、胸がざわざわするような、嫌なかんじの光景だった。
「……奈々、ごめん、わたしちょっとトイレ行ってくる!」
「えっ?」
「すぐ戻る、そこで待ってて!」
言うなり、わたしは人込みをかき分け駆け出した。背中に奈々の「ちょっと、純!?」という困惑した声を受けながら。
すみません、通してください、すみません……と言いながら前に進む。触れる人々の波はどれもこれも熱を持っている。屋台の匂い。はしゃぐ子供の声。光もののおもちゃの目に眩しい輝き。そういうものを追い越しながらなんとか前へ進んで、ようやくその背に追いついた。
「なー、フランクフルト食おうぜ、フランクフルト」
「はあっ!? 食うなら絶対焼きそばだろ。フランクフルトなんてコンビニでいつでも買えんだから」
「焼きそばだって買えるべ。な、辻!」
「え、う、うん」
「おい、辻困ってんじゃんかよー」
ぎゃはは、と笑い声が響く。普段、練習や試合で大きな声を出すことが多いからか、野球部たちの声はしゃがれていて、妙に耳に残る。
「つか、どっちでもよくね? どーせ俺たち、奢ってもらうんだし」
三人組のうちの一人がそう言うと、あとの二人が顔を見合わせ、「いやそれな~!」と笑う。わたしはその時点で、この状況のすべてがなんとなく理解できて、思わず「……うーわ」とため息が漏れた。
「じゃ、辻クン。ごちになりまーす」
どん、と一人が辻くんの背中を叩く。辻くんはやっぱり、よろりとよろけてしまう。
わたしはなんだかイライラしながら、辻くんを見た。俯いているせいで、その表情はよく見えない。
やがて辻くんは、ポケットからお財布(というか、チャックのついた透明なポーチみたいなやつ)を取り出すと、躊躇いながらお金を取り出そうとした。
「つか、財布ごと俺らが持ってた方が早くね? な? それがいいよな?」
「え」
「てことで、これは預かりまーす」
辻くんの手元から、ポーチが奪われる。「やっば、極悪人やん」「おい、流石にかわいそうだってえ」なんて言いながらも、三人組は笑っている。普段とは少し違う場の空気のせいもあるのだろう、どことなく興奮したような笑い方だった。
「ま、待って! せめてポーチは返して!」
「はあ?」
「だ、大事なものが入ってるんだ。お願い。お願い、します……」
辻くんは、もうほとんど泣いていた。声は震えて、ぎゅうっと胸のあたりを掴みながら俯いている。
「大事なものだってさ。どうする?」
「えー、とりま見てみようぜ」
ポーチの中から、千円札が二枚と、硬貨が何枚か取り出される。一人がそれを、自分のポケットにいれる。それから、どこかのお店のレシート、ポイントカードなんかを取り出すと、最後の最後に何か白いもの――ガーゼか何かでくるまれた、小さな物体がでてきた。
「は? ……うっわあああ、なにこれ、キモ!」
「げえええええっ! おい、捨てろ捨てろ!」
「うわ、なんか手についた!」
「や、やめて!」
「――ちょっと!」
わたしはとうとう耐え切れなくなって、そこでようやく声をかけた。……辻くんのことはそんなに好きじゃないし、助けてやる義理もないけど、でも、泣き出しそうな困り顔を見ていると、むしょうに腹が立った。だから、いても立ってもいられなかった。
ものすごく大きな声を出したと思ったのに、騒がしいお祭り会場の喧騒に紛れて、わたしの声は静かに消えた。けれど、辻くんと坊主頭共を振り向かせるには、じゅうぶんだったみたいだ。
「は? ……お前何?」
「さっきから見てた。あんたたち、やってることクッソださいんだよ。つかキモイ。バカじゃないの?」
「はあ? てか、見てたって何? 俺たち、普通に遊んでただけだけど」
一人が、なあ? と言うと、「それなー」「な」と二人が笑う。辻くんはびっくりしたような目でこちらを見ている。どうしてここにわたしがいるのか、わかっていないような顔だった。
「あんたたちの『普通に遊ぶ』って、人の財布とって、そこからお金巻きあげるようなことなんだ。へー、ふうん」
「そんなことしてねーし、適当言ってんじゃねーよ。つか、してたとしても、べつによくね? 俺たち、仲の良い友達どうしだから、助け合って生きてんの。金欠の友達のために奢ったり奢られたりすんのなんか、普通だろ」
「じゃ、さっき撮った動画、野球部の岡崎先生に見せてもいいんだ」
そう言うと、三人組はぴしりと表情を固めた。わたしはスマホのロック画面をひらひらと見せながら、「仲の良い友達どうしの助け合いの場面なんだもんね。見られても何にも困らないでしょ」と言って見せる。
野球部の顧問である岡崎先生は厳しいことで有名な中年の男性の先生で、全校生徒に恐れられている。こいつらは野球部だから特に、告げ口されるとまずいのだろう。
「……動画撮ったなんて、嘘だろ。本当なら見せてみろよ」
そう、その通り。動画なんて撮っていない。流石のこいつらでも、それくらいはわかるみたいだ。
でも、嘘をつく時は思い切りが大事だ。
「いいよ。でも、まず辻くんのお金、返して。言うこと聞くなら消してあげる」
「…………」
「返して」
三人は、殺してやる、というような目でわたしを見ながらも、動画を先生に見られるのがよっぽど嫌なのか(まあそりゃそうだ)、大人しくお金をポーチに戻した。
しわしわの千円札が二枚と、硬貨が何枚か。ポイントカードやレシートなんかもきちんともとに戻される。
「それから、それも」
坊主頭の一人が手に持つ、ガーゼに包まれた物体を指して、わたしは言った。納得のいかないような顔をしながらも、ガーゼがポーチにいれられ、辻くんの手に戻ってくる。
一瞬の沈黙。
均衡状態が、その場を包む。
「……よし」
わたしは小さく言って、気づかれないように深呼吸をした。
息を吸って、吐いて、吸って――
「逃げるよ、辻!」
「えっ、ちょ、」
「はあっ!? おい、待て!」
つい昨日、似たようなことがあったな……、なんて思いながら、わたしは辻くんの枯れ枝みたいに細い腕を掴んで駆け出した。「ふざけんな、ブッ殺すぞ!」なんて物騒な声が追いかけてくる。でも、無駄に図体のでかい三人では人込みで上手く動けないようで、わたしたちの差はどんどん広まっていった。
「辻、お前覚悟しろよ! 学校来れなくしてやるからな!」
最後に聞こえたその声は、随分遠くから響いてきた。
ぜぇぜぇ、はぁはぁ、と呼吸が荒くなる。肺が痛い。玉のような汗が頬を伝って気持ち悪い。大きく息を吸ってみても、祭りの熱気がそのまま体中に入り込んでくるようなかんじがして、全然凉しくならない。何度も何度も繰り返し流れるお囃子の音が、地鳴りのように響いている。
夜店が立ち並ぶ大通りから一本外れた路地に来て、わたしたちは息を整えた。別世界のように人気が少ないその並びでは、夜のお店が通常通り営業しているみたいで、居酒屋の暖簾の向こうからは楽しそうな笑い声が響いている。
「あ……あんた、何してんの? あんな奴らに、」
お金、渡すなんて――。そう言おうとして、やめた。
辻くんは泣いていた。
熱を逃がすためにフードを脱いだせいで、涙と汗と鼻水にまみれた汚い顔面がよく見える。流石のわたしでもこんな状態の人に悪態をつけるほど鬼じゃない。
わたしは迷った末、ポケットからハンカチを取り出し、そっと辻くんに差し出した。いらない、と突っぱねられそうだなと思ったけれど、意外にも辻くんは「……あ、あり、がとう」としゃくりあげながらそれを受け取った。
『呑みどころ あやせ』と書かれた小さな立て看板の横の段差に腰かけ、二人してしばらく黙り込む。わたしはスマホを取り出し、随分待たせてしまっている奈々に『ごめん! トイレ混んでたから、もうちょいかかりそう』とだけメッセージを送った。
「……まあ、元気出しなよ」
誰かを励ますなんてこと、人生でほとんどしたことがないから、わたしのその言葉はひどく心のこもっていないように響いてしまった。でも、べつに本当に心をこめていないわけじゃない。ただ、どうしたらいいかわからないだけで。
この頃わたしはずっとこうだ。どうしたらいいか、何を言ったらいいかわからない。人とのコミュニケーションに正解なんてないのだろうけれど、でも、それにしたってたぶん、適切とは言えないであろうことばかりしてしまう。
「……やめてよ。励まされるくらいなら、バカじゃんって笑われる方がまし」
「……あっそう」
「特に、吉野さんには。そんな風に、哀れんでほしくない」
言うなり、辻くんは膝を抱え込むようにして黙り込んでしまった。
そんなこと言われたって、じゃあどうすればいいって言うのだろう。言われた通り、バカだのアホだの言ってばしんと背中を叩いてやればいいのだろうか?
「……ねえ。あの白いやつ、何?」
迷った末、わたしはおずおずと質問を投げかけた。
野球部たちが悲鳴を上げた何か。きもいと吐き捨てた何か。でも、辻くんはそれを奪われそうになった時、やめてくれと珍しく大きな声を出していた。いつもぼそぼそと、小さな声でしか話さないのに。
わたしの質問に、辻くんはちらっとこちらを見た。それから、ポケットからポーチを取り出して、チャックを開ける。くちゃくちゃになったレシートの間から、くたびれたガーゼが顔を出す。
そこから出てきた物体に、わたしは思わず目を丸めた。
「これ、へその緒」
それは、長さにして五センチくらいのひも状の物体だった。
赤黒いその姿かたちは、一見してひからびたミミズのようにも見える。とてもじゃないが、ポーチから出てくるには釣り合わない様相だったので、わたしは息を呑んだ。
「……僕んちが父子家庭なの、知ってるでしょ。お母さんは四年生の時、出て行っちゃった。お腹に赤ちゃんがいたんだって」
まるでお守りを抱くようにガーゼを握りながら、辻くんは言った。
辻くんのお母さんのことは、わたしも記憶にある。辻くんによく似た、小柄で、小動物みたいにくりくりした目をしてて、なんとなく気弱そうな人だった。いつからか姿を見かけなくなって、不思議に思ってママに訊くと、ママはちょっと厳しい顔になって、
「辻さんのお宅ね、離婚されたそうよ。でも、そういうことを面白がって辻くん本人に言ったり訊いたりしちゃだめだからね。わかった?」
と、わたしに言った。
離婚、というものが何なのかということくらいは、当時四年生のわたしでも知っていた。
お父さんとお母さんが家族じゃなくなって、赤の他人になってしまうことだ。
でも、辻くんの出て行ってしまったお母さんのお腹に赤ちゃんがいたというのは、初耳だ。それも、この口ぶりからして、辻くんのお父さんとの間の子どもではなかったのだろう。
「じゃあ、これ、辻くんがお腹にいた時、お母さんと繋がってたやつなの?」
お母さんと確かに繋がっていた証がほしくて、これを持ち歩いているのだろうか。
そう思うと、なんだか胸に冷たい風がすっと吹いたような気持になった。
「……ううん」
しかし、わたしの予想に反して、辻くんはふるふると首を横に振った。
「ちがう。僕のじゃない」
「は? ……じゃ、誰の? 全然関係ない人のへその緒持ち歩いてんの? そんなわけないよね?」
「…………」
「……まさか、」
頭の中に、ある考えがよぎって、わたしは目を見開く。そのまま辻くんの言葉を待っていると、しかし辻くんは「たぶん、吉野さんが想像してる、その“まさか”の通りだよ」と言った。
「これ、お母さんと、お母さんのお腹にいた赤ちゃん――僕にとって父親違いの弟が、お腹のなかで繋がってた時のへその緒なんだ」
延々とループしていた炭坑節がようやく終わりを迎え、そうかと思えば東京音頭が流れはじめる。楽しそうな笑い声や喧騒が、ずいぶん遠くの世界の音のように感じられる。
「……なんで、そんなの持ってんの?」
「……べつに、盗んだりしたわけじゃないよ。五年生の夏休みに一度、僕一人でお母さんに会いに行ったんだ。お母さんの新しい家は、ここから電車で一時間半くらいのところにあって、僕、生まれてはじめて一人で電車に乗ったんだ」
中学二年生の今でさえ小さくてひょろっちいこの辻くんが、更に小さな小学生の時に一人、お母さんを訪ねるために電車に乗るところを想像すると、わたしは何も言えなくなってしまった。
「何かが変わると思った」
辻くんは言った。
「僕が会いに行ったらきっと、お母さんはやっぱり僕が可愛くてしょうがなくなって、手放せなくなるだろうって、そう思った。だから僕、もうこの町へ帰ってこれなくなってもいいようにって、教科書とか筆箱とか、服とか、好きな本とかゲーム機とか、とにかく、大事なもの全部リュックに詰めて持って行ったんだ。……でも、そんなことにはならなかった。全然、ならなかった」
あと三十分で花火の打ち上げがはじまるようで、会場にはアナウンスが流れだす。『打ち上げに伴いまして、公園内はたいへん混雑いたします』『小さなお子様をお連れの方は、はぐれないようしっかりと手をお繋ぎいただき……』。
「お母さんは、生まれたばかりの赤ちゃんを僕に見せて、あなたの弟よって笑うんだ。それから、僕にこのへその緒を見せてくれた。お腹の中で、お母さんとこの子が繋がっていた証なのよって。それから、もちろんあなたも同じように、お母さんと繋がっていたのよって。だから、どんなに離れていたって、例え苗字が別々のものになったって、大丈夫だって」
それは、誰にとっての大丈夫なのだろう、とわたしは思った。
きっと辻くんも同じことを思っただろう。
「帰り際、僕、へその緒をちょうだいって言ったんだ」
アナウンスがひっきりなしに流れる。その音に誘発されるように、居酒屋からおじさん集団がぞろぞろ出てきて、わたしたちをちらっと見ると、「青春だねえ~っ」と言って笑いながら去っていく。いつもだったらムカついただろうけれど、今は心底どうでもいい。
「お母さんは最初、僕がお腹の中にいた時のやつのことかと思って、そっちを持ってきた。でも僕は、僕の弟とお母さんが繋がってた方がほしいって言った。お母さん、すごく困った顔してた。僕がどうしてそんなこと言うのかわからないって顔だった。お母さんの再婚相手の男の人も、やっぱり困った顔で『これはとても大切なものだから、他のじゃダメかな?』って訊いてきたけど、僕、どうしても譲らなかった。……譲らなかったんだよ、僕。すごいでしょ?」
「……うん」
「それで、たぶん僕に対する負い目があったのも大きいんだろうな。僕はこれを無事に譲りうけた。……僕、スカッとしたんだ。いつもいつも、目の前で起きることをただ見ているしかできなかった。でも、はじめて自分の力で、世界に仕返しできた気がした。だから僕、これを触るとホッとするんだ。僕は、やろうと思えばちゃんと、やれる奴なんだって思えて。それで――だから、」
「わかった、もういいよ」
自分自身の放つ言葉で、辻くんがどんどん傷ついていっているような気がして、わたしはそこで制止した。
辻くんはわたしが止めると一瞬ぎくっとした顔になり、でもどこかホッと安心したように小さく息を吐いて、「……ごめん、くだらないこと、ぺらぺら喋って」と言った。
「べつに、全然くだらなくなんかないよ」
「……うそだ」
「うそじゃない」
「うそだよ」
「だから、うそじゃないって」
「……吉野さんが僕に、こんなに優しいはずないもん」
「おい!」
ぽかん、と軽く頭を叩くと、辻くんは「いてっ」と言って、鼻をすすりながらくすくす笑った。
「あんたのこと、」
わたしは、立ち上がってぱんぱんとお尻を払ってから、辻くんを振り向いた。相変わらず、瞳は真っ赤に濡れているけれど、もう涙を流してはいない。
「わたし、ずっとどうしようもないヤツだと思ってた。でも今は、そんなに悪くないって思う」
「……だから、気を、」
「気なんか遣ってない。……それどころか、ちょっと見直した」
「え」
「ちょっっっとだけね。ほんと、小指の爪くらいちょっとだから。……まっ、あいつらに殺されないように、今日はもう帰りな」
それじゃあね、とわたしは手を振った。辻くんはぽかんとした顔をして、「あ、う、うん。あ、ありがとう?」と困惑した声で言って、わたしたちはそこで別れた。
ずんずんと、大股で進んでゆく。どんどんと喧騒に近づいてゆく。
みんな、色んなことを考えて、色んな思いを抱えて生きているのだ。そういうことに、なんだか胸がざわざわする。見えていた景色が自分の背中から、ものすごい勢いで私だけを置いて前へ進んでいくような……そんな奇妙な感覚がまとわりついて離れない。
いつかのパパの言葉が、頭のなかでやけに響く。
現状を変えてしまって後悔するより、現状を変えずにいて後悔する方が、気持ち的にずっと楽……。
わたしは、歩を探さない方が良かったのだろうか。
そうしたら、あんな風に突き放すようなことを言われることは、なかっただろう。
辻くんは、お母さんに会いに行かない方が良かったのだろうか。
そうしたら、お母さんのそばにはもういられないのだと打ちのめされることは、なかっただろう。
――でも、もし本当に、行動をしない方が良かったというのなら。
今こうして、ジタバタしながら生きて、行動していることのすべては、無駄なことなのだろうか?
歩きながら、奈々に送ったメッセージの画面を見る。意外なことに、既読マークがついていない。心配になって、速足で別れた場所を目指す。会場の人たちは皆、花火を少しでも良い位置で見ようと運動公園の方へ移動を始めているため、その流れに逆らうように歩くのは骨が入った。
人込みをかき分けて、なんとかたこ焼き屋の屋台の前に戻ってきた。煌々と揺れる提灯の下に、紺の浴衣を着た奈々の背中を見つけて、ホッとした。
「な――」
奈々、と名前を呼ぼうとして、頬を叩かれたように踏みとどまる。
奈々の隣に、金色の髪の男の子――歩がいた。
二人は喧騒の中を会話しているせいか、妙に顔を近づけて話していた。時折、ふっと微笑み合ったりなんかして。当たり前だが、二人が話している内容は、わたしには聞こえてこない。
色とりどりの提灯の下。人込みから少し外れた、屋台の影。ぱりっとした着物姿の奈々に、世界から切り離されたような金髪の歩。
その光景は、なんだか目がチカッとするほど――とても、とても鮮烈で美しく見えた。
わたしはくるんと回れ右をして、人込みの中を再び歩き出した。
どうか、どうかわたしが戻っていたのが、二人にバレていませんようにと祈りながら。
いや、心配しなくともきっと、あの二人にはわたしのことなんて、見えていなかっただろう。
♪はああ 踊り踊るなら ちょいと東京音頭 ヨイヨイ
なんだかすごく、頭が痛い。
*
その夜、わたしは夢を見た。
夢の中で、わたしは小さな子どもだった。うんざりするほど暑い、夏の日。べたつく髪と肌、頬を撫でる生ぬるい風、小さな足で探検するには広すぎる団地の中――。
……ああ、サイアク。これ、悪夢だ。
げんなりするわたしの意識をよそに、夢の中のわたしはずんずんと歩みを進めてゆく。
わんわん鳴く蝉の声。カンカン照りのお日様の下で、帽子も被らず、日陰にも入らず、ただじっと、アスファルトに転がるタマムシの死骸を見つめる男の子を見つけるまで。
「なにしてるの?」
声が聞こえてきた。舌足らずな、幼い声だ。
でも、わたしの声じゃない。
そこには、幼いながらにすでに目鼻立ちの整った、かわいらしい女の子がいた。長くてさらさらの髪に、くるみのような瞳、小さくて尖った鼻に、白い肌。不思議なことに、汗一つかいていない。夢の中だからなのかもしれないけれど、でもその涼し気なかんじが、わたしにはとても眩しく見えた。
女の子と男の子は、出会うべくして出会ったみたいに、すぐに打ち解け、お互いのことを好きになった。
小学校に入っても、中学生になってもずっと、その関係は変わらない。たまに小さな言い争いはするけれど、意地っ張りな男の子のために、お姉さん気質な女の子の方からたいてい「ごめん」と謝って、男の子も「俺もごめん」と謝る。そうやって二人は、少しずつ、少しずつ親しくなってゆく。わたしはその光景を、ただじっと眺めていた。
二人は、漫画やドラマに登場するヒロインとヒーローみたいだった。
そうか、あの日。
わたし、歩に声をかけなければよかったんだ。
そうしたらきっと、わたしみたいに口うるさくて可愛げのない奴と幼馴染になんてならなくて済んだのに。
あの日、歩に声をかけたのが、わたしじゃなくて奈々だったら――
歩は、川にスニーカーを捨てたりはしなかったのだろうか?
翌日、わたしは熱を出した。
風邪なんてめったに引かない健康優良児として十四年を過ごしてきたわたしは、体が上手く動かなくなるその久々の感覚に、かなり戸惑うのだった。
「三七度九分……ちょっと高いわね。ママ、お昼休みに一度様子を見に戻ってくるから、熱が下がらなかったら病院に行きましょうか」
「いい、大丈夫」
「そんながびがびの声してなに言ってんの」
呆れたような言葉のわりに、ママは心配そうにわたしの顔を覗き込んだ。
ママの言う通り、わたしの声は発している自分でもかなり聞き苦しく、童話に出てくる悪い魔女のようにしゃがれてがびがびだった。
「とにかく、今日は大人しくしていなさい。何かあったら連絡するのよ。ママ、今日は一日、スマホ持ってお仕事するから。わかった?」
「ん。わかった。行ってらっしゃい」
ベッドの中でもぞもぞと寝返りを打ちながら、ママを見送る。バタン、と扉が閉まった数秒後、ガチャンと鍵のかかる音がして、そこでやっと、室内は静寂に包まれた。
喉が痛い。鼻水がずるずる出てうっとうしい。頭がぼうぼうする。そのせいか、なんだかやたら、情けない気持ちになってしまう。
でも、熱が出たのは、ある意味好都合だった。結果的に、奈々に嘘をつかずに済んだから。
……いや、まあ、厳密に言うと嘘はしっかりついたんだけれど、でも、説得力が出たっていうか、結果的に本当になったっていうか。
昨日、屋台の影で話す二人の姿を見て、回れ右をして家に帰った後、まさかそのまま何の連絡もしないわけにはいかず、わたしは奈々にメッセージを送信した。
『ごめん、なんか体調悪くなっちゃって、先帰る』
『ほんとごめん!』
土下座をするくまのスタンプを添えて送信すると、ものの数秒で既読がついた。そして、やっぱりものの数秒で返事が返ってきた。
『大丈夫?』
『人酔いしたのかな~!? お大事にね!』
その毒気の全くないかんじに、わたしは自分のことが更に嫌になった。メッセージの後に送られてきた、心配そうに眉を寄せる女の子のスタンプを眺めながら、「うー」とうなり声を上げたりもした。
ずず、と鼻をすする。瞼を閉じて枕を抱きしめると、うとうとと眠たくなってくる。窓の外から、ゴミ収集車の妙に陽気な音楽が聞こえてきて、それがまた一層眠気を強くする。
そういうものにあらがうなんて無駄なことはせず、わたしはそのまま素直に意識を手放した。
次に目を覚ました時、体の熱さは収まっていなかったけれど、だるさや頭痛はだいぶよくなっていて、自分のその回復力に驚いた。
時計を見る。時刻は十六時半。
……おどろいた、随分眠ってしまっていたみたいだ。
のそのそと起き上がってリビングに行くと、今朝の言葉の通り昼に一度帰ってきたのであろうママからの書置きがあった。
『ぐっすり寝ていたので、ママは仕事に戻ります。冷蔵庫にりんごとゼリー、お鍋におかゆがあります。ちゃんと食べること! 調子が悪くなったらいつでも連絡して。』
書置きのおしまいには、きれいな楕円じゃなくて、先生がテストの採点をする時みたいなちょっと乱れた〇に、棒が二本とナイキのロゴみたいな口がついた、ママがよく描く雑なにこちゃんマークが添えられている。冷蔵庫をあけると、懸賞でもらったムーミンのお皿の上に、ウサギ型の林檎がいくつか並び、ラップでくるまれていた。
一時間しかない休憩時間に、わざわざ自転車を漕いでここに戻ってきて、おかゆを作ったり林檎を剥いてくれたりしたのだろうか。スーパーのパートは立ち仕事で、疲れているはずなのに。
そう思うと、ありがたさと共に胸にぐるぐると罪悪感のようなものが渦巻いて、それを払拭するように、わたしは林檎をひとつ口に含んだ。しゃくっ、と音が鳴って、甘い果汁が口に広がる。全然意識をしていなかったけれど、ものすごく喉が渇いていたみたいで、わたしは林檎を二つ三つとあっという間にたいらげてしまった。
体温計を脇に挟んで、体温を確認する。三十七度三分。うん、平熱よりはまだちょっと高いけど、朝よりはだいぶよくなった。
壁かけ時計をもう一度見る。いつもなら、ママがパートから帰ってくる時間を少し過ぎている。今日はちょっと遅いみたいだ。何かあったのだろうか。
扇風機の風にあたりながらぼんやりそんなことを考えていると、ちょうどよくガチャンと音がした。
「あ、お帰、り…………どうしたの?」
帰ってきたママは、ぼんやりとうつろな目をしていた。動揺しているみたいだった。エコバッグをとすんと床に置いて、そのまま真っすぐ、亡霊みたいな足取りで椅子に座る。
「……ママ?」
「……今日ねえ、帰りがけ、中村堂さんって、ほら、あの古い文房具屋さんの前に、パトカーが停まってたの。ママ、気になってちょっと覗いてみたら、歩くんがいた」
その名前に、わたしは心底ぎくっとして、
「万引きですって」
――心臓が、本当の本当に、痛くなった。
「初犯だし、ほら、あそこのおじさんとは、あんたも歩くんも顔馴染でしょ? 昔から良くしてくださってて。だから、今回かぎりは厳重注意でどうか穏便にって、庇ってくださってね。ママ、ちょうど通りがかったから、歩くんと一緒にお店のおじさんとお巡りさんに謝って帰ってきた」
言い切ると、ママは眉間を揉んだ。今にも泣き出しそうな表情だった。無理もない。小さなころから、わたしとずっと一緒だった歩。ママにとっては歩だって、自分の子ども同然に思えていたのだろう。
「ママ、なんだかすごく、悲しくなっちゃった」
ママは一度、泣きそうな顔でそう言って、
「すごく、悲しくなっちゃったよ」
と。
やっぱり泣きそうに、繰り返した。
わたしの夏風邪はその後しばらく尾を引いて、一週間くらいの間けんけんこんこんと咳が止まらなかった。でも、その方がかえって都合が良かった。
色んなことが起きすぎて、外に出ること自体がなんだかすごく億劫に思えたし、だから家の中にいる正当な理由があるのは心強かった。
べつに、わたしが家にいたって誰に何を言われるでもないことはわかっている。でも、『外に出たくなくて家にいる』のと、『風邪を引いているから家にいる』のとでは、気の持ちようがだいぶ違う。そして、その気の持ちようというやつは、今のわたしにとってはかなり重要なことなのだった。
わたしの夏休みは、だから、そんな風に呆気なく終わっていった。
終わりかけの線香花火が急ぎ足で火花を散らすみたいに、呆気なく。
新学期の教室に、歩の姿はなかった。
わたしはそれに、ほんの少し悲しくなって、ほんの少しホッとした。
「ねえねえ! 須藤くん、万引きして捕まったんでしょ?」
でも、その“ホッ”は、すぐに打ち消されることになる。
登校するや否や、普段話しかけてもこないようなクラスメートたちがわたしの元へ寄ってきて、わくわく、きらきら、と効果音がつきそうな瞳でそう訊いてきた。
「五組の佐々木が現場見たって!」
「盗った商品横流ししてお金稼いでるってホント?」
「てか、少年院送りになったんだよね!?」
「バカ、万引きくらいじゃ少年院には入らないだろ」
「隣町の暴走族に入ったとか、」
「違うよ、ヤクザの仕事手伝ってるんでしょ? ほら、水商売やってるお母さんの知り合いの」
「純ちゃん、どうなの?」
くらくらした。
わたしは深くため息をついて、「あいつに、そんな度胸あるわけないでしょ」と短く言った。それ以上話しかけてこないで、の意味を込めてドカッと自分の席につくと、周囲はそれを察したのか一瞬静かになり、そしてやっぱり一瞬で「二年になってから様子おかしかったもんな」「もう学校来ないのかな」「来れないだろー、こんなに噂広まっちゃ」と話が再開された。
久しぶりに着た学校の制服は、ひどく窮屈だ。
わたしは、ひょろひょろのリボンをぎゅっと握りながら、いら立ちを外へ逃がすようにため息をついた。
「純、おはよ!」
そこに、爽やかな風が吹いてきた。顔を上げると、奈々がいた。にこにこ笑って、嬉しそうに「体調どう?」と訊いてくる。奈々が来ると、買ったばかりの塗り絵に最初の色がついたように、視界が華やかになる。
「ん、もうだいじょぶ。お見舞いありがとね」
「んーん。うちのママが、どうしても持っていけって。でも、おいしかったでしょ? あのスイカ」
「超おいしかった。パパなんて、皮の部分スレスレまでスプーンでこそいで食べてた」
「あはは! ママが聞いたら喜ぶよ」
奈々はあの後一度、うちにお見舞いにきてくれた。風邪をうつすと悪いからって理由で、顔を合わせることはなかったけれど。
……いや、本当は、奈々がお見舞いに来た頃には、風邪なんてほとんど、完璧といっていいくらいに治っていた。だから、会おうと思えば会えた。でも、会わなかった。
奈々と話をするのが、怖かった。
もし――もしも、歩と付き合うことになった、なんて言われたら、わたしはきっと、色んな感情がごちゃごちゃになってしまうだろうから。そして、ごちゃごちゃになったら、前と同じように笑えなくなる気がしたから。
そうこうしている間に担任がやってきて、久しぶりだなとか、宿題ちゃんとやったかとか、当たり障りのないことを喋ったのち、何事もなく授業が開始される。夏休み前の延長みたいに。長い夏休みなんて、なかったみたいに。
「吉野、悪いんだけど、ちょっと来てくれるか」
放課後。さっさと帰ろうとしたわたしを、疲れたような顔で担任の小田先生が引き留めた。わたしは奈々と顔を見合わせ、ぱちくりと瞳を瞬かせた。
「須藤のことで、ちょっと」
続けざまに放たれたその言葉に、ああ、と納得する。ていうか、声をかけられた時点で、薄々そうだろうとは思っていた。
「わかりました」
「純、あたしも行こうか?」
「ううん、大丈夫。先帰ってて」
「でも、」
「大丈夫だから」
思いのほか、強い言い方になってしまって、自分で自分に驚いた。奈々も驚いた顔をしている。わたしは慌てて「だって今日、ほら、ピアノの日でしょ? 早く帰んなきゃじゃん」と言った。
「今日はピアノじゃなくて、英会話だけど……」
「あ、そっか、そうだった。とにかくうん、忙しいでしょ」
「……わかった。じゃ、先帰るね」
奈々はやっぱり心配そうにしながらも、鞄を肩にかけてわたしに手を振った。
担任に連れられて廊下を歩く。周囲から時折飛んでくる視線は、まさにこれから刑が執行される囚人を見るかのようだった。
職員室の向かいにある、『生徒指導室』に入るのは、はじめてのことだった。
入るとすぐ、靴を脱ぐ狭いスペースがあって、小さな段差の向こうは畳の部屋が広がっている。学校の中に、こんな部屋があるなんて知らなかった。
畳の部屋にはおばあちゃんの家にあるような年季の入った木のテーブルが一つ置かれていて、入って左手の壁側に、校長先生が座っていた。
「ああ、こんにちは」
毎週月曜の全校集会では必ず顔を見かけるけど、こんな風に一個人として話しかけられるのははじめてで、わたしはなんだか妙に緊張してしまった。
校長はわたしのそんな緊張を見透かしてか、どこか気分良さそうに「そんなに固くならなくていいから、はは」と言った。室内はわずかに香水のにおいがして、それがいかにもおじさんくさくて、わたしは僅かに顔をしかめた。
「早速だけど、須藤のことで、お前に訊きたいことがある」
小田先生と校長が並んで座り、わたし一人を真っすぐに見る。小田先生はまだ若い、二十代の先生だから、もう五十歳を過ぎているであろう校長先生の隣に座ると、わたしたちと同じ子どもみたいに見える。
「夏休み中に、須藤が何日も家に帰らなかったってことは、お前も知ってるな?」
「……はい、まあ」
「聞いた話によると、大学生のグループとつるんでるとかどうとか。髪を染めたのもその影響だと俺は思ってるんだが、お前、何か訊いてないか?」
「何かって、なんですか?」
「だから……どうして急に、そんな風になったのか。二年の春まではあいつ、成績もそんなに悪くない、優等生だったろ。それが、急にあんな風になるなんて、何かきっかけがあったとしか思えない」
「はあ」
「君ももう、知っているだろうけれど、」
小田先生の横でずっと黙っていた校長が、不意に口を開いた。話すと目じりの皺が一層濃くなる。
「彼はこの夏、窃盗で警察のお世話になってね。君のお母さんが立会人になったんだろう? 幸い初犯だったからって、厳重注意で済んだようだけど」
「それが、どうしたんですか」
「うん。こんなこと、本当は言いたくないけれど……彼は、本当に初犯だったのかな。君、どうだろう。例えば今回より前に、盗んだものを自慢されたりとか、しなかった?」
びっくりした。何を言われているのか、よくわからなかった。いかにも優しそうな笑顔を浮かべながら、そんなことを訊いてくるなんて。
「中学生くらいの、特に男の子はね、ちょっと悪い年上のグループに影響を受けたりしてしまうことは、そう珍しくないんだ。そういう風になってしまう理由はいろいろあるけれど……単純にお金が欲しいとか、周りの大人に対して不満があるとか、あとは、女の子の気を引きたいとか」
「歩は、そんなバカじゃありません」
「うん、そうだよね。もちろん、我々もそう思っているよ」
強く言い返したつもりなのに、子猫をなだめるみたいに柔く躱されてしまう。慣れてますよ、君みたいなのの扱い方は知り尽くしていますよとでもいうように。
ものすごく――声も届かないほど、ものすごく遠くにいる人と話しているってかんじがする。何を言ったって、到底届かない。
そしてきっと、届かない言葉はなかったことにされてしまう。
「学校側としても、これ以上事態を大きくしたくはないんだ。君たちみたいに多感な時期にある子は、周囲の影響を驚くほど受けやすい。まあ、そういうことは、君たち自身にはまだよくわからないだろうけれどね。須藤くんにそんなつもりがなくても、周りの子たちが須藤くんの影響を受けてしまうかもしれない。……そうなる前に、事態を解決したい。もちろん、須藤くん自身のためにも。わかるね。わかってくれるね?」
わたしは、相変わらずの笑みを浮かべる校長先生の目を強く、強く訴えるように見て、それから小田先生に視線を移した。
小田先生は一瞬ぎくっとしたような顔になって、それから「どうだ、吉野。何か、何でも良い、知ってることはないか?」と言った。
「……わたし、知りません。何も」
喉のあたりが苦しい。ぎゅうっと思い切り、首を絞められているみたいに。
「でも、」
真っすぐ前を向く。そうしないといけない気がしたから。
「でも、でも歩が、お金が欲しいとか、周りの大人に何かをわかってほしいとか、ましてや女子の気を引くためだけに悪事を働くような奴じゃないってことくらいは、知ってる」
「……うん、そうなんだね」
「その、『うん』って言うの、やめて。なんにもわかってないくせに、わかったような顔しないで」
そう言うと、校長は表情を凍り付かせ、小田先生はわかりやすく顔を青くした。
室内に、沈黙が広がる。生徒指導室の外から、これから部活へ向かうであろう生徒たちの騒がしい声や足音が聞こえてくる。
「……それじゃあわたし、もう行くので」
「おい、待ちなさい、吉野。なんだ今の口のきき方は。校長先生に失礼だろ!?」
「いや、いい、いいんですよ、小田先生」
校長はすぐに、さっきまでの優しい笑みを浮かべ直した。どんなに虚を突かれても、大人は立て直すのが随分早い。
「ようするに君は、須藤くんから本当に何も聞かされていなくて、何一つ事情を知らないわけだ。幼馴染の君になら信頼して何か相談しているかもと思ったんだが、見当違いだったみたいだ。悪かったね、もう行っていいよ」
穏やかに聞こえるその言葉には、確かにトゲがあった。小田先生のような若い先生の前でコケにされたのによほど腹が立ったのか、元々沸点が低い人だったのか。べつにどっちでもいいけど、わたしみたいな中学生にムキになっているようでは、タカが知れているというものだ。
「失礼しました!」
わたしはわざと大きな声でそう言って、やっぱりわざと、大きくぴしゃんと音をたてて戸を閉めた。たまたま通りがかった周りの人たちが、生徒指導室から憤怒の表情で出てきたわたしを、興味深そうに眺めてくる。こりゃ、明日には噂のターゲットが、歩からわたしに代わっているかもしれない。どうでもいいけど。
近頃妙に、色んな人が、色んなことを言ってくる。
言われるたびに、背中にどしんと何かが圧し掛かる感じがする。重くて、そのままどんどん沈んでいって、でんぐり返ししてしまいそう。そのままごろごろ転がっていって、どこか遠くへ行けたらいいのに。
下駄箱で靴を履き替えて、外へ出る。野球部たちが練習をしている。
その集団の中に、あの日、お祭りで辻くんをいじめていた奴らがいるんじゃないかと、なんとなくそんなことを思ったが、坊主頭の男子中学生なんてみんな同じに見えて、すぐにふいっと視線を反らした。
なんとなく、そのまま真っすぐ帰る気になれなくて、わたしは町をぶらつくことにした。
少年野球のチームがランニングをする河川沿い、暑さのせいか、人っ子一人いないバスロータリー、錆びた自転車が放置された公園。
でも、どこへ行っても、制服姿でいかにも所在なさげなわたしの存在は、なんだか浮いている気がした。
子どもって――中学生って不自由だ。どこか遠くへ行きたくたって、働けないからお金が稼げないし、お金が稼げないとどこへも行けないし。
それからわたしは、自然とそこへ流れ着いたかのように、学校から少し離れた閑静な通りにある、ガラス張りの建物へと足を延ばした。
その建物は、ススキ台グリーンセンターといって、簡単に言えば市が運営している小さな植物園だ。
入園料は無料で、誰でも自由に出入りできるのに、大通りから少し離れているのと、長い階段を上らないとたどり着けないちょっと不便な立地にあるせいか、いつ来てもがらんとしていて人気は少ない。
温室にはたくさんの植物たちが背を伸ばして生き生きと生えている。パキラとかポトスとかモンステラとかの合間を抜けて、外のガーデンコーナーに出る。
植物を見ていると、ほっとする。ただ水を吸って、肥料を吸収して、咲いては枯れてを繰り返してゆく。その単調さが、好きだ。
ガーデンベンチに腰かけてぼうっとしていると、視界の端でちらりと人が動く気配がした。その人影は、まるで誰かを探しているようにしばらくわたしの視界を行ったり来たりしている。振り向いて目があったら気まずいし、と思ってじっとしていると、そこで、館内にアナウンスが流れはじめた。『――当館は、午後五時で、閉館となります。本日も、ご利用いただき……』。
来たばかりなのにな、と拍子抜けしていると、
「……ねえ、やっぱりあなた、この間の子じゃない?」
と。
『――まことに、ありがとうございます。またのご来館を……』の声を背に、その人はわたしの顔を覗き込んだ。その拍子に、なんだか胸がギュウッとなるような、とても良い匂いがした。
「やっぱりそうだ! あたしのこと、覚えてる?」
「や……」
「すみませーん、もう閉館でーす」
「あ、はーい! ……ねえ、ここで会ったのも何かの縁だし、ちょっとお茶しようよ。奢るから。ねっ? そうしよ!」
ぐい、と半ば強引に手を引かれる。沈みかけの夕日を背に、長い金髪がゆらりと揺れる。
世界がぐるんと、まさしくでんぐり返したみたいに一周して、わたしはその人――八千代さんに引かれて植物園を出た。
「えーと、このさっぱり桃のジョッキパフェ二つと、ドリンクバー二人分。あと、クーポンあるんですけどお会計の時でいいですか? あ、今? じゃ、これです。はい。よろしくお願いしまーす!」
てきぱきと手慣れた様子で注文を済ませた八千代さんが、さて、とメニューを置いてこちらに向き直る。
ここは、駅のほど近くにあるファミレス。夕飯時だからか、お客さんの姿はそこそこある。店内では店員さんたちが世話しなく歩き回り、人々が談笑する声や、食器の音や、ピンポーン、という呼び出しボタンの音がひっきりなしに響いている。
「とりあえず、先ドリンクバー行っておいでよ。待ってるから」
「あ、ありがとうございます」
「ん」
頬杖をついて、にっ、と歯を見せて笑う八千代さん。その肩の力の抜けたかんじに、わたしの緊張も少しほぐれる。
筒状のガラスのコップをとって、スコップでがしょがしょと音をたてて大ぶりな氷を二つ掬う。ドリンクバーの機械の前で立ち止まり、何を飲もうか一瞬迷ったが、メロンソーダの表示を見つけて吸い込まれるようにボタンを押した。なんとなく、ドリンクバーではメロンソーダを飲んでしまう。コーラとかサイダーとかと違って、家じゃあんまり飲めないから、物珍しいっていうか……。
ストローをくるくる掻き回しながら席に戻ると、八千代さんが「おかえり。じゃ、次あたし行ってくるね」と言って席を立つ。その姿をぼうっと目で追いかけてみると、八千代さんは流れるような動作でコーヒーマシンの前に立ち、カップにコーヒーを淹れて戻ってきた。大人だ。
「いやー、急に誘ってごめんね。門限とか大丈夫だった?」
「あ、はい。親には一応、連絡したので」
「そ。てか、今の若い子ってもう当たり前みたいにスマホ持ってんだねー。すごいなー」
「今の若い子って……そんなに変わんないじゃないですか。八千代さん、大学生なんだし」
「いーや、変わるね! 大学生と中学生じゃ、ぜんっぜん違うよ。……って言ってもまあ、あたしは学生じゃないんだけどね」
「え」
「あれ、やっぱ勘違いしてた? あたし、フリーター。歳は今年で二十一だから、まあ世間一般的にはまだ学生の年齢だけどね」
ぱちぱちと、思わず瞳を瞬かせる。てっきり、浜北大学の学生さんなんだと思っていた。
「あたし、神崎と違って頭良くないからさ。だって、大学に入るって、あれでしょ? 勉強するために勉強して試験を受けるってことでしょ? むりむり、超むり、堪えらんない。純ちゃんは勉強得意?」
「いや、全然です」
「うはは! 好きな教科体育って言ってたもんね。もしかしてあたしたち、似たもの同士なんじゃない!?」
嬉しそうに笑う八千代さん。その笑い声を聞いていると、なんだか今日のゆううつが吹き飛ぶようだった。
そうこうしている内に、二人分のパフェが到着した。『ジョッキパフェ』の名前のとおり大人がビールを飲むような大ぶりのジョッキに、クリームやらコーンやらフルーツやらがこんもり盛られている。持ち手の部分は分厚く、手のひらいっぱいを使って掴まないといけないほどだ。
「きたきた! 食べよ!」
「あ、は、はい」
細長いスプーンを手にもって、いただきます、と手を合わせる。匙で生クリームをすくって、まずは一口。
「……おいしい」
「ん~~~~っ! 最高!」
うっとりした顔で、八千代さんが言う。その声の大きさに、何人かがこちらを振り向く。こんなに喜怒哀楽がはっきりした人、わたしの周りには全然いない。わたしは若干面食らいつつも、なんだか可笑しくて、ふふ、とちょっと笑ってしまった。
薄いウエハースを手にとって、バニラアイスとクリームをつけて口へ運ぶ。甘くておいしい。それから、コーンフレークの下に隠されたスポンジケーキにカットされた桃をひとかけらのせて、小さな桃のケーキを作る。なんだか、楽しくなってくる。
「この前は、ごめんね」
不意に、八千代さんがわたしに言った。
深刻ってほどじゃないけど、でもさっきまでの明るいかんじとは違う、かしこまった声色だった。
「怖かったでしょ。あんな柄の悪いやつに、あんな柄の悪いこと言われて」
「い、いえ」
怖くなかったといえば、嘘になる。実際、心臓バクバクだったし。
「あいつね、すっごいガキなの。気に食わないことがあるとすぐ癇癪起こして、周りに当たり散らしてさ。歩ちゃんのこと、ずいぶん気に入ってたみたいだから、純ちゃんに取られちゃうと思ってムッとしたのかも。……いや、ほんと、小学生? ってかんじだけど」
「あの、歩と神崎さんって、どういう関係なんですか?」
「どういうって?」
「だから……つまり、どうやって知り合ったのかなって」
「ああ」
ジョッキの中で生クリームとコーンをかき混ぜるようにしながら、八千代さんが頷く。
「川で拾ったって」
「は?」
「おっかしいでしょ。桃太郎かよ」
てっきり冗談を言われたのかと思ったが、八千代さんは発言を特に訂正するでもなく、ぱくぱくとパフェを食べ続けている。
「まあ、要は川べりにいた、いかにも家出少年っぽい歩ちゃんを、神崎が面白がって連れてきたってわけよね。で、歩ちゃんはそれからずるずるあいつと一緒にいる。流石に、親御さんに何日も連絡せずにあの家に入り浸ってるとは思わなかったけど」
「じゃ、二人は友達ってことですか?」
「ん~~~~……友達……う~ん、そんなきれいな言葉遣ったら、あいつ怒りそうだけど、まあ、うん、そうなんじゃない?」
「……歩、この前怪我してたんです」
そう言うと、八千代さんは目を丸くした。少し離れたところから、がしゃん! と食器が割れるような音がして、次いで「大変失礼いたしました!」と店員さんの謝る声が聞こえてくる。店内はいつの間にか満席になったようで、店員さんたちは随分忙しそうだ。
「それ、マジ?」
「はい。あ、でも、神崎さんのせいって言いたいわけじゃなくて、あの、」
「いやあいつのせいに決まってるでしょ! もう、マジでサイアク、どういうつもり!? 待ってね、いまガツンと……」
「わーっ! 待って待って、やめてください!」
怒りの形相で鞄からスマホを取り出し、手早く通話アプリをタップしだした八千代さんに、あわてて制止をかける。八千代さんは「なんで!? だって、中学生に手出すなんて、あり得ないよ!」と叫んでいる。周囲の視線が痛い。
「わたし、歩にもう関わるなって言われてるんです! だから、わたしが八千代さんに告げ口して、それで神崎さんにこの話が伝わったら、その、えーと、」
どう言えばいいのか、言葉が出て来ない。喉の奥がぎゅっと締まって、苦しい。
この頃わたしはいつもそうだ。言いたいことを上手に言う力がなくて、苦しい。
しかし、しゅんとしぼみこむわたしを見て、八千代さんは事情を察したのか、「わかった、わかったよ。電話しないから、大丈夫」と優しく諭すように言った。
「……あたしもね、最近少しずつ、あいつと距離置くようにしてんの。あたしたち、小学生の頃からの腐れ縁で、昔はよく一緒にいたんだけど、でも最近のあいつにはついていけないっていうか」
八千代さんは言った。どこか迷うような口ぶりだった。
スマホをそっとテーブルに置いて、窓の外に目をやる。少しずつ、陽が落ちるのも早くなってきた。
「あいつの家、すっごいお金持ちでさ。昔から、みんなが欲しがるおもちゃもゲームも漫画も、なんだって持ってた。いっつもピカピカの服着て、にこにこ可愛く笑ってさ。今はあんなだけど、昔はほんと可愛くて、人気ものだったのよ。ま、子どもって現金だから、あいつが人気ってよりは、あいつの持ってるおもちゃやら何やらが人気だったってかんじもするけど。それに対して、あたしん家は超ビンボー。風が吹けば飛ぶようなあばら家に、家族八人身を寄せ合って暮らして」
「八人!?」
「うん。お父さんお母さん、おじいちゃんおばあちゃん、あたし、弟、弟そのに、妹。すごいっしょ? もう、毎日運動会。大騒ぎよ。」
それは確かに、ずいぶん賑やかな家庭だ。でも、八千代さんのさっぱりしていて力強い物言いは、言われてみれば確かに『長女』ってかんじがする。
「あたし、昔は正直、神崎のこと嫌いだった。いけ好かないやつって、そう思ってた。でも……でもあいつ、あたしの前で一度だけ、泣いたことがあって、」
夢見心地みたいな口調で、八千代さんは言った。ジョッキの中の生クリームは、少しずつ溶けだしてしまっている。
「まだ幼稚園の妹と二人で、お遣いに行った帰りだった。学校の近くの公園のベンチで、この世の終わりみたいに暗い影を落として俯く男の子がいたから、あたし思わず、どうしたのって声かけたの。最初はそれが神崎だと気づかなかった。だって、だっていつもきっちり仕立てられたような服着てるあいつが、その時は部屋着みたいなTシャツ姿だったの。まるで、衝動的に家出してきたみたいだった」
頭の隅で、幼い神崎さんと八千代さんの姿を思い浮かべた。でも、神崎さんの姿は、どうしたって歩で再生されてしまう。
「話を聞くと、お父さんを怒らせちゃったから帰れないって、あいつ言うの。だからあたし、なーんだって笑ってやった。そんなことかって、そう思った。それから、あたしもトイレの蓋閉めなかったり、靴を揃えなかったり、宿題後回しにしたりしてよくお父さんに怒られるよ、お父さんどころか、お母さんにもおじいちゃんにもおばあちゃんにも怒られる。なんなら、クソ生意気な一個下の弟すら小言言ってくる。だから大丈夫だよって言ったら、あいつちょっと笑ってた。あたし、なんか嬉しくて。神崎のこと、ずっと遠い世界の住人みたいに思ってたから。
だから、怖いんならあたしが一緒に謝りに行ってあげるって言ったの。何したのか知らないけど、でも二人で謝れば流石に許してもらえるでしょって。……そしたら、そしたらあいつ、」
八千代さんは、ふう、と息を吐いてから、言った。
「……こんなに優しくしてもらったの、うまれてはじめてだって笑った後に、ちょっと泣いたの」
ピンポン、と何度も呼び鈴が響く。少々お待ちください! とどこか苛立ったように店員さんが叫ぶ。わたしと同い年くらいの女の子のグループが、なにやら甲高い声で笑い声をあげては机をばしばし叩いている。そういう雑音が、随分遠くに感じる。
「あーあ! いつからかなあ。あいつがあんな風にしか、自分の気持ちを伝えられなくなっちゃったの。……あんなんじゃ、周囲の人はもちろん、あいつ自身も幸せになれないじゃんね。バカみたいよ、本当」
わたしの目には一瞬、八千代さんが泣き出しそうに見えて、言葉に詰まった。べつに、声を震わせたわけでも、瞳をうるませたわけでもないのに。
でも八千代さんはやっぱり、どこか悲しそうだった。
食事を終えて、ファミレスを出ると、空はもうすっかりと暗くなり、丸い月が浮かんでいた。
「今日は付き合ってくれてありがとね。ほんとは送ってあげたいんだけど、これからバイトでさ」
「いえ、一人で大丈夫です。それより、すみません、お金、払ってもらっちゃって。ごちそうさまでした」
「ん。なんかあったら、またあの植物園においで。あたし、あそこ好きでさ、よく行くの。植物って、見てるとなーんかホッとするっていうか。それにあそこ、入館料タダだし」
「わかります。わたしも好きです、あそこ」
「やーん、うちらやっぱ、超気が合う!」
あはは、と明るい笑い声に、ホッとする。
それじゃあ、と最後に手を振って、歩き出す。湿った夏の夜の匂いを、胸いっぱいに吸い込む。日常が、すごい勢いで帰ってきた感覚に、ほんの少し心細くなる。
「……純ちゃん!」
すると、歩き出してすぐ背後から名前を叫ばれて、びっくりして立ち止まった。振り向くと、十メートルくらい先にいた八千代さんが、ちょっと迷ったような顔でこちらを見ていた。
「あのね! 歩ちゃん、あたしたちと一緒にいる時、いつも思いつめたような顔してたけど、でも純ちゃんの話をした時だけは、楽しそうだった。楽しそうだったよ!」
わたしは驚き、言葉に詰まって、
「だから、頑張れーっ!」
その真っすぐな一言に、なんだか胸がじんとしてしまい、「は、はい!」とどうしようもなく震えてみっともない返事を返した。そのままくるんと回れ右をして、逃げるように駆けだす。そうしないと、涙が出ちゃう気がした。
ここ最近で、わたしの周りを渦巻いていたあらゆるワードが頭の中でびゅんぶん飛び交う。
住む世界が違うからどうとか、好きとか嫌いとか、勇気を出すとか。
でも、その全部が今は、心底どうでもいい。
わたしやっぱり、歩を助けたい。
例え鬱陶しがられても、嫌われても、関わるなって突っぱねられても。
*
「あ、吉野さんじゃない。こんな時間にどこ行くの? ……って、何その顔」
ママやパパを安心させるため一度家に帰り、「ちょっとコンビニ行ってくる。ついでに奈々の家に寄ってノート返してくるから遅くなる」と嘘をついて団地を出た矢先、声をかけられた。げっ、と思いながら顔を上げると、辻くんがいた。
「べつに、あんたに関係ないでしょ。じゃあね」
「ま、待って! ……もしかして、神崎さんのところへ行くの?」
こういう時だけ、やたら勘が良い。……いや、振り返ってみたら辻くんは、元々わりと鼻が利くほうだ。
「まあ、そんなとこ」
「あ、危ないよ。だってこの前、言われたじゃん。僕らのこと、殺したいって」
「殺したくなる、ね」
「同じようなもんじゃん!」
「大丈夫。行って、話してくるだけ。もし歩があっちに居たら、引っぺがして帰ってくる」
「……ねえ、正気?」
「これ以上ないくらいね。……あのさ、辻くん。わたし、この狭い団地のこと、ずっと好きじゃなかったの」
「は? なに、急に、」
「切って貼られたみたいに似た建物がずらっと並んで、住んでる人もみんな同じような服着て、同じような生活してさ。……いや、好きじゃないっていうより、怖かったのかも。だって、そうでしょ? こんなに人がいっぱいいるところにいると、なんか、自分の代わりなんて掃いて捨てるほどいるんだって気になって、あーあって悲しくなった。たたでさえ窮屈だった狭い世界が、更につまんなく、灰色に見えたりしてさ」
「……」
「歩も……わかんないけど、もしかしたらわたしと同じだったのかも。自分がどうして今ここにいるのか、これからどうしていけばいいのか、今まで一回も考えたことなかったようなことが、急に圧し掛かってきて、途方もないような気持になったのかも。それで、だからなんとかしなくちゃって、怖くなったのかも。……でも、だからって変な道に進もうとしてるんなら、やっぱり見過ごせない。だって、色々言われて心底むかつきはしたけど、やっぱり幼馴染だし」
わたしは言うだけ言うと、「まっ、そういうことで」と踵を返し、そのまま歩き出した。辻くんの動揺が、背中越しに伝わってくる。「あ、」とか「うー、」とかうなるような声が微かに聞こえたけれど、やがてそれも聞こえなくなった。
バス停に到着するとすぐ、都合よくバスがやってきた。この前とは違って、一人で乗り込む。
そんなに遅い時間でもないから、車内にはけっこう人がいる。仕事帰りっぽいサラリーマン、制服姿の女子高生、学習塾の鞄を背負った子ども。みんな、一日の活動を終えて、どこか気の抜けた顔をしている。そんな人たちに挟まれながら、わたしはぼうっと窓の外に流れる街頭の光を眺めた。
そして、高校生になったら、アルバイトをしよう、と、そんなことを唐突に思った。
お金を貯めて、どこでもいい、どこかへ一人で旅をしてみたい。それで、高校を卒業したら、家を出よう。進学するか、八千代さんみたいに働く道を選ぶかどうかは、まだわからないけれど。でも、どちらにしたって、あの家を出よう。
なんだか妙に真面目に、ものすごく真剣で切実に、そう思った。それは決意と言っていいくらいだった。
そしてそうなると、わたしがあの家で――この町で暮らす期間は、ザッと見積もってあと四年ちょいということになる。
四年.
心臓が、ドキンと鳴るくらい、それはとても短い期間のように思えた。
どういう形であれ、わたしはあと四年と少しすれば家を出るんだ。そうしたらもう、今みたいに、辛いことがあったからといってパパやママが気遣ってくれたり、熱を出したからっておかゆを作ってくれたりすることはない……そう思うと、なんだか胸にぽっかりと穴が空いたかのように、心細くなった。
それは、大げさかもしれないけれど、気が早いって笑われるかもしれないけれど、永遠に続くと思っていた子供時代の終わりを予感し、不安や寂しさがないまぜになった、なんとも切ない感情だった。
みんな、こんな思いをして大人になってゆくのだろうか?
パパもママも、学校の先生も、八千代さんや――神崎さんも、そうだったのだろうか。
ピンポン、とベルを鳴らしも、返事は返ってこなかった。めげずにもう一度押してみる。返事は、やっぱりない。留守なのだろうか。最後にダメ押しでもう一度――
「るっせーな! 居留守使ってんだから大人しく帰れボケ……あ?」
三度目の呼び鈴が響いた後、蹴飛ばす勢いで開いたドアの向こうから、怒鳴り声と共に心底機嫌の悪そうな男の人――神崎さんが顔を出した。神崎さんは、驚きのあまり思わずかたまる私を見下ろすようにして、「なんだっけ、歩のあれじゃん、彼女」と言った。
「か、彼女じゃないです」
「どーでもいいわ。何? 何しに来たの? 俺今機嫌わりーんだわ」
確かに、そうみたいだ。この間みたいな笑顔を浮かべていないし、それどころか眉間に皺を寄せて、思い切り睨みつけられている。
「歩、来てますか」
「は? ……なに、迎えにきたの?」
「はい」
「なんで?」
「あなたの傍にいても、たぶん、苦しくなるだけだから」
そう言い切ると、神崎さんは射抜くようにわたしを見た。瞳の奥の奥まで貫かれるような鋭い眼差しだった。空気が重い。窒息しそうだ。
神崎さんはやがて、前髪をぐしゃっと掻き揚げるようにしながら、小刻みに肩を振るわせだした。
「く……はは、はははは! なに、母親気どりかよ。いや、違うな。彼女気どり? わかった、純ちゃん。お前あいつのこと好きなんだろ。な? 好きだからそんなに、健気に追い回してるんだろ。いいねえ、かわいいねえ、純愛だねえ。……でもあいつは、君のこと女として見てないぜ。同じ男だからわかる。可哀そうだけど、あきらめな。しつこい女は、うざいしキモいだけだから」
自分の体から、スッと体温が引いていくのがわかる。壁に肩をもたれて、心底楽しそうににやにや笑う神崎さんを見ていると、頭が妙に冷静になってくる。
わたしが傷ついて泣き出すのを期待したような、その歪んだ表情に、なんだか今までのすべてがバカらしく思えてきた。
そして思った。
そうか。
この人は、可哀そうな人なんだ。
「あんた、可哀そう」
だからわたしは言った。思うままを口にした。
「あ?」
予想していた反応と違ったからか、『あんた』と言われたのが気に食わなかったのか、その両方か。神崎さんは浮かべていた笑みを一瞬で凍り付かせ、低くドスのきいた声を発してわたしを睨んだ。
「好きだからどうか彼女とか女とか、人とのつながりをそういう風でしか人を見れないなんて、可哀そうだし、すごい幼稚。うちのクラスの男子の方が、もう少しまともな価値観してるよ」
「……なに、俺今、喧嘩売られてる? マジ?」
「ほら、それ。ちょっと言い返されたり、まして正論言われたらすぐ喧嘩売られてるってなるのも、小学生みたい。……でもきっと、しょうがないんだと思う。あんたはきっと、誰にも叱ってもらえなかったし、否定してもらえなかったから、そうなってしまったんだと思う。――でも、歩はあんたとは違う。だからあいつを、あんたの癇癪に巻き込まないで」
八千代さんの言葉を思い浮かべる。こんなに優しくしてもらったのは、うまれてはじめてだと泣いた小学生の神崎さん。この世の終わりみたいな顔をして、公園で一人うなだれていた神崎さん。
わたしはこの人の抱える事情なんて、知らない。全然知らない。
でも、人は小さな寂しさや絶望を少しずつ、少しずつ抱えていって、そしてそれを手放す術を知らずにいてしまうと、こうなってしまうのかもしれない、と、そんなことを思った。
その時、部屋の奥で、細い影がゆらりと揺れた気がした。
「――歩!」
ハッとして顔を上げた先に、歩がいた。
夏休み中に目にした頬の痣は、治るどころかさらに大きさを増し、顔半分埋め尽くす勢いだ。そのせいで、片目を開きづらそうにしている。口元は切れて血が滲み、Tシャツやズボンから伸びるひょろっちい手足には、内出血して赤黒く染まった個所がちらほら見受けられる。
「歩」
わたしは胸がいっぱいになってしまって、
「歩、帰ろう」
気づくと、頬が濡れていた。
――ああ、悔しい。絶対に泣きたくなかったのに、泣くまいと思っていたのに、とうとう耐えられなかった。
「帰ろうよ」
懇願するように言うと、歩は動揺したように視線をさ迷わせた。それから、じっと真っすぐわたしを見て、今度は怯えたように神崎さんの方を見た。
「帰るわけねーだろ、ナメんのもいい加減にしろよ!」
「い……っ」
「純!」
突然、髪を思い切り掴まれて、部屋の中に引きずり込まれる。そのまま勢いよく床に叩きつけられ、ガチャン、と扉が閉まる音がした。
しまった、と思った。
何があっても、どう転んでも、部屋の中には入らないようにしようと思っていたのに。その線だけは超えないようにしようと思っていたのに――
「ねえ、ねえねえねえ。マジでなんなの、お前。勝手にうちへ来て、勝手なことばっか言ってさあ。説教かまして気持ちいい? 正しいこと言ったって思ってる? 俺みたいなロクでもない大人に正論かまして、大事なお友達取り戻して、自分のこと映画やドラマのヒロインかなんかだと思ってるっしょ? なあ!」
ぺちぺち、と、しつけのように、脅しのように、頬を何度も叩かれる。力がこもっていないから痛くはないけど、少しでも力加減を誤ったら、鋭い平手打ちになってわたしを襲うだろう。胸倉をつかまれて、床に組み敷かれて、身動きを取ることができない。
「スバル君! 純は関係ない、前も言ったろ! 俺鬱陶しくて嫌いなんだ、こいつのこと、だからやめて、叩かないで!」
「じゃあお前が殴れ」
しん、と室内に静寂が流れる。神崎さんが私の腕を乱暴に掴んで立ち上がらせ、背後から羽交い絞めされる。両腕をがっちり固定されているせいで、スキをついて逃げ出すことは到底できそうにない。
「こいつの顔、思い切りぶん殴れ。歯の二、三本ブッ飛ぶくらいに。それで全部チャラにしてやる。それが終わったら、今度こそ盗み成功させてこい。あんな死にかけのジジイにバレるようなヘマ二度とすんじゃねーぞ」
「……」
「やれ」
歩の瞳と真っすぐに目が合う。
泣きそうだった。叫び出しそうだった。迷子の子どもみたいだった。十七時のチャイムが鳴っても誰も迎えに来なくて、自分はどうしてここにいるのかわからないって顔をしていたいつかの歩と、同じ表情だった。
「あんたが、望んでこの人の傍にいるんなら、それでいい。もう何も言わない」
わたしは言った。
「でも、そうじゃないんなら――戻ってきなよ」
「……」
「住む世界が違うなんて、寂しいこと言わないで」
「……」
「なんにも違わない」
「……」
「違わないよ」
歩の視線が、落ちる。
ぎゅっ、と硬く握った拳を一瞬宙に浮かせて、そのままくたんと振り下げる。
「おい――おい、お前、なにしてんの? 早くやれって。どっちにしろお前みたいな頭の悪い餓鬼に将来なんてねーんだから。お前のお友達は勘違いしてるみてーだけど、盗みはあれが初犯じゃねーし、俺はそれを知ってる。わかるだろ? お前はバカだから、俺に勝手に弱みを握らせた。お前は俺に、一生逆らえないんだよ!」
「…………い」
「あ?」
煮詰めたような重い沈黙の後、
「うるさいって言ったんだ!」
急に体が解放されて、そのまま、かくん、と膝の力が抜けた。
「歩!」
次の瞬間、歩が神崎さんに殴りかかって――でもその拳は呆気なく捕まってしまった。その一連の動きが、わたしにはスローモーションのように見えた。ドタン、バタン、と激しく音が鳴る。悲鳴を上げる暇もなく、鋭い打撃音が耳を劈く。
血が見えた。赤くて、鉄臭かった。
神崎さんの拳は歩の鼻に命中したようで、ぼたぼたと鼻血が漏れた。壊れた蛇口みたいに、血は流れ続ける。それでも神崎さんの勢いは止まらない。フーフーと興奮したように息を荒げて、歩の頸を掴み、そのまま宙に浮かせる。
「やめて、お願い、死んじゃう!」
「死ねよ! こいつ一人死んだところで、誰も困らねえんだわ!」
血だらけの顔で、ぎりぎりと首をしめられる歩。バタバタともがく両足の勢いが、段々と弱くなってゆく。
死ぬ。死んでしまう。
――歩が、わたしの世界からいなくなってしまう。
「いや……嫌だ、やめて! 助けて、誰か!」
「うわああああああああっ!」
その時。
アパートのドアが、勢いよく開いたかと思うと、外から激しい怒号と共に、真白い煙が入ってきた。
煙を噴射させる、不自然なほど黒い人影が一瞬見えたかと思うと、瞬く間に室内は白く染まり、思わず咽込んでしまう。神崎さんも同じだったようで、「あ!? おい、なんだこれ!」という咳混じりの叫び声の後に、どたっ、と何かが地面に落ちる音がした。
「歩!」
「――純、立って、行くよ!」
夢かと思って、思わず固まる。
「え……奈々!? なん、」
「そんなの後! 須藤くんも、ほら早く!」
煙の中から現れたのは、今ここにいるはずのない人物――奈々だった。
状況を掴めないわたしに、奈々はしびれを切らしたように「さっさとしろ!」と叫んだかと思うと、力強く腕を引っ張り上げ、強制的に立たされる。奈々はそのまま、今度は歩を起き上がらせて、肩を支えるようにしながら進みだす。
「待てやコラ、殺すぞ!」
しかし、そんな奈々の肩を、神崎さんが思い切り掴んで後ろへ引く。「きゃっ」と悲鳴を上げて、奈々がよろめく。
次の瞬間、
「――佐伯さんに触るなぁあああっ!」
ばこん、と音がして、うっ、と短い悲鳴が上がる。そのまま、神崎さんの大きな体が地面に蹲る。
見ると、白い煙の中に一人、黒いパーカーをきっちり着込んだ人物――辻くんがいた。
そうか、あの黒い人影は、辻くんだったのか。
はあはあと興奮したように呼吸を荒げる辻くんの足元には、滅茶苦茶に噴射を続ける消火器が転がっている。どうやら、背後から消火器で神崎さんを殴りつけたらしい。噴射は尚も、止まらない。――そういえば前に、消防訓練で学校にきた、消防士の人が言っていた。消火器の噴射は一度栓を抜いたら、中身が空になるまで止まらないのだと。
「佐伯さん!」
辻くんが奈々の手を引く。それを見て、わたしはハッとして、再び地面に転がった歩の顔を覗き込む。
かろうじて意識はあるようだが、殴られたのと、首をしめられたのとで、かなり危うい状態のようで、瞼は今にも閉じそうだ。
「歩、走れる? 行こう!」
「……でも、でも俺、お前に酷いこと、」
なにもかも今更すぎるその発言が、だけどいかにも歩らしくて、わたしはなんだかじんとしてしまった。
「……話は後! つーか、帰ったらめちゃくちゃ文句言うし、ていうか一発殴らせろってかんじだし、しばらく口きいてやんないつもりだから――だから覚悟してな!」
そう言うと、白く染められた世界の中で、歩は五歳の子どもみたいに、
「……うん」
と、返事をした。
逃げる、逃げる。最近のわたしは、逃げてばかりだ。
先頭を辻くんが、その後ろを奈々が、その後ろをわたしが、最後尾を歩が。
時折、後ろを振り返って、歩の様子を確認する。足取りはふらふら覚束ないけど、なんとかついて来れている。つないだままの手にぎゅっと力を込めると、弱弱しい力が返ってきた。
もうすぐ夏も終わる。生ぬるい外の空気は、わたしたちが日常に戻ってきたのだということを祝福してくれるようで、なんだか安心して涙が出そうだった。
運動公園に到着したところで、わたしたちは限界になり、立ち止まった。
大きな大きな池が、ぽっかりと口を開けてそこにある。空に浮かんだ月が、池に反射してゆらゆら揺れている。木々はざわざわと葉を揺らし、湿った土の匂いを孕んだ風が、わたしたちを足元から掬いあげるように吹き付ける。
最初に口を開いたのは、奈々だった。
「バカ純! なにしてんの!? なんであんな危ない目に遭ってんの!?」
「な、奈々――ごめ、」
「――須藤くん!」
長いまつ毛で縁どられた、美しい瞳が、般若のように歪んで歩の方を向く。
「あたしの親友を、二度とロクでもないことに巻き込まないで!」
「ご、ごめん」
「須藤くんのこと、ちょっといいかもって思ってたけど……お祭りで変な人に絡まれて、助けてもらった時なんかは、もう好きかもって思ったけど……でも、はっきりわかった。あんた、あんた全然良くない! だって、純のことこんなに振り回して、散々心配かけて、純ってばいつも心配そうだったし、それで……」
「奈々、」
「……あ、あんたが須藤くんを心配するように、あたしだってあんたを心配してた。ずっと、心配だったんだよ、純」
それから、奈々はとうとう耐え切れなくなったのか、あーん、あーんと声を上げて泣き出した。そのまま、ぎゅうっと力強く抱きしめられて、思わずわたしまでほろりとしてしまう。お互いぐっしょりと汗をかいていたせいでべとべとしたけれど、そんなのはどうだって良かった。
「無事でよかった」
命が確かに存在するのを確認するように、奈々が言う。
うん、と子どもみたいに私は頷く。
「でも、どうして奈々があそこにいたの?」
「辻くんが教えてくれたの。夏休み明けにたまたま連絡先を交換してたから、電話くれてさ。なんだろって思って出たら、純が危ないかもしれないって言うんだもん」
「え」
驚いた。
辻くんは、「本当に奈々が好きなら、連絡先の交換くらい自力でなんとかしろ」というわたしのあの言葉の通り、自力で連絡先を手に入れることに成功していたのか。
「ご、ごめん、よく考えたら君を巻き込むべきじゃなかったんだけど、でも夢中で、それに僕、どうしようもないヤツだけど、君が――佐伯さんがいれば、勇気が出る気がして」
愛の告白のようなその言葉に、場の空気が一瞬固まる。奈々が、「え」と困惑したような声を出す。
「あっ、違う! 違くて、え、ええと、今のは深い意味はないんだ! ただその、ただ……僕は、」
一人でもだもだと言い訳をし出した辻くんの顔は、信じられないくらい真っ赤だった。汗をだらだらかいて、いかにも緊張してますって顔で、
「あの……なんか、今なら言える気がして、だから言わせてほしいんだけど」
と、続ける。
まるで、そうしなければならないというように、おずおずとフードを脱いで。
「い、一年生の時、僕が、君を好きだって噂が流れた、よね。君はもちろん覚えていないだろうけど。その時は僕、まだ君のことを、ただの同級生だと……あ、いや、ただのっていうか、住む世界の違う人だと思ってた。だから、恋愛的な意味で好きだなんて、思ったことなかった。でも、どういうわけか噂はどんどん広まって、それで……なんか、色々言われた。……なんか、すごいバカにされた。すれ違うたび、みんなが僕の顔を見て笑ったんだ。身の程知らずだって言う奴もいたし、チャレンジャーだなって笑う奴もいた」
辻くんは言った。
あちこち泳ぐ視線は、着地点を探すように宙をさ迷う。
「悔しかった。僕の何を知ってるんだって、そう思った。でも、何も言えなかった。じっと黙って、噂が通り過ぎるのを待った。そんなある日、君はこう言ったんだ。クラスメートが君に、何かを訊いて――たぶん、好きなタイプとか、彼氏にするならどんな人がいいのかとか、そういうことを。そうしたら君は、わざとらしいくらいすごく大きな声で、」
一呼吸。ごくんと唾を飲み込んで、
「『好きなタイプとかはよくわかんないけど、少なくとも、人をバカにするような噂話をするような奴は全員嫌いかな!』って」
――宝物を慈しむように、辻くんはまっすぐに言った。
「僕、おっかしくて。あの時の教室の空気! 雷でも落ちたんじゃないかって衝撃が走って、誰も口を利けなくなった。……いや、唯一、吉野さんだけが可笑しそうに噴き出して笑ってたな。とにかく僕は、なんて気高い女の子なんだろうって、そう思った。その瞬間から、僕――君のことが、本当に好きになったんだ」
思わず息を呑む。
しん、とその場に静寂が流れる。
「あ――え!? そ、そう。君が好きです!」
自分で口にしたくせに、言っちゃった、と混乱したように、驚いたように、辻くんが叫ぶ。
夏の終わりの風が吹く。少し冷たい。遠くで犬が、ワンワンと吠えている。
そういう音を、遠い世界の異音のように感じながら、わたしまで緊張して奈々を見ると、奈々は今までにないくらい顔を真っ赤に染めて、
「あ、う、え、あ、そのっ、えええっ!?」
と。混乱したように視線をさ迷わせた。
誰かに告白をされて、奈々がこんな反応を見せたのは、わたしが知る限りでははじめてだ。
こんな状況なのに、ガッツポーズしたくなって、すんでのところで踏みとどまる。ちらっと横を見ると、歩もわたしの方を見ていた。
わたしと歩は頷き合って、尚もうだうだもだもだを続ける二人を置いて、そろりそろりとその場を後にした。
*
わたしたちは疲れ果てていた。
ぐったりと体に力が入らない状態で、バスに乗り込む。もうすぐ二十三時を回るバスの車内には、鞄を抱いてすやすやと眠りこけるサラリーマンの姿しかない。スマホを見ると、ママから鬼のように連絡がきていた。まずい。流石に遅くなりすぎた。
「……スバルくん、大丈夫かな」
一番後ろのシート席に並んで座ると、歩がポツンと、呟いた。鼻血がかぴかぴにこびりついたような顔をして、他人を心配できるのだから驚きだ。
「大丈夫でしょ。辻くんのひょろひょろ攻撃で気絶する人間はいるかもしれないけど、まさか死ぬ人間なんていないよ」
「……そうかな」
「そうだよ」
とはいえ、やっぱり心配ではあるので、わたしはついさっき(といっても、最早随分昔のことのように感じるが)交換したばかりの八千代さんに連絡先を表示して、メッセージを送ることにした。
『お仕事中ごめんなさい。』
『神崎さんの家に消火器まき散らしたうえにブン殴って逃げてきてしまったので、無事かどうか、見に行ってくれませんか?』
意外にも、既読マークはすぐについた。
『ウケる! りょーかい!』
短いその一言の後に、お腹を抱えて笑う女の子のスタンプが送られてくる。ふ、と思わず頬を緩めるも、束の間、
『ありがとね』
と。
続けて送られてきた感謝の意味が、わたしにはよくわからないような――でも、少しわかるような。そんな、複雑な気持ちになるのだった。
「あのさ、純」
わたしの横で静かにしていた歩が、不意に口を開く。
「スバル君の言っていたように、俺……万引き、初犯じゃなかったんだ」
「……うん」
「中村堂さんでやった時は、わざと見つかったんだ。捕まりたかったんだ、俺」
そんな気は、薄々していた。
「スバルくんに言われて、色んなものを盗んだ。シャーペンとか消しゴムみたいに小さいのはもちろん、食べ物……お酒とか、本とか、化粧品とか、大きいのだと服とかも盗んだ。いくつ持ってるかわかんないように誤魔化しながら試着室に入って、そのまま羽織って出ちゃえば意外とバレないんだ。……でも、盗んだものはべつに俺のものになるわけじゃなくて、全部スバルくんと、その友達? の人が持って行った。そういう時だけは、スバルくんも、その友達も、みんな俺のこと誉めて、優しくしてくれた」
「うん」
「お店のもの、盗むの、最初はすげえ緊張したし、罪悪感で吐きそうになったけど、だんだん感覚が麻痺していって、なんとも思わなくなっていった。……自分の心がどんどん壊れていってるかんじがして、怖かった。だから、いっそのことバレて、全部終わりにしようって思った」
「うん」
「俺、居場所が欲しかったんだ」
歩は言った。
「それだけだったんだよ」
ずず、と鼻をすする音が響く。
眠りこけていたサラリーマンが不意に飛び起きて、きょろりとあたりを見回す。そうかと思えば慌ててチャイムを鳴らし、次の停車駅で降りてゆく。
バスのドアが閉まると同時に、歩は再び口を開いた。
「本当は、全部わかってるんだ。俺は、母さんに愛されてる、俺の居場所はちゃんとあるって。そりゃ俺の家は、周りの家とはちょっと違うから、苦労することもたくさんあるけど。……そう、わかってるんだけど。でもたまに、なんで俺だけこんな目にって、すごい虚しくなるし、腹ただしくなる。暴れまわって、全部壊したくなるんだ。……はは、俺、スバルくんみたいだ」
「……そんなこと、」
「純」
わたしの言葉を遮って、歩は言った。
「俺のこと、怒ってくれて、ありがとう」
「……」
「諦めないでくれて、ありがとう」
口を開くと、絶対に泣いちゃうと思って、わたしは唇を強く噛みしめた。
わたしたちはそれから、お互い何も言わず、バスに乗り続けた。いくつかのアナウンスを聞き流し、窓の外を流れる夜の灯りを見送って、ガタガタと揺れる車体に身を預ける。わたしはその間、このバスがこのまま、永遠にどこにもつかなければいいのに、と、そんなことを思った。もう、どこに戻るのもゆううつで、億劫に思えた。
ちら、と横を見る。歩は窓の外をぼうっと眺めて、やっぱりどこかゆううつそうな顔をしていた。
しばらくすると、バスはしっかりと団地の前に到着した。のろのろとした足取りでステップを降りて、地面に降り立つ。
数時間ぶりに帰ってきたこの場所は、妙に小さく感じられた。
「……ここでお別れだな」
B棟の裏。駐輪場横の、花壇前。
そこで、歩はわたしを振り向き、そう言った。
「うん。……ねえ、歩」
「……何」
「あのさ。……ずっと、気になってたんだけど」
わたしは、答えを訊くのが怖いような気持で、それでもおそるおそる口を開いた。
どうしても、訊いておかなくちゃいけない気がした。ここで訊かずにいたら、わたしはこの先も一生、この夏を引きずってしまうような、そんな気がしたのだ。
「あんた、川で靴、なくしたでしょ。片方」
「え……ああ」
「……どうして?」
死にたかったから? 消えたかったから?
自分はもう存在しないのだと、周りにそう思われたかったから?
もしそうだったら、どうしよう。自分で訊いたくせに、くじけてしまいそうになって、わたしは思わず俯いた。
「……どうしてって、わかるだろ」
やがて歩は、困惑したように口を開いた。
「俺、水が苦手だろ」
「…………は?」
リーリーと鳴く虫の声が、その場にこだまする。
聞き間違いかと思って、耳を疑った。
「は、じゃなくて。……ていうか、知ってるだろ。お前がプールに誘ってきたのだって、だから断ったんだし。あんな浅瀬で足攣って溺れかけるなんて馬鹿みたいだけど、まあ、そういうわけで、焦って足バタつかせた拍子に、どっか行ったんだよ」
「な……なにそれ、」
「なにって、だから」
「ばっっっかじゃないの!?」
お腹の底から、声が出た。
わんわんこだまして、団地中に響き渡る。ガラガラ、とどこかの窓が開く音がする。いや、閉めたのかもしれない。
わたしは、ホッとしたんだか、むかつくんだか、嬉しいんだか情けないんだか、とにかく、あらゆる感情が自分の胸の中で爆発する音を聞いた気がした。
「なんなの、それ!? じゃあなに、あの靴はただ、あんたがヘボだったから脱げただけってわけ!?」
「ヘボって……まあ、だからそう言ってるだろ」
「じゃあ、じゃあ、あんた……」
涙が出てきた。バカみたい、こんなことで、こんなところで泣くなんて。でも、目からこぼれた雫は全然止まらない。わたし、いつからこんなに泣き虫になってしまったのだろう? 泣き出したわたしを、歩がぎょっとした顔で見ている。
「泳ぐの、苦手じゃっ、なっ、なかったら、あの時、誘いっ、こ、断んなかったの?」
「……誘い?」
「プール!」
「……ああ。いや、女子二人の間に、俺一人はちょっと。それに、前にも言っただろ。中学生にもなって男子と女子が――」
「なん、なの、それ! 自意識過剰!」
「いった!」
「わたっ、わたしがどんな思いで――」
いつからか、世界の全部がどうでもいい、みたいな顔をしだした歩。
髪を金に染め上げて、所在なさげにしていた歩。
わたしが、わたしがそれをどんな思いで――
「もう知らない。あんたなんて、三十センチしかないあの川の浅瀬で溺れ死んで、一生笑いものになればいい」
「はあ!?」
「帰る! しばらく話しかけないで!」
ずんずんと、大股で歩き出す。
でも、歩いているうちに、この夏のあらゆるすったもんだが脳裏をよぎった。めちゃくちゃむかついたし、悲しかったり辛かったりしたし、そして、そしてやっぱりむかついたし。良いことなんて一つもなかったけど、でも――
くるん、と振り向く。
とぼとぼと、落ち込んだように歩く細い背中が、少し離れたところに見える。
「――歩!」
名前を呼ぶと、痛々しい怪我だらけの顔が、驚いたようにこちらを向いた。
「やっぱ死ぬな!」
「……は?」
「少なくとも、もの盗んだお店の人たちに、謝りにいくまでは!」
「……」
「謝って――そんで――それからのことは、また考えよう」
「……」
「だから死ぬなっ、バカ歩!」
怪我の痛みに歪んでいた表情が、更にぐしゃりと崩れて、わずかに唇が震える。
月明かりが金色の髪を、まぶしいくらいに照らしている。星の子どもみたいに。わたしはそれを、目を逸らさずに真っすぐに見つめる。
暗闇の中で輝くそれは、まるで誰かに見つけてほしがっているみたいに、
「バカは余計だ、アホ純!」
とても、力強い光だった。