年賀状のひとこと、の巻
今回ばかりは、写真もお正月にいただいたお料理である。こちらは、手作りでありがたくいただいた。すばらしいのひとこと。
年賀状は、私は出すタイプである。マメなお友達がほんの数名いて、やめれないからである。年賀状を出すお友達は、私調べでは、とても性格が良いの分類に属する。上から目線で言ってるのではなく、尊敬しているのだ。
この時代に、すべてパソコンがしてくれて、プリンターがあれば簡単だし、アプリもあるし、しかもお安い。それでいて、面倒だとか忙しいというのは紅白歌合戦の歌手じゃあるまいしと思う。みんな、印刷以外の余白に近況やら、子どもたちの写真もたくさん見せてくれて楽しい。
さて、私は、もう何も報告することがない。仕事も私生活も充実してないから。これが事実。
自虐ネタもおもしろくないし、不快なだけ。そしたら、元気ですか?や、会いたいです。という思ってもいないコメントは違うなって思ったら自分史上はじめて、余白年賀状が誕生した。
会っても話すこともないから、でも、会いたくないわけではないし、といったかんじだ。
私は、母親の影響からか、年賀状のストレスがひどい。うちの母は、昔から、プリントごっこの前から版画の時代から、熱心に作製していたのだ。
こういうのは、好きでやってるのが通常だが、母親は、ダイキライと言ってせっせと、作製するのだ。版画やプリントごっこの時代は乾かす作業が加わり、部屋中年賀状だらけになった。それでも、お正月の時期ダイキライと言ってせっせと過ごしていたのだ。私も幼かったので、ダイキライと言う言葉を間に受けて、どうか穏やかなお正月をお過ごしくださいと、切に願ったし、楽しんで欲しかった。自分の時間や労力を犠牲にしてほしくないからだ。
やっとのこさ、ダイキライは、タノシイという言葉に変換されるのがわかった。ほんとに、私は、気にしすぎで嫌すぎる。彼女は、楽しんでるが、注目を浴びたいだけなのだ。やめてくれのひと言だ。ばかなのか、なんでちがう言葉を発するの?
いまは、その、ダイキライな行事を私がお手伝いさせていただいている。デザインもすべて、ごちゃごちゃ言われながら。たまに、宛名のミスもある、人間のすることなんだから、さ。そら、あるさ。
たぶん、子供のころ、ダイキライだっと言ってたときに感じた、どうか穏やかに楽しんでくださいという気持ちと期待を諦めきれない自分にまだぐったりしてる。ため息しか出ない、年末。