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白黒思想の成れの果て

マンションの廊下で、現実よりもかなり巨大ないのししに追いかけられている。

登場人物は私ひとりしかおらず、鋭い牙をむけるいのししからただ逃げ惑っている。

そこにはひとつだけドアがある。

しかしマンションの形状といい廊下といい、どこからどう見ても元彼の部屋のドアなのだ。

いのししに突進されて大ケガして下手したら死ぬのと、

元彼の部屋のドアを叩いて開けるのと、

どっちがいいんだ、私。

ドアだろ!

もうそんなこと悩んでいる場合じゃない、と、まるでいのしし並みにドアに突撃したら鍵はあいていた。
あわててドアをしめ、しっかりと鍵とチェーンをかける。

部屋には誰もいない。なんて用心の悪いんだろうと思っていたらドアをドンドンと叩く音がした。

除き穴から見るとそこには必死の形相の元彼がいた。

そのあと急いでドアをあけて、部屋にいれてあげるのだけれど続きを覚えていない。

…いったいなんだ、この夢。

特筆すべきは、初めて夢の中で、彼が「元彼」という立ち位置で登場してきたことである。

この別れてから約8か月の間、夢に出てくるときは必ず恋人としてだった。

しかし、なぜだか今日の夢のなかの私は、はっきりとこの人は元彼だ!と認識していた。 

特に何の心境の変化もないけれど。

相手に恋人でもできたのだろうか。

正直なところ未練はまったくない。
しかし恐ろしく気は合っていた(と思う)ので、今後も気が合う人に出会ってもまた別れるのだろうなと脳に刷り込まれてしまった感だけはある。

では気が合う人ではなく、価値観が合う人を探せばいいのだと人は言う。

でも、気を使わなくていいのが一番だという人もいる。

どんな人と一緒にいることがしっくり来るのかもはや自分でもわからない。

何を指針にすればいいのかわからない。

一緒にいて楽しくても価値観が合わないのはつらい。

じゃあ、価値観が合っても一緒にいて楽しくない人間に限りある私の時間を使う意味はあるのだろうか。

きっと、この極端な思考がだめなのだろう。

大学入試のときの小論文の練習の頃からすでに、文章の組み立てや結論は分かりやすいですが極論すぎますって採点されていた。

私には白か黒なのだ。グレーはない。

現実だって結局は白か黒だと思う。

勝つ人がいれば負ける人がいる。

試験に受かる人がいれば、落ちる人がいる。

昇格できるひとがいれば、できない人がいる。

ピアノだって、いくら毎日努力しても本番で弾けなければ意味がない。

そういう世の中の小さなジャッジの積み重ねに影響されてしまったのだろうか。

それとも子供の頃に結果論を大事にされすぎたからなのだろうか。努力が認められるのは小学生までといつも言われ続けてきた。

いずれにせよこれからどうにか考え方を改めなくては、私はトラウマ持ちの重度の極論女(33歳)というレッテルを貼られてしまうことになる。

もっと曖昧さに寛容にならねば。

と言いつつ、そんな努力はしたくないので、医療が発展してこの性格を整形する手術をされたいなと真剣に思う。




くらいのパトロンになりたいという奇特な方がいらっしゃいましたら、よろしくお願いします。その際には気合いで一日に二回更新します。