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喉に石が棲むようになった話。あるいは心の小部屋の話。

息をするのに力が必要になったのはいつからだっただろうか。

意識して「すぅ〜」と呼吸をしないと、体に酸素が入っていかないように感じる。背中には常に重く固い鉄板が張り付いているようで、自分で剥がそうとしてもうまくいかない。ストレッチとも呼べないような不恰好なポーズで肩甲骨のあたりをなんとか伸ばしてみると小さくボキッと音がする。
仕事中、背後で大きな声で電話をされると動悸がする。意識をそらすように、耳に音楽の流れていないイヤホンをそっとはめる。少しは外界が遮断される。
プロジェクトのちょっとした綻びに自分だけ気が付く。すぐに上司に伝えても、立ち所に目の前の業務に忙殺されて、その綻びがほどけ始め、大きな穴になった頃にやっと自分のところに声がかかる。「明日までに修正依頼が来たから」。そうならないように、穴が開く前に繕おうとしたのだけれど。
そんな穴が社内の業務の至る所に空いている。空いていても気づかない人、気づいても気にならない人、そもそも人に繕わせればいいと思っている人。そういった人の中で働いていると丁寧な仕事をしている自分の方がおかしいのかと思えてくる。


私は自分の"心"というものをイメージする時、胃のあたりに小さな部屋があるように感じる。その小部屋はいつも薄暗くて、家具などはないが、上からスポットライトのような一筋の光で照らされた場所。そこに"本当の私"がいる。
仕事に忙殺されている間何度も、その部屋にいる自分が助けを求めてきた。「そんな役割したくないよ」「もう疲れたよ、一回休もうよ」「この人の言ってることおかしいよ」「人の前に出て話したくないよ」
その声に、外界を担当している私は毎回「ごめん、今だけは黙っていてくれる?」と答えた。そんな対応を続け、最後には"本当の私"がちょうどぴったり収まるくらいの大きさの箱を用意して、そこに閉じ込めて、声も聞こえなくしてしまった。「大人の仕事をして、人に認められるには、自分の心の声は不必要」。それが、その時自分の柔らかい部分に下した、冷たい冷たい決断だった。

そして、気がついた時には喉に石ころが棲みついてしまったのだった。
実際に触るとゴリゴリしているとか、喉奥を見ると出っ張りがあるとか、そういう類のものではない。この文章を書いている今も存在を示したくて仕方がないとでも言うように、喉仏の下あたりで不穏な動きをしているのを感じる。
見えない手によってずっと首を軽く圧迫されていると言えばいいのか。泣きそうになると痛くなる扁桃腺あたりの一部分が、常に膨張し固く強張っているように感じる。調べてみるとそれは「ヒステリー球」や「梅核気」と呼ばれるもので、過度なストレスや緊張を続けると起きる症状らしい。

加えて、電車や美容院、映画館などすぐに自分の意志で立ち去れない状況に強い不安を感じるようになり、突発的な息苦しさに見舞われるようになった。高校生の頃から特急電車は苦手だったし、それまでも電車内で軽い貧血を起こしたり途中下車することはあった。それでも、駅のホームで休んでいればまた乗車できたし、実際派手に倒れたりしたことはなかった。
しかし社会人になって8年を目前に控えた、29歳。うまく電車に乗れなくなった。発車ベルが、もう二度と水面に浮かぶことのない潜水艦に乗せられる合図に聞こえた。

典型的なパニック障害の発露だった。

もう、ぜんぶ、限界だ。ここまで症状が体に表れてから、やっと私は退職する決意を固めた。引き止められ、実際に職場を去るまでには半年ほどかかったけれど、リモートワークが中心だったおかげでやり過ごすことができた。その点だけは、コロナ禍に感謝した。

そうして何とか沼地から這い上がることはできたが、退職したからといってすぐに症状が良くなるわけでもない。この時私が抱えていた問題は、仕事の他にも、パートナーとの関係、不安定な家族、祖母の入院と、盛りだくさんだったのである。(そのあたりのことも、書くべき時が来たら書こうと思う。)

好転する兆しが見えたのは、ある日ふと「これらの症状はすべて、心の小部屋にいる"本当の私"を窮屈な箱に閉じ込め続けたことから起きたのではないか」という考えが浮かんだ時だった。電車も、美容院も、高速道路を走る車も、映画館も、苦手になったのは全部"閉じ込められている"という感覚が生まれる場所だ。それは、私の心の逆襲なんじゃないか。「もう閉じ込めるな、おまえが外の世界に見せたい自分なんて知ったこっちゃない、本当の自分はこっちだ」。そんな風に、私自身が叫びたかったのじゃないか。そう気づいた時、心底自分自身に謝りたくなった。どうして、本心を閉じ込めて、押し殺してまで働き続けてしまったんだろう。そんなに世間体が大切?雇用されているという状況が大切?スキルアップが大切?人の言う正しさが大切?いや、そんなはずはなかった。そのことに、やっと気づくことができた。

私はこれから、閉じ込めていた私がやりたいと望むこと、喉の石ころが苦しいと主張してこないことだけをやろう。人を傷つけたり、迷惑をかけたりしなければ、何だってやっていい。そう思えるようになった。


ミヒャエル・エンデ『魔法のカクテル』に、こんなシーンが登場する。身寄りのない猫のモーリッツとカラスのヤーコプが語り合う場面。

「ミアばあちゃんが死ぬ少し前に、ぼくにいってくれたことがあるんだ。(略)『いつかほんとうにりっぱな芸術家になりたかったら、人生の山も谷も経験しなくちゃだめだよ。それを知っているものだけが、みんなの心をなごませられるんだよ。』って。うん、ミアばあちゃんはそういったんだ。だけど、だけど、ばあちゃんがそれでどういうことをいいたかったのか、きみにはわかる?」
「まあね。」カラスはそっけなく答えた。「谷の方はもうけっこう経験したじゃないか、あんたは。」
「そうかなあ。」モーリッツはうれしくなっていった。
「もちろんさ。それ以上深くなんてむりなくらいにね。あとは山を経験すればいいだけだ。」ヤーコプはいった。
それからふたりは、まただまって雪と風をついて歩きつづけた。

ミヒャエル・エンデ作『魔法のカクテル』岩波少年文庫 pp.177-178

この場面を読んだ時、ヤーコプが、いやエンデ自身が私に話しかけて、許してくれているように感じた。どん底を味わっても、悪いもんじゃない。谷を味わい尽くしたからこそ、自分だけの山の頂上を目指して一歩一歩進めるんだ。そして、それは自分のためだけじゃない、人をなごませる力にだって変えられるんだ、と。

これからは、自分の小部屋を暖かな光で満たすことを人生で一番優先する。それから、それを望んでくれる人がいるなら、その人の心も暖かな光で満たせるようになりたい。
この記事で、私は、私に対する約束を確かなものにしたい。

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