小津夜景さんのこと~ラーミアと大伴家持~
小津夜景
1973年北海道生まれ。俳人。
2000年よりフランス在住。2013年「出アバラヤ記」で2013年に第3回攝津幸彦賞準賞。2017年『フラワーズ・カンフー』(2016年、ふらんす堂)で第8回田中裕明賞受賞。
2018年『カモメの日の読書 漢詩と暮らす』(東京四季出版)。2020年『いつかたこぶねになる日』(素粒社)。
(『いつかたこぶねになる日』扉文を参考に作成)
先日、『いつかたこぶねになる日』(以下、『たこぶね』)の著者である、俳人の小津夜景さんに、私のYoutubeチャンネルにご出演いただきました。
https://www.youtube.com/watch?v=CCWTwOwW12c
ことの経緯は、昨年出版された『たこぶね』という作品とその著者である小津夜景さんに私がすっかり惚れ込んでしまい、その魅力を各所で喧伝していたら、『たこぶね』の版元である素粒社の北野さんがご縁をつないでくださった、という次第です。
小津さんがどんな方で、どんなお話をしてくださったのかは、実際にご著書を紐解いていただいたり、動画をご覧いただいたりすることにして、ここではカメラがまわっていないところでの小津さんとの思い出について、簡単に記そうと思います。
動画撮影を行ったのは、二月末日の江戸川区平井。総武線からかすめた、江戸川沿いの河津桜がめっぽう綺麗だったのが印象に残っています。
小津さんからのご提案で、撮影に先立ち、小津さん、北野さん、私の三人で、挨拶を兼ねたお茶会をおこないました。この時まで、小津さんの印象といえば、文章のほかに、平井の本棚でのトークイベントと、池澤夏樹さんとの対談だけ。いずれも氷の彫像を思わせる、澄明で理知的なお人柄でした。更に、憧れの方ですから、私の緊張はいかばかりだったことか。
ですが、そんな私の緊張はすぐさまほころぶことになりました。
事前の印象からは一転、蝶が飛び回るように、ひらひらと、愉快にお話をしてくださるのです。自主隔離期間中のこと、私の動画のことからはじまり、お互いの仕事やプライベートなことまで、初めてお会いしたとは思えないほど、自然に会話が運びました。
このお茶席で、動画のネタのいくつか(主に閑談チャプター)ができあがりました。例えば、私が唐突に『春琴抄』の話をすることやゲームのお話などは、ここでのおしゃべりがなかったら、実現されえなかったでしょう。動画のチャット欄や小津さんのブログでも書かれていた通り、この閑談パートはご好評をいただけたようで、それはひとえにお茶席の賜物です。
そんなほくほくとした空気の中、収録が行われました。私の不手際によるカメラや音声のアクシデントもあったのですが、終始にこやかにご対応いただいたことは、感謝してもしきれません。収録は四時間ほどに渡り、平井駅を出るころにはすっかり陽も傾いていました。
小津さんとふたりで総武線に揺られ、途中の乗り換えの際、駅構内にあるフードコートにて一緒にトンカツを頂くというぜいたくな時間にも恵まれました。ここでは、ジャコメッティやヘンリー・ムーアといった彫刻家、俵万智や水原紫苑といった現代歌人、更にはキルケゴールといった実存主義哲学の話に花が咲き、どれも私の人生観に新しい色を一指し加えてくださいました。(その時にオススメいただいた哲学書は、くゆらすように、ゆったりと読み進めています。)
夢を夢だと認識できるのは、醒めるその時です。
小津さんが電車から降り、ホームで挨拶をしてくださっている時に、小津さんとの夢のような時間が終わってしまうことを理解したのです。
まさに「夢と知りせばさめざらましを」。
そしてその時、なぜでしょうか、小津さんを寂しく思ってしまったのです。これから、この方は、日本での多忙を極めた生活を送り、するとまた搭乗者のほとんどいない飛行機に乗って、異国の地へと帰ってしまう。
そんな漂泊に想いを馳せたのは、小津さんが動画でラーミアの哀しみについて、語ってくれたからかもしれません。
「ドラゴンクエストⅢ」に登場するラーミアは、物語の終盤に主人公たちを背に乗せ、大空を羽ばたく不死鳥です。小津さんはそのラーミアの思い出について、こう語ってくださいました。
「(主人公ひとりでラーミアに乗って)空中に浮かんだ途端に、ああ、空から地上を見るってこんなに寂しんだとか、一人で旅をする、空を飛ぶってこんなにさみしいんだって気づいたんですね。」
それを聞いた時、私はなんて想像力豊かなんだというようなことしか申せませんでしたが、なにか引っかかっていました。小津さんの寂しさを思ったのは、この「ラーミアの孤独」があったからです。
それを結び付けてくれるのが、奈良時代の歌人による絶唱でした。
うらうらに照れる春日にひばり上がり心悲しもひとりし思へば
(私訳:のんびりと照る春の陽射しの中、ヒバリが天高く羽ばたいた。それを見ていると、私も空に吸われるように、なんだか物悲しい。独りで、物思いにふけっているからだ。)
(万葉集巻十九・四二九二)
萬葉集の編纂者である、大伴家持の歌。
大自然に囲まれ、空を見上げていると、なんだか吸い込まれるような、物悲しいような気持ちに襲われることがあります。山折哲雄は、『日本人の心情』(日本放送出版協会,1982年)で、その空に吸われるような寂しさを、「遊離魂感覚」と呼びました。家持の歌では、この感覚が見事に詠まれています。
ちなみに、「遊離魂感覚」を詠んだ名歌には、平安末期の歌人・西行による、
空になる心は春の霞にて 世にあらじとも思ひ立つかな(山家集・雑七二三)
あるいは、
不来方のお城の草に寝ころびて
空に吸はれし
十五の心(一握の砂・煙)
という石川啄木の名歌が、即座に浮かびます。
さきに掲げた家持の歌は、西行や啄木も歌った「遊離魂感覚」に先鞭をつけた名歌ですが、その中でも抜きん出ています。それは、ただ空に吸われる寂しさを詠んだだけではなく、そこに「思索」という孤独な作業を重ね見たからです。
思索も孤独な作業なのです。そのことについて、小津さんがこのように記します。
ひとりで読むとは、孤独にひたるという知的営為の階段をのぼることでもある。(『いつかたこぶねになる日』・生まれかけの意味の中で)
空にあることも、思索も、徹底的に孤独な行為なのです。それは、寄る辺ない、どこにいくとも知れない道を、たった一人で歩く行為だからにほかなりません。
小津さんが、空に浮かぶ気球について、こんな風にも書いています。
気球や船といった乗りものが根源的にめざすのはそちらでもあちらでもなく、いつだってたんに、ここではない場所だ、だ。そしてこの、ここではない場所、の連続体は、いつしか空や海ぜんたいを、どこにもない場所、のパッチワークへと変貌させる。
(『カモメの日の読書 漢詩と暮らす』・21.水のささやきを聞いた夜)
私は、小津さんが、再び思索や空という孤独の場に吸われてしまうことに、寂しさを感じてしまったのです。
ちょうど家持が、ひばりの飛翔に想いを馳せたように。小津さんが、ラーミアの飛翔に涙したように。
小津さんという人、そして小津さんの作品は、徹頭徹尾、他を寄せ付けぬ澄明で、美しい、朗らかな孤独によって紡がれています。『たこぶね』表題作にある旅立ち、『カモメ』に綴られた病室やかつての病床の仲間、そして、いくつかの動画で見せられた凛とした語り口など。
閉まるドア越しに、その寂しさを感じたとき、私は小津夜景という芸術家の厳しい根源に触れたように感じたのです。
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★小津夜景さんのご著書
★大伴家持については、こちらの本を参考にさせていただきました。
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