神さまに祈ること。私の場合
注|ここに出てくる神さまは、あくまで私の神さまの話です。
「神さま、私を守ってください」
今までこんなふうに願うことはなかった。
私は特定の宗教を進行しているわけではない。そもそも神頼みっていうのは、なんだか自分のことを棚にあげているような、落ち着かない感じがあって、あまり好きじゃなかった。
神社にいっても「私を見守っていてください。みんなが幸せでありますように」などとカッコつけたことを思っていた。
一方で、苦しい時、不安にかられて、今思えば完全にパニックを起こしていた。心に穴が空くような、そしてその穴はブラックホールみたいな、自分がひとりぼっちで宇宙に放り出されるような、そんな感覚だった。
どうやって向き合えばいいのかわからなかった。ただただ不安だった。
そんなときでも、今までだったら神さまを頼ることはなかった。神さまは私なんかを救ってくれないと思っていた。求めてはいけないと思っていた。要は自分を責め続けていたのだ。
しかし、知人に進められて手に取った本に、こう書いてあった。
「業」とは、It's automatic なのです。私たち衆生の業もオートマティックなものですが、仏の業もオートマティックなのです。煩悩にまみれ、悪人としてしか生きることのできない私たちを、必ず救済する。そんな「他力」は、止まらないものです。
仏はどうしようもなく、私たちを救済してしまう。だから仏の「業」なのです。
私は今まで、神さまに対してとても失礼なことをしていたのだ。「なにもしなくていいです。私はいいんで、ほかの人を幸せにしてください」と言っていた。神さまをコントロールしようとしていた。神さまとつながることを、私が拒否しているのと同じなのだ。祈っているようで祈っていなかった。自然の流れに逆らっていたのだ。
醜くてもいい。かっこ悪くてもいい。自分を助けてほしい。神さまに「すがろう」と思った。心のなかで「神さま、どうか私を守ってください」とつぶやいてみたとき、神さまにすがっている自分が気持ち悪かった。自分のエゴイスティックさを感じるというか、なんだか座りの悪い感じがした。自分の「欲」を今まできちんと見つめてこなかったから感じる気持ち悪さだったのかなと、今は思う。
違和感を感じながらも何度も祈った。「神さま、私を守ってください」
すると、なんとなく、空からの一筋の光とつながっているようなイメージが湧いてきた。このへんは「イメージ」なのだ。目に見えないけど「ある」と感じると「ある」のだ(うーん、毎回うまく書けない)。
本当は最初からつながっていた。神さまは私がつながりたいと思うことを拒否したりはしない。むしろ私が神さまを避けて、つながっていることを自覚していなかっただけだ。
「自分だけ助かろうと懇願している」。自己中心的な発想なのかなとも思って、また自分を醜く感じた。でも、同時に私はこれまで「自分」という存在をきちんと認識していなかったのだと気付いた。神さまと1対1で対峙しないで、他者を混入させていたのだ。神さまはひとりひとりと等しくつながっているはずなのに、私はそこを無視していた。
だから「自分も神さまとつながっている」と自覚するということは、私にとっては非常に重要なことだった。神さまとのつながりを感じることで、自分の輪郭線が現れてくるような感じだ。
他者のためになることをするのが「正しい」と認識してきた人は、私と同じように感じるのではないかなと思うけど、どうだろう。
他者を介入させず、他者の問題にすり替えず、ただ自分のことだけにフォーカスすることが必要なのではないかと思う。
神さまは、私のようなちっぽけな視点で世界を見ていない。美しくないから、正しくないから、頑張ってないから、お前は救わない。そういうことではないのだ。そんな人間みたいなことは言わないし、むしろ「いや、お前はどうなのよ? つながり、ちゃんと自覚してるの?」と問われている。そこに私は応えていなかった。祈ることは、自分の思いを神さまに叶えてもらうことではなくて、私のほうが神さまとのつながりを確かめることなのかもしれない。
実際祈ったからといって問題は解決しない。取り除かれもしない。必要だから、神さまからオートマチックに与えられるとも言える。私の狭い判断基準でみると「困難」の部類に入るものも、神さまの視点でみれば「救い」だとも言える。神さまがそれを取り除いてしまったら「機会損失」になってしまう。どうにもならなかったとしても、自分の身体で体験していくしかない。
「つながり」を感じることで、少なくとも私の心には余白が生まれた。すぐには自覚できなかったけど、今はそう思える。
送られているものを、ただ大切に毎日受け取り、素直にしたがう。エゴまみれすぎて、七転八倒してしまって、素直に受け取ることはなかなか難しい。けれど、受け取る「訓練」を重ねていこうと思う。