「ほしくない、いらない」という選択
映画を見ていると心が揺さぶらてしまうポイントがあると思う。
なぜそこで涙が出てしまうのかわからない。
ずーっとあとになって「ああ、そういうことだったのか」と自分の心の深いところに触れていたのだなと思えるときがある。
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カオナシが金をたくさん出して千尋に与えようとするが、千尋は受け取らず、「ほしくない。いらない」と断って、その場を立ち去る。
「千と千尋の神隠し」のこのシーンになぜか惹かれていた。
千尋は、カオナシからの贈り物を受け取らなかった。さらに別のシーンでは「私がほしいものは、あなたにはぜったい出せない」と言う。
(カオナシが出してくれた高価な薬湯の札は受け取っちゃう。必要だったからね)
千尋の「ほしいもの」は、誰かから与えられるものではない。与えられたとたんに「ほしいもの」ではなくなってしまうからではないか。千尋はそのことに気づいていたのではないかと思う。
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出された選択肢のなかに、望むものがなかった。だから千尋は、どれも選ばなかった。
私は、それができていなかったなあと思う。
AとBを提示されたら、必ずどちらかを選ばなければいけないと、いつのまにか自分に刷り込んでいた。
千尋のカオナシに対する態度は、出されたものの中から選べないなら、選ばなくていい、いらないと言っていい、と示してくれているようだった。
実際、AとBのどちらかを「選ばなくてはいけない」と感じていた時、身体はちゃんと反応していた。なぜか苦しくなったり、頭が真っ白になったりしていた。それらは「どっちもいやだ」という抵抗の現れだったのだろうと思う。
混乱や苦しみは悪ではない。私の代わりに「どの答えも自分の求めているものではない」と反応してくれていたのだと思った。
AでもないBでもない。じゃあCはどこにあるの?
ほら、ないでしょ。だからどっちかを選ばなきゃいけないのよ。
私は頭のなかでそんなことを考えていて、まったく身体の声に耳を傾けていなかった。
今は見つかっていない。だから今は保留でいい。
けれど、隠されたもうひとつの答えCは、必ず自分でつくるか見つけるかを求めてくる。世界と自分を交わらせて、探していくしかない。
「おまえを助けてあげたいけど、あたしにはどうすることも出来ないよ。この世界の決まりだからね。 両親のことも、ボーイフレンドの竜のことも、自分でやるしかない。」
銭婆がいうこの言葉は、まさにもうひとつの答えを自分で探すことなのだと思う。
そして「実はもうひとつある」ということは、与えられたAとBを拒むことで初めて見えてくる。
与えられたものを「ほしくない、いらない」と受け入れないことは、世界と生身で接する覚悟でもある。