外には風が吹いている
今日は「神さま」について書いた。この「神さま」っていうのは、言葉の意味する範囲が広すぎるし、人によって持っているイメージも異なるから、すごく難しいなと思いつつ、一度残しておきたいと思ったのだった。
私の場合「神さま」を、別の言葉に置き換えると「外の世界」だなと思う。もう少し具体的にしてみたいので、今感じている「外の世界」について書いてみようと思う。
最初に思い浮かぶのは「人」だ。丁寧な文字で書かれたメッセージを受け取ったり、語られるエピソードのなかに私へのエールを感じたり、ダッフィーフレンズはミッキーフレンズにならない理由(恐れ多いでしょとかね)を考察して爆笑したり。
ああ、この人は私を励まそうとしてこの話しをしてくれたんだ、とか。なんで一緒に笑っちゃうんだろうねーとか。そういうはたらき。
次は「植物」と「鳥」。今はいい季節なので車を運転している道中でたくさん咲いている花を見かける。実は名前も全然知らない。ひとつ気になって調べたのは「ムクゲ」だ。知らない人の家の庭木でよく見かけるのだけど、なんというか「バッ」と一斉に咲いているのだ。こんなに暑いのにすごく健気で、花の開き方がみんなこっちを向いて「それっ!」って言っているような感じがしてかわいい。白(うすーい紫なのかな)に中心が濃い紫で、暑苦しさがなく、むしろ涼し気な感じなのところも尊敬する。
鳥は、それぞれの飛び方を見ているのが楽しい。ツバメは突然視界にひゅっと入ってくる感じに勝手にメッセージだ!とか思ってしまうし、サギのロボットみたいな、箱が空を飛んでるみたいなかっちりした様子もなんだかアニメを見てるみたいで笑ってしまう。
あとは「景色」。朝起きるとすりガラスの窓が、全力のピカーっとした日光をいい感じに反射させて室内に入れてくれる。直で見ると目をやられそうなのだが、すりガラスだと本当にキラキラしていてきれいなのだ。始まるなーという感じにさせてくれる。
夕日もいい。この景色を一緒に見たよね、と思い出す。実際は夕日を見たのではなくてたくさんの経験を一緒にしたね、ということなんだけど、私のイメージは夕日に集約されている感じだ。
恥ずかしいけど、今まではこういうものを馬鹿にしていたなと思う。やっぱりこうして書いてみると、受け取っているものをなんとも描けず、稚拙だなあと思うし。前はもっと知性のあるものとか、頭が良さそうなものを信じたいと思っていた。だから、全然見ようとしていなかった。
でも、これはものすごい知恵だと思う。こういう素朴なものに対して「楽しいね」とか「かわいいね」とか「美しいね」とか気づくと、そのものとの間に循環が起きる感じがする。それは目には見えない。感じたり体験したりする。「つながり」って絶えず動いているものなんだと思う。私とそのものの間につながりができると、循環して風が起きる。このささやかな風は、小さいんだけど、でも、大きいんだよなとも思う。人とか、花とか鳥とか、夕日とかは、神さまにつながってるのだなと思う。それはあの右手のイメージ。
それで、残りの人生は、そういう「風」を感じて生きてきたいなと思った。自分の内面に向き合うことは本当に重要だと思う。あまりに外の社会に振り回される経験をしてしまったら、一度修復は必要だと思う。それをしないまま風を感じることはできない。
でもずーっと内側のことだけ見ていたらやっぱり足りない。あるところで外の風を感じたくなってくる。内と外はもともとひとつだからなのかもしれない。
外の世界とつながりたくなってくるのだけど、内側の世界だけを見ていると意外とその気持ちに素直になれなかったりもするのかなと思う。でも本当は、内側に風を入れたくなってる。そこに素直になる。そのタイミングが来たら、人が向けてくれた気持ち(言葉だけじゃない)、花のかわいさ、鳥の軽やかさ、夕日の美しさを感じる。感じることは受け取ることだ。そうすると、その「間」に風が吹く。自分ひとりでは風は吹かない。私となにかの「間」に風が吹く。それは気持ちのいいものだ。
だから私は、外の世界に遊びに行きたいと思う。無職だし。時間はいっぱいある。