がんばっているとき、たすけてって思ってない?
長く努めたデザインの会社を6月末で辞めた。
今は、悠々自適な無職だ。
私は、仕事が大好きだった。お客さまとたくさんおしゃべりして、持ち帰って「ああ、あの人のあの言葉…こういうことかもね!」と表現を探って作っていく。お客さまが自分にぴったりあったデザインを手に入れた時、その瞬間からみんな変わっていく。自分たちの仕事の尊さを再確認するのだ。私はその瞬間に立ち会うことがなにより好きだった。
つとめていた職場では、たくさんの経験をさせてもらったし、未熟な自分を成長させてくれたし、こんな環境で仕事ができたことを本当に幸せに思っている。仕事はとにかく、楽しかった。
でも、でもなのだ。一方で、私は自分に問わなくてはいけないことがあった。
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パッケージのデザインを変えたことで販売数が大きく変わった事例がある。もともと本当に心と技術を込めて作っていた素晴らしい製品だったから、多くの方が受け入れてくださるのは(今となっては)当然なことなのだけれど、当時は「うまいのに売れない」と言われていた。デザインを変えたことで売上があがり、私たちにとっても、お客さまと、お客さまのお客さまを、デザインでうまくつなぐことができた誇らしい事例となった。
売上も安定し、なにより「今は、製品が売れ残らない。売れ残った製品を買ってくださいと営業する必要がなくなった」と穏やかに笑うお客さま。「今年は旅行にでもいこうかなと話してるんですよ」と話す奥さま。
私はとても嬉しかった。お二人のことが大好きだったし、このプロジェクトに関われたこと、ともに試行錯誤したことに心から喜びを感じた。
その一方で本当に小さく「あれ? 私にはこうしてどれだけ喜びを分かち合っても、その後、一緒に旅行を計画できる人はいない」という考えが頭をかすめた。「誰かの幸せのために仕事をするのは、本当に嬉しいこと。でも自分は…?」目の前のことはキラキラ輝いているのに、後ろを振り返ったら真っ暗でからっぽだったのだ。でも、そのときは見ないふりをした。自分の背後にある空虚をみないように、振り返らないようにした。
けれど、私の小さな問いはくすぶり続け、次第に私を分断しはじめた。
「楽しいのだから、好きなんだから、いいじゃない」
これは紛れもない真実だ。何度も言い聞かせた。だって嘘じゃない。そして、間違ってもいない。でも私の場合は、この「楽しさ」や「好き」が覆い隠している「本当の自分の望み」があったのだ。
なぜ「本当の自分の望み」と対峙できなかったのか。それは、いつの間にか、仕事が自分のアイデンティティの一部になっていたからだ。私たちの仕事は、独自に積み重ねてきたものだったから、私は自分がどこかで「特別な存在」だと思っていた。これは完全な奢りだけれど、自分がいなければ仕事はまわらないとすら思っていた。
いつしか、この仕事やポジション、肩書きを手放したくない執着心で、がんじがらめになっていた。
また、こうとも言える。そもそも「本当の自分の望み」に耳を傾けたくなかったから。そこに気づいてしまったら、私はこの大切な場所にいられないから。感じている違和感に気づかないでいたかった。これが私の執着心をますます強固なものにした。いい感じ(かなり良くない)に循環している。
結果的に仕事は辞めることにした。仕事の量を調整するとか、バランスをとることくらいでは、もうどうしようもなかった。私の執着心は、この場所を去ることでしか、すべてを捨てることでしか解決しないほど肥大化していた。
執着心をどうやって捨てたかについては、またあらためて書き残そうと思う。
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出勤日も残り数日となったとき、すずさんのこのツイートを見て、ああ!と膝を打つ思いだった。
頑張りすぎだよって、言ってくれる優しさはわかるんだけど なんだか責められてるような気持ちになる最近 頑張りたくて頑張ってるだけじゃないんだ たすけてくれ!って思ってるん だれにも秘密の話だけどね
— すず (@__twinkl) June 22, 2024
そう。頑張ってるだけじゃなかったのだ。私は「たすけてくれ!」と思っていた。
ずっと楽しかったし、ずっと苦しかった。いつも、逃げ出したかったのだ。すべてを捨てたのは、逃げたかったからとも言える。人の感情の断片は見方によって変わる。そしてそれはすべて真実だ。
苦しいことを認めてしまったら、楽しいことから離れなくてはいけない。
楽しいことだけで走っていたら、苦しいことがどんどん迫ってくる。
私は「楽しいです」とだけ言っている自分でいたかった。でも、私を苦しめていたのは「本当に自分が望んでいること」を聞かず、今置かれている苦しみを認めないことだった。純粋な楽しさや働く喜びは、いつのまにか歪んで不自然になってしまった。
仕事はやりきったと思うし、大切な経験もたくさんした。美しい景色も見た。成長もできたと思う。幸せだったと思う。しかし、私がひとつだけ後悔しているのは、自分の声に耳を傾けなかったことだ。自分を追い込んでいたこと。自分に申し訳ないと思っている。「たすけてくれ!」に応えられるのは、行動に移せるのは、自分しかいない。自分を別な場所へ連れて行くことは、私にしかできない。
本当はなにを望んでいるの?
身体や心はなんと言っているの?
頭に聞くのではない。身体や心に聞く。
ちょっと話の筋がそれるけど、大事なことなので自分で忘れないためにも書いておくと、そういう声を無視していると、必然的に外から力がかかってくる。そっちじゃないよ、あなたが行くのはこっちだよと教えてくれるなにかがいる。だから案外「自分の声」とも言えるし、自分以外のなにかの声なのかも、とも思う。
自分の声として聞くと、表現は「たすけてくれ」になるし、自分以外のなにかの声として聞くと「こっちじゃないよ」と聞こえるのかもしれない。
その声にいつでも応えていられる自分でありたいと思う。