10/27 2024
人の判断は常に一瞬の間で行われる。そしてその判断の結果がその後、何年何十年も続くものだとは、判断には含まれていないため、大概後悔する。
企業の採用活動において入社までのフローが、あれほど煩雑にも関わらず、多分どの職場にもいるようなアレが入り込んでしまうのも、人間の判断が常に過信されるようなことから始まる。
この人しかいない、と思って決めた結婚生活で、どうしてこんなのと結婚してしまったんだろうというのは、どの家庭においても散見される判断によるありふれた喜劇である。
私においては、今日こそ勝てると思って寄ったスロットで4万ぐらいスったことは記憶に新しい。
その判断がよかったか、悪かったかは五分五分で、よかったときもあるし、悪かったときもある。その判断をよかったと思えるようにしたいのならば、さらに次の全く違う考え方が要求されるような判断に身を置き、次、次、次、と精度を徐々に高めていく、もちろん他はある。
判断は常に求められるもので、中華料理店にいって注文は何をしますか?と店員が聞いたならば割とすぐに頼まなければいけないようなものである。
あ、やっぱりコレにします、というのは料理が届いてからはできない。やっぱり気分じゃないんでコレ下げてもらって、コレにしてもらいますか?は、余程傲慢な人間にしかできないことである。
あのときコレにしとけばよかった、というのは判断材料が確実に増えた未来からのことである。その時にはなかった判断材料を考慮することは、その時には絶対にできないことである。
目の前にきた料理が、思ってたのと違うけれど、まあしかたない、食べるか。数時間後にはお腹が空いているから、些細なことではある。
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