10/14 2024

結果はその時点のものでもある。練習して、良くなるものでもある。そして思ってた割に良くなかったとしても、落ち込み過ぎることでもない。練習する時間を捻出できなかったことにもよるからである。

中学生の頃、私は頭が良いとよく褒められた。定期試験の結果は毎度のことながら、すこぶる良く、いまや全く苦手意識を持つに至った英語でさえ、公立中学校の一学年という狭い井戸の中ではたいがい五番手以内にあり、テストに覚えたところが多めにでたならば、一位になることもあった。

親を筆頭に関わる大人らに、褒められるような進学校に困難とされる入学試験を潜り抜けて、見事入学してからというもの、初めの定期試験で学年下から数えて五番手ぐらいの位置を記録したのは些細なきっかけである。

好き好んで誰もがやらない、勉強なんてものをたくさんやってきたのに、同じようにそれらに取り組んできたもの達の中では、相対的にどうしても頭が悪い。

とでも当時思っていたかもしれない。勉強に対して苦手意識が芽生えたのはこの時が多分原点であろう。高校に入ってから、失った青春を取り戻そうとでもしたのだろうか、中学時代の友人と中学時代よりも遊ぶようになった。

そんなことをするには、各々通う高校が終わってからである。夕方あたりに集合しては帰りが遅くになる。帰った頃にはもう眠い。そうなれば、勉強に取り組む時間はひたすらなくなる。

当時に戻れたとしたら、帰ってから5分でも何分でも少しでも多く勉強していたのに、という反実仮想を今でも考えるぐらいには後悔している程度の案件ではある。

そのおかげでいい思いを多少はした。中学卒業から10年いかないぐらいには経った今でも中学の友人と仲がいいことはそのいい思いの一つで、卒業したら終わるぐらいの仲で終わらないのは、そういうことでもある。

長くなったが、もう少し長くしてみる。

学習性無力感は最近知ったものである。

置かれた環境からいつでも逃れられるように、色々としていることは、自身がもてる可能性に賭けるからである。

この時、色々頑張ったおかげで、望んだものが手に入った。そう思える時が来るまでは醜く足掻いてみたい。

きらきら輝く、まだ会ったこともない、或いは会ったかもしれない、誰かどうかすら今の時点ではわからないような、他ならないあなたが、私を照らしてくれるよう、何とか頑張るつもりが、少しばかりある。


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