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主語があれば述語がある。
私は寿司を食べた。
このときの私は佐藤健であっても、ペガサスでも、犬でも、ロビンソンクルーソーでもいい。
また食べた。を投げた。にしてみてもいい。
私は寿司を投げた。
私はどうしたんだとなる。板前と喧嘩したのか。
寿司でなかったらどうか。ボールであれば状況を想定できる。野球ボールなのかサッカーボールなのか、ボーリングなのかは確定できないが、スポーツ的なものに興じていると考えることはできる。
ところで巧みな文章とはなんなのだろうか。
諸々の表現形式、小説であれば、エッセイであれば、論文であれば、文脈がある。文脈のない表現形式は、短歌や詩などか。
他、漫画は名言がある。ラップならばパンチラインがある。ロックは魂に響く詞がある。
日々駄文を量産する工場、駄文製造工場である私の指は、誰かの心を感動させるにはまだ程遠い文章しか作れない。
バイトに入ってすぐは研修中のシールを名札のところに貼るように、免許を取ったすぐは初心者マークを車に貼るように、私はまだ作文の初心者であり、研修中である。
作家になりたいわけではないし、シンガーソングライターにも、コピーライターにも、学者になりたいわけでもないが、思考は言葉なしではできないから、日々言葉を修練している。
これの動機の原点は言葉に泣いたときがあることに由来している。本を読んで感動した時か親に怒られた時かは覚えていないが、心を揺さぶられた時がある。
自分で自分を感動させるための言葉すら満足に考えられないうちは、大学卒業が決まるまでは惰性で毎日やりたいから、覗きに来てくれたら嬉しい。
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