あなたの綻ぶ笑顔が見たいから
あの日、歯が黄色いと気づいた私は、人生で初めて自分の歯を恥じた。
これはそんな、私の歯にまつわるストーリーだ。
「奥歯までちゃんと磨きなさい。」
子どものとき、親からそう言われるのがいつも嫌だった。
歯磨き粉の味はまずいし、手も不器用だ。しかも私は面倒くさがりなので、歯磨きはただの面倒な存在だった。
もっと面倒なのは、歯医者に行くことだ。予約は先々まで埋まっているし、金切音を聞きながら痛い治療を受けるのは御免だった。
大学生の頃は歯医者に行くことはなく、社会人になってからも間もなくは歯医者とは無縁の生活を送っていた。
忙しさを言い訳に歯医者を避けていた私が、ついに駆け込むことになったのは、顎関節症で口を開けるたびに痛みが走ったときだった。
そして、診察台に座った私を待っていたのは、想像の斜め上の現実だった。
「虫歯が4つありますね。」
顎が痛いどころでは騒げなくなるほど、衝撃だった。どの歯も痛みは感じていなかったのに、静かに蝕まれていたのだ。
その後の治療の痕跡として、私の口の中には、キラリと光らない4つの銀の歯が残った。これが最初で最後の反省になるはずだった。
しかし、そんな軟弱な理由で動くほど、私の根っからの面倒くさがりを甘く見ないでほしい。
そのときの私はまだ、歯のケアを本気で取り組むきっかけを見つけられていなかったのだった。
◇
たった今、カフェにいる私は周りを見渡してみた。
誰かと楽しそうに話している人には特徴がある。それは歯を惜しげもなく見せていることだ。
しかし、店員さんはあまり歯を見せようとしない。きっと私だって、仕事中はあまり人に歯を見せることはないだろう。
誰かに歯を見せるときは、人に心を許しているときのサイン。逆に、緊張しているときは、人は誰かに歯を見せようとしないのだと思う。
さて、閑話休題。あれは、社会人5年目くらいの頃だったか。会社の先輩たちとプライベートで、レンタカーで旅行に行ったことがあった。半ば強制で、ツマラないおじさんたちに囲まれる社内旅行とは違って、一緒に行くメンバーは後腐れのない面白い人たちで、人数も5人とちょうど良かった。
そのメンバーの中には一人、写真好きのお姉さんがいた。これまで、写真を撮るのが好きな人と旅行に行くことがなかったから、私のスマホには人が写っている写真なんてほとんど入っていなかった。けれど、この旅では至る所で写真を撮ることになった。
この旅行では行き先を特に決めてなくて、何故か群馬サファリパークに行ったのは良い思い出だ。気の許せるメンバーたちと動物に触れ合って楽しむなんて、大人になってからは簡単にできるものじゃない。だからこそ、ここぞとばかりに、みんな童心に返って楽しんだ。
その日は土曜日だった。レンタカーを返した後に、みんなで飲んだお酒はとても美味しかった。遠出をして体は疲労が蓄積しているのに、心は漲っていたから、いつも以上にお酒の進むペースが早かった。
その日は、どうやって帰ったか覚えていない。周りから見たら、へべれけであったことがバレバレだっただろう。
そして翌朝。いや、もう昼だっただろうか。頭痛でクラクラする中で、LINEで旅行の写真がたくさん飛び交っていた。
「あぁ、楽しかったな。」
スマホの画面をスワイプしながら、ニヤニヤしてみていた。写真に写っていたみんなの顔は、会社では見ることのできない綻んだ笑顔が多かった。ただ、私が写っている写真を拡大してみたら、私の顔から笑みが消えゆくのを感じた。
「歯が…黄色い……。」
可愛いうさぎたちに囲まれる私の歯が、黄色かったのだ!
楽しかったはずの思い出が、歯の色のようにセピア色に褪せていく。
「私はこんな歯を、みんなに見せていたのか?みんなは気にならなかったのだろうか?」
後悔しても、もう遅かった。私はそこで、当たり前の事実を認識した。
歯は、自分のためだけのものではないのだ。
心を許して笑顔が綻ぶときに、誰かに見られる歯。その歯が清潔でなければ、相手に伝わる気持ちも濁ってしまう。
その日から私は、歯をケアする習慣を身につけることを誓った。歯磨きの後には必ずデンタルフロスを使い、最近はジェットウォッシャーまで購入して水圧による歯のケアまでやっている。過去の私からしたら、考えられない進化を遂げていた。
◇
私の祖父は、今年の5月が命日となった。
亡くなる前に「入れ歯がうまく入らない」と、毎日のように言っていて家族を困らせていたのが今は懐かしい。
祖父が昔、肺炎を患ったときに、口腔内の不衛生が肺炎につながるという記事を見た。一見、体の健康と歯は関連が無いように思えるが、そうではないらしい。
祖父のことを思い出すと、歯は他人に喜びを伝えるだけでなく、他人を悲しませることにもつながるのだと実感する。
今年は、激動の年だった。悲しい出来事だけでなく、喜ばしい出来事もあった。それは、結婚したことだ。
妻とはデートのたびに、一緒に写真を撮っていた。そして先日、妻と撮った写真を見返していたときのことだった。
「これが私、一番好きな写真かも。」
指をさしたその一枚は、私たちが並んで歯を見せて笑っている写真だった。
彼女は小さい頃、「写真で歯を見せるのはだらしない」と言われて育ってきたらしい。それでも私と写っている写真では、いつも笑顔で歯を見せている。そして私も、以前よりずっと自然に歯を見せて笑うようになった。
歯は誰かの笑顔を受け取るためにある。そして、歯は誰かに自分の笑顔を伝えるためにある。もはや、私の歯は自分だけのものじゃないんだ。
だから私はこれからも、歯を大切にしようと思う。あなたの綻ぶ笑顔が見たいから。