どうして結婚したのって?
「どうして、私はこんなところにいるの?」
目の前の猫の耳元でそう問いかけてみた。当然、猫は返答してくれない。
ヨーロッパとアジアの文化が交差するイスタンブールに私はいた。ここは「猫の町」とも呼ばれ、野良猫があちらこちらにいる。しかも、どの猫も人間に一切の警戒心がない。
1年前、私はこんなところに来ているとは思いもしなかった。
私は、海外旅行が好きじゃない。一瞬の非日常を味わうためだけに数十万円を代償にするのは、どうしても腑に落ちないものがある。
だが、新婚旅行となると話は別だ。正直、私は国内の温泉でゆっくりするくらいが丁度良いと思うのだが、異国の地を熱望する妻の前では口が裂けてもそんなことは言えなかった。
海外旅行の経験がほとんどない私は、行き先の希望としてニューヨークを挙げたが、妻は秒で却下した。私がいくら素晴らしいプレゼンをしたところで、私が行きたいところに行けないことは最初から想像がついたので、行き先は彼女に任せることにした。
最終的に妻が選んだのはイスタンブールだった。「美味しいご飯が食べられるから」という実にシンプルな理由だ。
妻が選ぶところには間違いがない。だから、私はいつも安心してついて行く。一方で、私の提案はいつも却下される。よく考えると、いつの間にかこれが日常のルーティンとなっていた。
かつて私は、結婚で自由を奪われるのだけは絶対に嫌だと心に誓っていたはずだ。自由を奪われるくらいなら、独身でいたい。そう思っていたはずじゃないか。
「どうして、私は結婚したの?」
再び猫にそう問うてみたけど、やっぱり答えは返ってこなかった。
仕方がない。なぜ、こうも想像していなかった未来になったのか、回顧してみようじゃないか。
◇
1DKの部屋で一人佇むというのは、自由で居心地がいい。けれど、周りの人たちが結婚する中で、孤独感に苛まれていく。
私は1年前、転勤先の大阪で家に帰るたびに無を感じていた。まるで空気と一体化するように。
恋愛では幾度となく心が傷つき、その度に「もう恋なんてしない」と誓ってきたはずだ。しかし、その意思に反して私の手はスマホを操作して、再びマッチングアプリをインストールしていた。
そして、異性の人たちと次々と会っていった。けれど、頭には過去の失恋がフラッシュバックする。この人と関係が進展した先にはまた、お互いの間の溝が深まってしまうことになるのかもしれない。
ただ、今の妻となった人は少し違った。私が他人に対して作ってきた壁を、初対面からぶち破ってきた人はこれまでいなかったように思う。それくらい、気を遣う必要がなかった。
やがて、二人が好きな京都の鴨川で、付き合うことになった。お互いずっと憧れていたシチュエーションだった。嬉しくて死にそうだった。
しかし、時間というのは残酷だ。昂ぶる気持ちはほんの一瞬。歳を重ねたせいか、その熱はお互い1ヶ月も経たないうちに消え、気づけば長年連れ添ったような緊張感のない間柄になっていった。
そんな中で、結婚ということを考えたときに一抹の不安があった。それは、彼女が見せる一面が怖いと思う瞬間があることだった。
褒めたり共感されたりすることはほとんどない。時に反応が薄くて、しかめっ面で淡々と突き放すことがある。
このままだと、精神的な自由が奪われてしまう。目に見えない不安が、少しずつ大きくなっていった。
人間というのは不思議なもので、ひとつ不安が生じると、別の不安が襲いかかってくるものだ。
とある日、私は京都の喫茶店で、彼女と注文したコーヒーを待ちながらスマホでニュースを見ていた。そのとき、驚きのあまり、私の目が点になった。私の会社が画面に映っていたからだ。しかも悪い意味で。
私はこのままでいいのだろうか。転職しなければいけないのかもしれない。私は直感的にそう思った。
そして、彼女に「転職活動しなければいけないかもしれない」と、思わず反射的に伝えた。すると、彼女からの反応は意外なものであった。
「なんでそんな顔真っ青にしてんの?別に勝手にすればいいんじゃない?」
私はあまりの衝撃で、どこかの番組で見たような感じで椅子から転げ落ちそうになった。やっと共感してくれると思ったら、ここでも突き放してくるのか!
無性に私は悔しくなった。これまで私は、家族や友だちに転職するする詐欺をして、結局転職しないという末路を何度も辿ってきた。けれど、今度ばかりは転職してやろうじゃないか。目の前の人を驚かすためにも。
私は躍起になった。仕事で遅く帰ってきて、時計の短針がテッペンを過ぎても転職に必要な書類を書き殴り、準備に明け暮れていた。
「30歳を過ぎてからの転職は厳しい」と言う人もいるけど、私はそんな他人の言葉が気にならないくらいに無我夢中になっていた。
気づけば、私は内定をもらっていた。しかも、新卒採用のときに、行きたかったのに落ちた東京の会社からだった。
劇的な幕引きということもあり、私は喜んでいた。けれど、一人で喜んでいる場合じゃない。彼女にしたり顔で、このことを伝えなければならない。
転職活動で疲れていた私はご飯を作るのが面倒になり、梅田のサイゼリヤに駆け込んでいた。そこで、私は彼女に転職先が決まったことを伝えた。しかし、一緒に喜んでくれるだろうという淡い期待はあっけなく打ち破られた。
「すごいじゃん。おめでとう…で、この後どうすんの?」
その一言で、猫のように丸まってた私の背中が直立した。私は、転職活動真っしぐらで、彼女との関係をどうしていくかということまで考えられていなかったのだ。得意げだった私の顔の眉間に皺が寄っていくのを感じ、額には冷や汗が滲んだ。
そのあとは、2時間にわたる説教タイムが始まった。お互いミラノ風ドリアしか頼んでいないのにここまで長居できるのは、本当に素晴らしいお店である。
そして、彼女から最後に、東京に引っ越すまでの残りの2ヶ月半同棲して、結婚するかどうかを決めようという提案があった。
その提案には脱帽だった。お互いいい歳だし、最も合理的で納得のいく方法だと思った。
実際に同棲してみて、私が彼女に感じていた不安も拭え、結婚することを決めた。時に彼女の暴虐な言葉に振り回され、幾分の自由は奪われるけれど、これはこれで幸せな選択なのだと思えた。めでたしめでたしっと。
…ただ、ちょっと待てよ。今考えてみたら、すべて彼女に乗せられていたのではないだろうか。
あんなに転職が怖くてできなかった私が、あっという間に新天地に飛び立つことを決め、そして彼女との今後の関係を悩んでいたのに結婚まで決めてしまった。
私は30年間以上ずっと線路から外れることができなかったのに、あっという間に彼女は新しい線路を敷き、私は運命を乗り換えることができた。
特に、私の転職が決まるまで、ずっと結婚話を切り出さなかったことには感服だ。私としても責任を取らねばならないし、今後は彼女に足を向けて寝ることは絶対にできないと思った。
◇
「ねぇ、話聞いてる?」
空想に耽っていた私は、彼女の声で現実に引き戻され、今はイスタンブールの地に居ることを再実感した。
1年前に大阪にいた私が、東京で新しい会社に働いていて、しかも妻と新婚旅行しているなんて、夢にも思わなかった。
「これも、しぶとく続けてきたおかげか。」
自然と口から、独り言が出ていた。
婚活で会った人は50人を超えるし、転職で受けた会社は50社以上にものぼる。
社会人になってすぐは、周りから駄目人間扱いされたけど、誰よりも長い業務量をこなして人並みになることができた。
学生のときも、運動神経が悪い私は、テニス部で最初は周りから馬鹿にされていたけど、誰よりも遅くまで練習に残って人並みになることができた。
これまで、傷つく言葉をたくさん浴びてきたけど、折れずにしぶとく続けて、なんとか生き延びてきた。そして、このしぶとさに応えてくれる人たちが周りに点在していた。妻もその一人だ。こうした出会いこそが、私の持ち合わせていた運なのだと思う。
目の前にいる猫の耳元で、もう一度呟いてみた。
「私は結婚して良かったの?」
猫はニッと笑った。そして、こう言い返しているように聞こえた。
「お前のしぶとさ次第だよ。これからのお前の未来ぜんぶ。」
はぁ、私には息をつく間も与えてくれないのか。助けを求めるような目で、私は妻の顔を見た。
「猫と喋る前に、私と喋れ!」
妻がツッコミを入れてきた。たまに打ちのめされることもあるけど、こうやってオチをつけてくれるおかげで、なんだかんだで落ち着けるものだと、最近はそう思うようにしている。
こうして振り返ると、私はこの「しぶとさ」で、想像していなかった未来を切り拓いてきたのだと思う。
結婚してからというもの、あんなにも大事にしたかった自由は少なくなってきている。けれど、妻が寝てからであれば、こうやって思い出話を綴ることくらいはできる。
気づけば時計の短針は、テッペンを過ぎ、横になろうとしていた。私もそろそろ横になることにしよう。
たとえ自由が減ってもこの文章を綴るように、私はしぶとく生きていくのだろう。そうするほかに、私には生きる術はないのだ。
そして、これからも訪れる想像していない未来を恐れずに、笑顔で迎えていくことにしよう。