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私はいつからネットの反応を気にするようになったのか?

吾輩は猫を被ったニンゲンである。名前はぽん乃助という。

-うそはうそであると見抜ける人でないと(掲示板を使うのは)難しい

2000年のテレビ朝日の報道番組『ニュースステーション』のインタビューより

電子掲示板「2ちゃんねる(当時の名称)」の創設者であるひろゆき氏が、インターネットの情報をこう揶揄して、20年以上の時が経った。

現代に目を移すと、スマートフォンの普及もあり、Yahoo!ニュースの記事にコメントがついたり、YouTubeに投稿される動画にコメントがついたり、食べログに飲食店のコメントがついたり、他者の反応が可視化されるようになった。

-他人の意見に流されるな

こうした思いを胸に生きている私は、ネットの反応を見るわけがない…というのは大嘘だ。

ネット上のコメントを意識的に見ることもあれば、見たくなくても目に入ってくることがある。

猫のように気ままに・気まぐれでいたい私は、借り物の言葉ではなく自分の言葉で、誰かの意見の引用ではなく自分の意見を伝えようと、強く意識しているつもりでいる。

だけれども、「他人の意見」が可視化されたこの世界で、それに同調するにせよ反対するにせよ、「他人の意見」を意識して「自分の意見」を言っているのではないか。

先入観がないと思い込んでいたとしても、自然と「他人の意見」を観測してしまうこの世界では、多くのことに対して先入観を持ってしまうのではないか。

そして、どこからが「他人の意見」で、どこからが「自分の意見」なのだろうか。

このように、意識的であれ無意識的であれ、ニンゲン世界ではネットの反応を気にするのが当たり前になったと思う。

これは、いつからなのだろうか…?

ネット上で知らない人同士が意見を交わすようになったのは、2ちゃんねるの登場が大きなきっかけとなったと思う。

ただ、2ちゃんねるでは、現代ット上で主流な意見交換の場であるSNSとは違う文化があった。

それは、とある意見に対して、その真偽を確かめるために、「ソース(情報源)は?」と質問する文化があった。

その背景には、SNSとは違って、普通はユーザー名を出さずに意見交換していたため、「誰が話しているのか?」ということが分からなかったためである。

2ちゃんねるでも、固定ハンドルネーム(通称:コテハン)といって、今で言うユーザー名を表示する機能があったものの、その機能を使うと害虫のように嫌われる文化であった。

そのため、とある意見に対して、「この人が話しているから信用できる」という評価ができないため、良くも悪くも常に疑いの目を持ちつつ意見交換をしていたわけである。

それでは、いまのSNSではどうだろうか…?

ユーザー名を表示して意見交換をするのが当たり前になり、各ユーザーの人気が数字で明確にわかるようになった。また、スマホの普及で、ネットリテラシーの高低を問わず、SNSで意見交換をする人が爆発的に増加した。

この結果、SNSでは、ネット上の意見に対して、「誰が話しているのか?」ということが、信頼できるかどうかの大きなバロメーターとなったように思う。

こうして、ネット上の意見交換の在り方が変わったこともあり、「他人の意見」に翻弄されるようになってしまったのではないか。

最近、現代思想にまつわる本を読んだとき、哲学者・ドゥルーズ(1925-1995)の意見を派生させた、ネット上などでのコミュニケーションに関する考察があった。

「権力者がこんなズルいことをした」とか、「有名人がこんな失言をした」とか、そういうニュースが流れると、みんなが怒りの声を上げるわけですが、結局それはメディアの商売になってしまう。つまり、人々は道徳感情によってひじょうに強く刺激されるので、そこを刺激すればメディアは簡単に商売ができる。まさにコミュニケーションは金銭に毒されきっているわけです。

引用:千葉雅也(2022)『現代思想入門』講談社

近年のSNSでは、芸能人のみならず、一般人に関しても、モラル違反の動画・画像が出回り、日々それが炎上して盛り上がっているわけであるが、それはニンゲンに道徳感情が備わっているからだろう。

ニンゲンは周りの人間を見ながら、道から外れた人をみんなで否定することで、自分が大きく道を外れないようにするため、道徳感情というプログラムがなされているのだと思う。

なので、誰かの意見を気にするのは、一個体のニンゲンが、ニンゲンの群集の中で生きるために必要なことなのだ。

でも、そうすると、自他の境界がわからなくなる。

ニンゲンが道徳感情をもとに監視し合うこの世界で、多様性という言葉が正当化されつつも、実態は自分の色を出しすぎると他者から裁かれる。

アイデンティティを失うと、生きている意味が分からなくなると嘆くニンゲンにとっては、なんだか生きづらい時代のように思う。

それでは、どう生きれば、自分の形と影を保ちつつ、他人の中で生きられるのだろうか?

九〇年代には、インターネットがそういう解放的な人間関係を可能にするという理想論がありました。ですが結局、その後のネット社会は、道徳の小競り合いばかりになってしまった。それは戦争機械的であるよりはミニ国家的なものです。

重要なのは、そういう価値観の争いからデタッチ=遊離して、だけれども互いに対する気遣いを持ち、しかもその気遣いが他者の管理にならないようにする、というひじょうに難しい按配を維持できるかどうかです。

引用:千葉雅也(2022)『現代思想入門』講談社

ネット上の無駄な言い争いには干渉しない。だけれども、他人には同じ目線で関心を持ち、気遣いをもって接すること。でも、過度な気遣いをしたり、気遣いに対する見返りを求めたりしないこと。

これが、私が現代思想から見出した、リアルとネットが融合しつつあるこの世界での生き方のヒントだと思った。

野良猫にとって、中途半端な優しさで餌付けされると、いずれ途絶えた時に不幸となる。

ニンゲンにとって、中途半端な優しさで語られるネット上の他人の意見は、いずれ途絶えた時に不幸になる。

餌は食べないと生きていけないけど、餌には釣られないようにする。

自分の内側から生まれる本音は掻き消されないように、言語化していく。それが、ネットから飛んでくる他人の情報による先入観があったとしても。

その絶妙で困難なバランス感を維持しつつ、野良のプライドを持って、明日からまた生きていくこととしたい。

にゃーん。

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