空破改方 星夜大捕物 ―そらやぶりあらためかた せいやのおおとりもの―
序
宝暦一年 師走拾壱 辰の刻。
丑寅の空、薄紙を上下に裂くが如く破れたり。
破れ目から黒い嵐の如きもの覗く。其より数多の光り物四方八方に飛来したり。此よりあやしの物、跋扈す
「や、やめてください!」
「いいから来んだ!」
山中に、百舌鳥とは違った叫び声が響く。
野良着の娘が、下卑た雰囲気の男から必死で逃れようとしていた。
男が娘の右手を掴んで引きずろうとすれば、娘は山毛欅の若木を左手で掴んで抵抗する。
「こんなシケた村ぁ出て、極楽みてえな所で一緒になろうって言ってんだ!」
「嫌です! あんたみたいな人と一緒はいやあ!」
「痛い目にあいてえか‼」
「誰かったすけて!」
ぱきり、と音がした。白足袋に草履を履いた足が枝を踏んでいる。
鼠色の衣に首から『浄財』と大きく書かれた寄進袋を下げ天蓋に頭はすっぽり隠されている――虚無僧が一人。
尺八ではなく、篠笛を短くしたような笛を手の中で弄んでいる。
男の肝は一瞬で縮み上がった。娘が粗朶集めに出かけるのを見越して、この山で先回りをした。
里の者たちがこの辺りにいない事も確かめたのだ。
「何だあ? 何か文句でもあんのか?」
娘は必死に視線で縋りつく。――助けて
かちゃりと刃鳴りが聞こえた。
霜が降りたように空気が冷えていく。
「抜くのか? やろうってのか⁉」
一閃――
鞘から刀を抜く様も、刀を振るう様も、男と娘には見えなかった。
虚無僧を中心に冷たい疾風が押し寄せ、森全体がどうっと鳴いた。
「ひっひいぃぃぃぃぃぃ!!」
男は娘を放り出すと、脱兎のごとく山道を駆けていく。
へたり込んだ娘の前に何か落ちてきた。人の頭くらいのものが。
「きゃあっ!」
澄んだ音を立てて刀を納めると、虚無僧はそれを拾い上げた。
鮮やかな緑の枝に、山吹色の小さな実がついている。
「やどりぎ?」
何度か枝を折ると、寄進袋に納めていく。
「あ、ありがとうございました。あの、やどりぎを何にするんですか?」「郷里では、この時期に飾る」
娘は驚いた。天蓋の下から聞こえた声は、声変わりしたばかりの少年のように聞こえたのだ。
「不貞の輩がまだいるかも知れぬ。里まで送っていく」
「ありがとうございます」
「今の人は山の上の方で炭焼きをやってる人なんです。近頃は仕事もしないでおかしな事ばかり言ってきて・・・本当に助かりました」
虚無僧は始終無言であったが、娘は不安を吐き出すように話し続けた。
やがて木々の合間に藁葺き屋根が見えてくる。
「しばらく山で一人にならぬ方がいいだろう。私はこれで」
「本当にありがとうございました。また宿り木がいるなら、いつでもお尋ねください。あたしはこの村の庄屋の娘でお松といいます」
笑顔を見せた娘に虚無僧は少しためらった。
天涯の下の顔は見えないが、気に障ったわけではなさそうだ。
「かたじけない」
起
網の上で、白い団子に香ばしい焼き色がついていく。
「じっちゃん、みたらし二本な」
「・・・・・・」
「あたー耳遠くなっちまったかぁ。みたらし二本な!」
「聞こえてんよ!」
水茶屋の前に立つのはひょろりと背の高い若侍だ。
江戸茶色のやたら縞の着流しに所々ほつれた長羽織。
武士の矜持など微塵も感じさせない男である。
「ジロさん、また甘いもん食いかい?」
「たまには酒でもやれよ」
この水茶屋の常連らしく、床几に腰かけた忍足が声を掛けてくる。
「ハハ、乳母様の家に居候じゃあ、酒もかっくらえねえよ」
「ジロさん、まだ許してもらえねえのかい」
二本の団子を手渡して店主の老人が尋ねた。
「許すもなにも、ちょっと十日ほど岡場所に通っただけじゃねえの」
そう言って二本いっぺんに団子にかぶりついた。
熱々の団子にしっかり焦げ目がつき、飴色のあまじょっぱいタレが零れおちそうな程からんでいる。
「うん、うまい!」
「太平楽だねぇ」
「団子屋にツケ作るお侍なんてジロさんくらいのもんだよ」
黒襟の娘もやって来て、話の輪に加わる。この水茶屋の看板娘だ。
「ジロさんってお侍らしいところがまるで無いもん」
「言ってくれるな、お夏ちゃん。旗本の部屋住みなんざ何所もこんなもんよ。肩身が狭いせまい」
「その割にはジロさん、飲み屋だ芝居だ遊びまわってるじゃねえか」
「ちげえねえ」
「ハハハハハ」
「あーら若様。こんな所で買い食いですか」
「むぐっ!」
後ろからの声に、若侍は団子をのどに詰まらせそうになった。
丸髷に白髪が混じった、いかにも武家の侍女といった女が冷たい視線を向けている。
「お出しした昼餉だけでは足りなかったんですかね」
「み、みづえコレはなあ・・・そうだ! お前も食え! うまいぞぉ」
「結構でございます」
乳母だった女は、凍り付くような微笑を若侍に向けた。
「じっちゃん、みたらし五本包んでくんな・・・痛ってえ!」
「お父上様も兄上様もお怒りなのですよ。わたくしの家でとくと作法礼法しつけ治して差し上げます!」
老女とは思えない気迫を発する乳母は腕を伸ばして若侍の耳たぶを引っ張り、そのまま歩き始めた。
「あててててて・・・みづえ、堪忍してくれよぉ・・・」
眼に涙を浮かべた若侍――次郎衛門に店主が竹皮で包んだ団子を手渡す。
「じっちゃん、お夏、次は餡子が食いたいって・・・痛ててててて!」
背の高い侍が小柄な老女に引っ張られていく様に、往来に笑いが広がっていく。
宝暦6年、冬。将軍家重の世の安穏とした一コマであった。
承
埃一つない畳の上に次郎衛門は正座している。
みづえは有田の茶碗に澄んだ色のお茶を注ぎ、次郎衛門の前に置いた。
二人とも往来で見せた表情は消えている。
「若年寄様からの命にございます。近頃江戸に『仏麗さま』 を名乗る邪宗の輩が跋扈しているとか」
「『ぶれいさま』?切支丹の類いか?」
「破落戸、離散した農民を中心に信徒が二百名近くに増えたとか。
これ以上、膨れる前に潰すのが ご正道のためと存じます。
探りを入れたところ麻布のあたりを根城にしていると」
「麻布ぅ? 今からじゃ着くのは夜になっちまうな」
「この『空破改方』は若年寄様の直属。江戸の太平を守るためなら、鬼であろうと蛇であろうと」
「ハイハイ、仏だろうと親だろうと斬る、ね。利具は戻ってきてるか? 同行させる」
表情を変えなかったみづえが眉をひそめた。
「あの者をまだ信用なさるのですか」
「縁者も無ければ行く当ても無い。うちには最善の奴じゃないかね 」
次郎衛門はおもむろに立ち上がり、障子を開く。
美しく枝を整えられた松の影。気配もなく虚無僧が立っていた。
「おう、聞いてたか?」
「全て。今から出立する」
「気が早いって! お前が好きなやよい屋の団子買ってきたから、食ってからな。みづえ、利具坊にもお茶!」
「団子・・・」
立木のごとく動かない虚無僧が、ほんの少しだけ身じろぐ。
それを見た次郎衛門は茶屋での表情に戻っってにっこりと笑った。
転
月も雲に隠れた冬の世を二人は足早に歩む。しんしんと冷えても、まだ雪は降らない。
家はまばらで枯野と松林が広がっている。
「とむらいを麻布ときいて人頼みってか・・・」
「誰だ!」
闇から鋭い声が上がった。 二人の前に湧き出した影はおよそ二十人程。
よく砥がれた草刈り鎌を持った者、
山仕事用の斧を持った者、錆びた甲冑を着て、戦国の世の野伏のような者までいる。
「某は林奉行配下、山田次郎衛門と申す。この辺りの山で不貞の輩の集まり有と聞き、見分に参った! 庄屋か名主に取り次いで頂きたい!」
次郎が偽の身分を名乗ればぶわり、と二人を包む殺気が膨れ上がった。
その場しのぎの武器を掴む手に力がこもり、ぎらぎらした光が目に宿る。
「役人が! 取り次ぐモンなんて無え!」
「帰えらねえと血祭だど!」」
「早速のお出ましで助かったぜ。昼から歩き通しなもんでな」
次郎衛門は不敵に笑うと、刀に手を掛けた。
得物を振り上げた男たちの間に銀色の光が奔る。
「がっはあ!」「ぐえっ」
蛙のような声を上げて、五人の男が転がった。
自分も何度も受けたから解る。次郎の一太刀は重い。
『戦国の世で、敵を鎧ごとぶった切るための剣だよ』
そう言って笑っていた。
峰打ちだろうと骨が折れ、臓腑がひっくり返ったようになるのだ。
「死ねえぇぇぇ!」
けだものの叫びに、利具も抜刀する。
重そうに鍬を振り回す男の腰元に一閃。
「あがっ!?」「おっ父!」
帯を切られた男は、ずり落ちた着物を足に引っ掛け昏倒する。
腕に覚えがあるような者はおらず、ほとんどが農民のようだ。
木枯らしのごとき太刀筋で、ある者は得物を真っ二つにされ、ある者は地面に叩きつけられる。
「うわああぁぁぁ!」
利具の反応が一瞬遅れたのは、錆刀を振り回してきたのが、まだ十一、二の子どもだったからだ。
泣きながらの闇雲な突きが天蓋に引っ掛かり、弾き飛ばす。
折しも雲が切れ、月光が辺りを照らす。
金色が、零れ落ちた。
虚無僧の天蓋の下に隠されていたのは、実って頭を垂れた稲穂のような金色の髪であった。一本一本が月の光にきらきらと輝いている。
鮮やかな藍色の髪紐で一つに結わえた金の髪の間から、常人より長く尖った耳が覗いていた。
髪と同じ色の睫毛が彩る瞳はまさに、今の季節。冬の晴れ渡った青空の色。
露になった顔は陶器のように白く、眉と言い、鼻筋と言い、一つひとつが京の職人が作った人形でのようである。
「天人さま!」「天人さまだ!」
血なまぐさい空気と殺気が霧散する。二人を囲んで打ち殺そうとしていた者たちが、顔を輝かせて利具を見つめるのだ。
利具は反射的に髪を隠そうとした。異国人が入ることを禁じたこの国で、自分の姿を見られれば騒ぎとなるのは必須。
だからこそ次郎は自分に虚無僧の恰好をさせたのだ。
「天人さまが二人おれば、怖いもんなんてないよ。おっ父!」
「あんたらの親玉は天人サマなのかい?」
「そうだ! お前らお上が何もしねえから、空から天人様が来られたんだ!」
「おら達を極楽浄土に連れてってくれるだ!」
「じゃあ、そっちの天人サマのとこに案内してもらおうか」
相手の首元に切っ先を突き付けて、団子を買う時の笑顔で次郎は言った。
元は由緒ある伽藍だったのだろう。
火事で焼けたのか、柱も屋根も煤けて酷い有り様だった。
その本堂。松明に照らされる中、大勢の人影がうごめいている。
「どうか、どうか浄土にお導きください」
「いぐどらしる様」
『オーディン、フレイ、フレイヤ、トール・・・』
その中心で、金襴の袈裟姿の男が頭を垂れて祈っている。
黄ばんだ紙には片目で髭の老人や翼を生やした女の絵が描かれていおり、何本もの蝋燭の炎に照らされている。
『ユグドラシルに血を捧げよ。 然らばビブロストはヴァルハラへと導かん』
同じ意味を、今度はこの国の言葉で繰り返す。
「ゆぐどらしるに 血をささげよ」
「「「いぐどらしるに、血を捧げよ!!」」」
男の言葉を廃寺に集まった百人以上の人間が唱和する。
「天人様!」
「なんだ! 騒々しい!」
「天人様のお仲間です! 何故だか奉行所の役人と一緒で」
袈裟の男が振り返る。
その髪は利具より濃い金色だった。
翡翠のような明るい緑色の瞳が大きく見開かれる。
『ヘイムダール!』
もう五年も呼ばれていない名前を懐かしい声が呼んだ。
光輝くアルヴヘイム。金の髪をなびかせ、誇り高く歩むエルフ達・・・
『ヘイムダール、リーグ! 君が無事だったとは!』
『テール兄さん・・・』
『いかにも! テュールズグの息子、テュールレングだ!』
テールは踊るように両腕を広げた。
『こんな恩寵なき場所で、大変な苦労をしてきたろう! ともに帰ろう』
『帰る?』
『この場所にはユグドラシルの片鱗がある!』
驚愕する利具の前に次郎衛門が割り込んだ。
利具を隠すように前に出る。
「ここまで人を集める目的は何だ? 聞いてみてくれ」
『兄さん、この集まった人の子は何なのですか?』
『ユグドラシルに生贄を捧げるんだよ』
利具の顔がさっと強張る。
それを見て次郎もおおよその見当はついた。
『どうしたんだリーグ。こんな黒髪の蛮族がユグドラシルの糧となる。名誉なことだろう』
『そのためにこれだけの人の子を殺すと⁉』
周りを見回せば、集団の中にいるのは男だけではない。
先ほどの少年より小さな子供もいれば、乳飲み子を抱えた女、老人もいる。
『アルヴヘイムの民は、誇りを汚した者を許しはしない。血の報復を』
『あなたは・・・そんな人ではなかった筈だ!』
戦
小さなものにも優しく、慈悲深かったテール。
一体この世界でどれほどの目にあったのだろう。
次郎衛門に出会えた自分は運が良かっただけなのだ。
「あー、積もる話は終わったか?」
口を挟んできた次郎衛門に、テールの柳眉が逆立った。
翡翠の目が殺意を孕んで睨んでくる。
「言い分はあろうが、お前さんたちは近隣の村から物を盗んだり、畑を荒らしたりしてるな。届が出ている」
二人の天人のやり取りを見守っていた群衆がまた殺気を孕んだ。先ほどとは比べ物にならない。
「民の安寧を阻むなら、俺達はお前さん達を捕えるし、抵抗するなら斬る。それが俺達の仕事だ」
『兄さん、私も此処にユグドラシルがあるとは思えません。この国にはこの国の王がいて、法律がある。罪人になるのはあなたです』
『君は・・・帰りたくないのか? ここは我らのいる場所ではない!
出て行けと罵り、帰る方法を探れば罰する! どうしろと言うのだ』
テールは穴が開く程利具を見つめてくる。翡翠の目は血走り、怒りと狂気が燃え上がった。
「いけにえを!」
一人の男が娘を引きずってくる。
それはまさに、かって利具が助けた娘、お松ではないか!
『ユグドラシルよ! オーディンが片目を捧げたように、我は蛮族の血を捧げん!』
ぐにゃり、と廃寺の周りの闇が蠢いた。
「何だ?」
「アレが利具坊の言ってた『いぐどらしる』じゃないのかい?」
「違う。このようなところに世界樹があるはずも無い。アレは・・・」
「ぎゃああああああああ!」
巨大な蛇のようなものが何本も這いずっている。
熟れ過ぎた果実が腐ったような悪臭が漂った。
人垣の外側にいた者から、人の足程の太さの蔦が首に巻き付き、根っこに腹を抉られている。
「あんなモノ、ユグドラシルではない!」
白い顔をさらに青白くして利具は叫んだ。
「生贄か・・・山の主だかそんなモンに、血を与え続けたんだ」
悲鳴がどんどん大きくなっていく。自在に蠢く木の根はいくつも枝分かれして人に向かっていく。
『血を! 血を捧げよ! 神々もテュールレングの報復を照覧あれ‼』
その中心でテールは天を仰いで嗤っていた。
もはやこの方法で元居た世界に戻れるか。など彼は知ったことではないのだろう。
自分を虐げ排斥した、この国の人々の血が流れるならば。
「利具坊、俺はお前の兄さんでも斬るよ? それが俺の仕事だ」
冷たい声だった。普段の次郎とはまるで違う。
利具は次郎の目を覗き込む。
ただ静かな、星の無い夜のような瞳だった。
「テールは、私がやる。次郎はあの化け物を」
「大丈夫かい?」
「私達がこの世界に来なければ、なかった災難だ。あの娘も巻き込んでしまった」
「じゃあ、頼むな」
二人は駆けだす。次郎衛門はうねくる怪異の方へ。
利具は狂った哄笑を上げるテールの方へ。
「死にたくなかったら一か所に固まれ!」
一太刀で、大木の太さに育った蔦が両断される。
「空破改め方、香住次郎衛門参る!」
正眼の構えから、見えない速さで刀が振り下ろされる。
逃げ惑う者に絡みついた蔦はバラバラになって干からびていく。
樹怪としか言いようの無いモノは木が軋むような声を上げた。
さんざん美味い餌をもらっていたのに、邪魔をされた!
向かってくる生意気な生き物を、血を吸うのではなく直々にかみ砕いて飲み込んでやろう。
廃寺の本堂の床下から、大きなものが上がってくる。
ボロボロの床板を砕きながら這い出すのは、木の根が何重にも絡まった中心に、獣のような牙を
生やした口がある代物だった。
その前に次郎衛門は一人立っている。
瞳は何処まで静かに凪いでいた。
閃光一閃――凄まじい剣戟が静まると樹怪は真っ二つになっていた。
『弓の弾き方も、剣の持ち方も教えた私を殺そうというのか? リーグ』
『剣には剣を。血には血を。だが、こんな事は違う』
刀を向けながら、利具の青い目は悲しみを称えていた。
『アレはユグドラシルとは全く違うものです』
視線を下ろせば、自分を天人と呼んだ少年が血まみれで転がっていた。
『貴方がやったことは、ただこの人たちを殺しただけだ。私は貴方を斬ります』
まだ頭の中はひっくり返っていた。
だが炭焼きの男に抱えられたお松は、あの時より怯えた顔で自分を見つめている。
刀を構える利具に、テールは剣を抜いた。アルヴヘイムからこの世界に堕ちた時も手放さなかった美しい両手剣だ。
鋭い音を立て、金属がぶつかり合う。
この国の刃は薄い。まともに受ければ刀は折れてしまうだろう。
二、三度打ち合ううちに、テールの顔には嘲りが浮かぶ。
『この国の剣は、あんたの国の
とは全然違うんだよ』
次郎の声を思い出す。
『刀はあんたの思い通り、あちらにもこちらにもに動く。自分の手が伸びたもんだと思ってみ』
人間の打った剣が、ドヴェルグが鍛えた剣に敵うとは思わない。
だから相手の勢いを利用して、受け流しそこに刃を落とす。
「がっ・・・!」
両手を剣で振り下ろした姿勢のまま、テールは首に横からの刀を受けた。
生贄の血が散々しみ込んだ地面に、エルフの血が染みていく。
『いやだ・・・私は・・・』
テールの目に飛び込んできたのは自分を斬ったリーグではなく、その後ろに駆けてきた蛮族の男だった。
ニヤリと笑って唇が動く。
「かえさない」
その意味をテールは永遠に知る事は無い。
結
長火鉢の上で鍋がぐつぐつ音を立てている。
障子を明け放つと、吹き込んだ冷えた空気に湯気が揺らいだ。
あの後、本物の林奉行の配下が駆け付けてきた。
生き残っていた『仏麗さま』の信徒たちは罪人が仕事を覚えるための人足寄場に行かせ、
ゆくゆくは新田開発の地に移り住ませるという。
彼らを放っておいてもご正道のためにはならない。
気を失っていたお松も無事家に帰れたそうだ。
「俺としては、利具坊の顔はだーれにも見せたくなかったんだがなあ」
次郎衛門はぶつくさ独り言をいいながら、皿や猪口を炬燵の上に並べていく。
静かに襖が開いた。
新しい濃紺の着物に、赤い組紐で髪をまとめた利具だ。
「利具坊が行った通り、去年の燃えさしの薪を使ったぜ。あと、祝いに鶏を食うんだろ?だから鶏鍋」
「ありがとう。これで来年も安泰なはずだ」
「まあ、座れよ」
炬燵の上には他にも様々な料理が並んでいる。
寒鮒の煮つけに、大根の膾。小豆が炊き込まれた飯まである。
「お前が好きな尾花屋の饅頭もあるぜ」
利具が手にした猪口に、燗にした酒を注ぎながら
次郎衛門はひたすらに上機嫌だったが、向かいに座った利具は目を伏せる。
「私は・・・お前に何も返せない。服も、食事も与えてもらうばかりで・・・」
「なら、お酌してくれよ」
釈然としないまま差し出された猪口に透明な酒を注ぐ。
あの後、テールの首をあの山中に埋めて、石を運んで小さな塚を作ってくれたのも次郎衛門なのだ。
「天の海に雲の波立ち月の船星の林に漕ぎ隠る見ゆ・・・おまけにこんな美人の酌とは男冥利につきるねえ」
開いた障子から夜空を見上げて次郎衛門は笑う。
輝く冬の星と、傾いた月が見える。
「利具坊は俺と向かいで飯を食ってくれりゃいいんだよ。それで十分」
「そんなことでいいのか?」
あの山で採ってきた宿り木は、竹製の花入れに飾られ欄間から吊るされている。
――ユールボードとユールログも宿り木も用意できた。
――この男の上に平穏がありますように。
「利具坊、豆腐も入れるか?」
縁一つ無い世界に堕ちたエルフ、ヘイムダールは人知れずユールの祈りを捧げた。
【終】
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