東京で抱いた違和感
先日、都内の河川敷の芝生で大の字になって寝転んでいた。陽が傾き、西陽が差し込んでくる。
近くの鉄橋を、轟音を轟かせて長い長い電車がひっきりなしに通り過ぎる。こんなに長いのに、どの車両にも人がわんさか乗っている。それなのに、誰一人として僕が大の字で寝転がっていることに気づかずに通り過ぎる。景色を楽しんでいる人などいないようだ。
皆、早く家に帰ることに必死に見えた。携帯の情報を見るのに必死に見えた。川辺で寝っ転がってる変人を見つけてニンマリするやつは誰一人としていなかった。
こんなにも美しい世界が広がっているのに、誰もその美しさには目を向けもしなかった。こんなにも素敵な命たちに囲まれて生きているのに、その喜びを感じている人はいなかった。
翌日、僕は別の公園で瞑想しようとした。ところが、都会の雑踏が邪魔してまったく意識を集中させられなかった。車の走る音。遠くの駅アナウンス。公園で遊ぶ子どもたちの声。散歩するおばあちゃんたちの立ち話。常に外から情報が入り、意識が外に向いてしまう。
この街は、生きていることを感じさせてくれるだけの暇を僕に与えてくれなかった。
僕にとっての1番の幸せは、生きていると感じられることそのものだ。実は明日を生きる保証なんてないこの世界の中で、確かに今日を生き、そして生きていることを味わえることが1番の幸せだ。
この幸せを味わい続けられることが僕の生きている証だ。