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夏が終わるのでインターホンの怪談をしますね

たしか高校生の頃の話。

その日は、やけにすっきりと目が覚めてベッドから起きたのを覚えています。
マンションの壁が塗り直しになってからというもの、建物全体を覆うように足場が組まれ、その上から目隠し兼防音のシートのようなものが被せられています。
そのせいで夏だというのに窓から光が入らず、数日はなんとなく朝は寝起きが悪くなっていたのでした。

珍しく早起きね、などと母から茶化されながら歯を磨いて顔を洗います。先に起きていた妹はもう制服に着替えて朝食を食べているところでした。
父はいません。とっくの昔に玄関を出て、今頃会社にいるに違いありません。始発の運行は待ってくれないのです。
私も制服に着替えて、遅れて食卓につこうとしました。別段変わったところもない、いつも通りの朝でした。

その時でした。
急に「ピンポーン」と、玄関のインターホンが鳴ったのです。
瞬間、胸の底がいやにざわつきました。

一軒家に住んでいる人には馴染みがないかもしれませんが、大抵のマンションには玄関が二つあります。
一つは建物全体の入り口、もう一つは自分の家の扉です。
そして大抵の場合、大玄関の暗証番号と鍵を持っている人間以外は、モニターを通して住人にお伺いをたてなければ中に入ることはできません。

そうです、外部から人が来る場合、本来インターホンは二回なってしかるべきなのです。
そして、今父以外の人間は家の中に揃っています。もし父が帰ってきたのだとしたら…インターホンを鳴らす必要はないのです。父は鍵を持っているのですから。

じゃあ、今玄関にいるのは、誰?
たった一瞬の間でしたが、いやな想像が頭の中を駆け巡りました。

しかし、非常事態は滅多に起こらないから非常事態なのでありまして。
さてはお父さん、鍵を忘れたな。そう思い直して、
私は受話器をとりました。

「はい?」
「追われているんです、かくまって下さい」

くぐもった、知らない男の声でした。ボイスチェンジャーで声を変えたような、おおよそ人間らしくない、不自然な声色でした。
その言葉にも驚きましたが、何より知らない人間がなぜか今玄関にいる、その事実に驚きました。どうやって入ったのだ、どうしてうちに来たのだ。考えれば考えるほどに、受話器の向こうの男が怪しくってしょうがありませんでした。
返事をしない私にむかって、男はぼそぼそと続けます。

「助けてください、かくまって下さい、ベランダに。追われているんです」

怖くなってすぐに母を呼びました。
半笑いで「追われてるって人が」というと、母は訝しげな顔をして受話器をとりました。
男は同じことを繰り返して話したのでしょう。しばらくすると母の顔色が変わりました。

私の隣を妹が通り過ぎました。彼女は玄関まで抜き足差し足で歩いて行くと、そっとドアスコープを覗きました。危ないからやめなって、と私ははらはらしながら彼女の一挙一動を見守っていました。
やがて帰ってきた妹は言いました。

「なんか、目つき悪い」
言ったきり、男の応対は母に任せて食事を再開しました。

お恥ずかしい話なのですが、私は直接その男を見ていないのです。妹にならってドアスコープを覗く勇気はとてもありませんでした。だから、私が知り得る男に関しての情報は、この一言だけなのです。

母はまだ男と問答を続けていました。うちには今女しかいないから、あなたを追っ手から匿うことはできない、ということを言い続けると、ようやく男はうちに入るのを諦めたようでした。
「じゃあ、他を当たります」
それだけ言って男は去っていったと、母は言っていました。

その朝の体験だけでも、臆病な私には十分恐ろしい体験だったのですが、
後日談が明らかになるにつけ、私はさらに背中に薄ら寒いものを感じることになりました。

驚いたことに「他を当たる」といった男から来訪を受けた家は、うち以外には一件も見当たらなかったのです。
同じフロアは言わずもがな、後から管理人がマンション全体に訊いても、誰一人として男を見たものはいませんでした。

そして大玄関についている防犯カメラにも、それらしき姿は映っていませんでした。その時間にカメラの前を通ったのは部活の朝練習に行く中学生だけでした。入ってくるものは一人もいなかったのです。
マンションなんだから、大玄関以外にだっていくらでも侵入口はあるだろう、という人がいるかもしれません。
それはあり得ません。
その日はマンションの全体が、完全に防音シートで覆われていたのですから。非常口も中からしか開けられないようになっていますし、上から下まで人はおろか、猫が通るような隙間もありません。

あの男はどこから入り、そしてどこへ消えたのか。
もし、もし扉を開けてしまっていたら、私たちはどうなっていたのだろうか。
落ちくぼんだ、血走った目がドアスコープを覗き返しているところを想像すると、今でもすーっと背中に鳥肌が立ちます。


以来、私の家では一度もあの日のことは話題に上がりません。誰もそんなことなどなかったかのように振舞っています。過ぎたことはなかったこと、喉元過ぎれば熱さを忘れる。

しかし私は今でも、インターホンに出るたびにこっそり刃物を用意する癖をやめられないのです。
馬鹿馬鹿しいとはわかっています。
それでも誰かがドアの前に立っているのが怖いのです。扉の前に立って、じっと誰かが私をまっている。板一枚挟んで、見知らぬ誰かと向き合っている。それが怖くて堪らないのです。

みなさんの部屋に、インターホンはありますか?

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