服好きだけど「おしゃれだね」と言われたくない
「いつもおしゃれだよね〜」
「今日の服かわいいね」
「毎日綺麗にしてるのすごいね」
人からこれらの言葉をかけられた時、どう感じるだろうか?
わたしは内心、
「ひぃ!やめて!許してくれ!!」
と思っている。
もちろんわたしは服やメイクやアクセサリーが好きだし、身なりを小綺麗にすることでテンションが上がるし、周りから綺麗な人だと思われたくてそれなりに努力している。だからいわゆる「おしゃれさん」であることは否定しない。しないのだけれど……!
自意識が!それを許さないのである!!
この気持ちは一体何なのだろう。歌詞とか詩歌以外で使用すると死ぬほどしゃらくさいフレーズだが、いやマジで何なのだろう?
我ながら興味深い矛盾なので、ちょっと整理してみたい。
おしゃれ=滲み出るセンスであってほしい。
とどのつまりはこういうこと↑だと思うんだよな。
わたしの憧れるおしゃれな人は、例えば役者さんやモデルさんだったり、そうでなくても被写体をやりながら起業したり、SNSで発信をしたりしている。
あるいは文筆家や研究者であったり、漫画家やイラストレーターだったり、建築家やエンジニアなどのいわゆるクリエイターだったりもする。
もっと近いところでいうと、仕事もプライベートも順調そうな友だちであったり、しごできな取引先の人だったり、駅やルミネですれ違う綺麗なお姉さんだったりする。
そういう、わたしの憧れるおしゃれな人がだいたいそうなんだけど、類稀な美的感性と整えられた暮らしぶりのアウトプットのひとつとして、うつくしい外見とセンスの良いファッションがある、という構図がある。
これは事実としてそうであるというよりは、むしろ「そう周り(というかわたし)が認知している」という意味での「構図」である。
より卑近な言い回しをすると、人生丸ごとキラキラしてる感が出てるのだ、おしゃれな人たちには(突然の倒置法)。
そう考えると、周りに褒められるということは、あなたもキラキラしてるってことだと素直に受け止めればいいのでは? という疑問が出てくるのだが、自分の胸に問いかけてみた感じだと答えはNOだ。
なぜなら、そういうキラキラしてる人たちは「褒められ待ち」してなさそうだから。
書いててほんと恥ずかしいんだけども、
美的感性や佇まいの美しさを天から賜わっていてしかも本人が気にかけてない状態をを演出したいんだよ!
それを面と向かって指摘されたら意味がないんだよ!!
要は、「おしゃれしていることを褒められたい人」だと思われてるのが恥ずかしいのである。
「褒め」を引き出そうとするのは「負け」?
ここにはおそらくもう一つのバイアスがある。それが「人に褒められたいおしゃれ=負け」みたいな信念である。
信念というと大袈裟かもしれないが、なんかそれは違う気がすると固く信じているものくらいの取り方をしてほしい。
そう、おしゃれな人だと思われたいし、あわよくばそういうキラキラ感を醸し出せればいいのだが、そのニーズを実際に他人に「褒め」という形で満たされると己の卑小さとばっちり目を合わせちゃった気持ちになってしまうのだ(?)
多分それは、わたしの人生が別に大してキラキラしてなくて、見た目だけ背伸びをしている状態だから、なのだと思う。
だって本当にやりたいことを極めてるとか、一定のアウトプットを出してるとか、自分に満足できるくらい真面目に何かに取り組んでいたら、少なくとも周りはその姿勢を先に褒めたくなるもんじゃないだろうか。
見た目以外に褒めるところのない自分。その見た目すらもハリボテであることを思い出して、まあ落ち込んでしまうわけなのである。
でもまあ別におしゃれが悪いわけではないと思うけどさ
おしゃれは悪くない。褒めてくれる人も悪くない。ほんとにこれはわたしの自意識の問題です。じゃあ中身を向上するために、なんか一つ頑張ってみりゃいいじゃないのとも思うんだけどね。なかなかね。
とはいえ、わたしはそれでもファッションやメイクやアクセサリーにだいぶ救われているし、こんなことで手を切るつもりはさらさらない。
やっぱりうつくしい格好をしたときの自分はかわいいし、好ましい。褒められると自意識でぎゃっとは思うものの、それでも見た目を整えることで得をする場面は多い。だからやめられない。
それに、たとえ今日生産的なことがいっこもできなかったとしても、自分の好きな格好をすることは出来たじゃないの。そう思うと心が穏やかになる。これはきっと悪くないことだと思う。
当たり前のことを書き連ねてしまった気もするけども。
いつか中身も詰まった人間になれたら、こんなことを思い悩まなくて済むようになるのかな。
しばらくは自意識でまごまごすることになると思うけど、明日も多分わたしはおしゃれするんだと思います。はい。