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『100の思考実験』感想:読むと人の意見が聞きたくなってしまう良書

 『100の思考実験:あなたはどこまで考えられるか』ジュリアン・バジーニ /著 向井和美/翻訳(2012年/紀伊国屋書店)を読んだ。書店で目が合って、絶対面白いだろ!と思って連れ帰った本。期待通り面白くて、本を離れてからもずっと、この本の内容について考えてしまう。
 掲載されている思考実験はどれも面白い。有名な思考実験を翻案したものや、別角度から検討したものもあるので「自分には若干物足りない」という感想も見かけたが、同じテーマも切り口が変わると全然考え方が変わってくる。むしろこれだけバリエーションを増やしたことで、自分の信念が案外あるようで実はない、ものの見方も一定でないことが浮き彫りになって、個人的には良い読書体験だった。
 特に面白かった思考実験と、それについて考えたことを若干記してみる。

30 依存する命

病院に勤めるディックは勤務終了後にそのまま酒を飲み、病院のとあるベットで酔いつぶれてしまった。目が覚めると、彼は知らない人間と管でつながれていた。生きるために臓器移植の必要な患者に対し、ドナーが見つかるまで一緒に管でつながれて臓器機能を提供する、新しい人命救助のボランティアと間違えられたのだ。ドナーが見つかるまでおよそ9か月。うっかりベッドに寝てしまっただけの自分にそんな義務はないとディックは言う。しかし事実として、つながっている管を外せば、患者である世界的バイオリニストは死んでしまうのだ。

『100の思考実験』P.129-130をもとに要約

 突飛な筋書きだがこれは「予定外の妊娠」とそっくりである、という著者の解説を読んで「確かに!」と頷きが止まらなかった。自分自身、女性の体を持っているが、妊娠をこのような視点でとらえたことがなかったので新鮮。とはいえ、まったくイコールの話でもないので詳しくは本を読んでほしい。
 さて、このバイオリニストの命を終わらせる選択が、ディックにはできるのか? 
 クーリングオフ然り、世の中のたいていの「うっかり」はわりと取り消しが許されているものだけど、その代償が重すぎるとなると話は別になる。深刻な影響が出る「うっかり」が発生した場合、大概その原因を作った人は責められるし、取り消しは効かない。
 そうはいっても本人の意思に反して9か月も拘束されるというのは、さすがに不当というか、やりすぎと思わざるを得ない。ディックが管を切り離したがるのは当然の話だ。もともとこの生命維持装置はボランティアであり、バイオリニストにとってこの延命のチャンスは所与のものではない。仮にそれでバイオリニストが死ぬとしても、意図的な殺人を犯したとまでは言えないだろう。
 それに妊娠の場合は、出産がゴールではなく始まりであるので、拘束はもっともっと長く続く。時間ではなく人生そのものを縛る契約を「うっかり」で締結するのは、生まれてくる赤子にも悪い話じゃないだろうか。
ところで、医者のほうはどうなのだろう。妊娠が一人ではできないように、この装置につながることもディック一人ではできないはずだ。医者の協力がなければ。ディックや予定外の妊娠をした女性は、どの時点までの行為の責任を負うべきなのだろう。その気もないのに、酔ってベッドになだれ込んだことだろうか? でもそのあとで「決定的に戻ってこられないライン」に踏み「出した」のは、自分ではないのに?
 しかしこの医者が責任を負うことがあっても、あくまで選択の余地は肉体の所有者であるディックに与えられなければならない。さもなければ、意に反して管につながれたり、管を外されたりすることを認めてしまうことになるからだ。
 結局のところ、負うべき責任の範囲にかかわらず、命の選択は1番深刻に巻き込まれた人間が握ることになる……。

54 ありふれた英雄

ケニー二等兵は自ら手榴弾を押さえ込んで亡くなった。そのおかげで周りの兵士は巻き添えにならずに済んだ。しかしケニーは死後、軍人の勇気をたたえる十字勲章をもらうことができなかった。遺族が説明を求めたところ、ケニーの属していた連隊からはこう回答があった。
「すべての軍人は常に全連隊の利益となる行動を求められています。仮にケニー二等兵の行為が義務の要請を超えたものだとしたら、場合によっては、全連隊の利益となる行動をとらなくても許されることになります。それは、あきらかに理不尽です。」
そのために死後表彰はしないとのことだが、遺族はケニーの行動が英雄的でないとはどうしても納得できなかった。

『100の思考実験』P.220-221をもとに要約

 独特の言い回しもあって、一読しただけではよくわからない話だった。著者の解説を読んでみたところでは「道徳的に求められる以上のことをした人を、道徳的であるとみなすかどうか」という話である模様。それは例えば悪天候の海で溺れている人を無理やり助けに行くような……。「過剰な行為をすれば褒められるだろうが、それをしなくても責められはしない」というように、英雄的行為と道徳的義務は同一線上にあるようでいて、その実ふたつの間にはなにか大きな溝のようなものがある。
 小学生のころ「いい子ちゃん」「ぶりっこ」という悪口を向けられる子がいた。先生が大荷物で廊下を歩いていたら、声をかけて一緒に持ってあげるような子。あの悪口も「普通にしてるだけなのに、まるで私たちが無視してるみたいなるから、足並み揃えてよね」という思いから出たものなんだろうか。個人に(本人の目から見て)過度な負担を強いる行為を善行に数えない、という営みはこんな卑近なところにもある。
 組織人としての直感では、ケニー二等兵の行為は仲間・組織に利益をもたらしたのだから当然評価されるべきでしょ、と思う。それに周りの隊員や、彼らを擁する連隊は、ケニー二等兵の命と引き換えに直接利益を得ている。とすれば、(たとえ周囲は向こう見ずな行動に辟易していたとしても)水難事故で助けられた本人が自然な流れでお礼を言うくらいには、与えられた利益に対する対価として、彼を表彰してもいいのではないかと思う。
 では稀有な活動家、善意の人のおかげで世の中をよくしてもらっている私は、間接的に利益を得ており、やはり対価を払うべきなのか? 
 例えばペット不可の賃貸に住む私は、保護猫活動をしている人より猫を愛していないのだろうか? 赤い羽根共同募金を見ないふりした私は、道徳的要請に応えていないと見做されるのだろうか?
 ここまでできれば十分、あとはできる人がやればいい、という線引きがないと、わたしたちは安心して自分を守れなくなってしまう。
 上限がなく、等しく道徳的義務が課されるようでは、世界は「あいつは恵まれているからそうするのが当然だ、われわれは恵まれていないのだから、同じようにできなくても責められるべきではない」「あいつらは恵まれていない事を言い訳にして義務を怠った情けない人間だ」という分断に溢れてしまう。過剰な行為と道徳的な要請を分断することが、かえって人と人との分断を防ぐなんてことがあるのかもしれない。でも、その線引きはやっぱりわからない。
 著者もこの点には強く興味を持っていると見える。たとえば「100 喫茶店に住む人たち」は、ファストファッション業界の裏側で起きていることを暗示している。不当な労働条件で働く人がいることで享受できるサービスは歪だ。それでも、彼らの雇用がなくなることよりは、はるかにマシな状況なのだろうか。あるいはそれは、サービスを享受する側、暗に格差に加担する側の、言い訳なのだろうか。

78 神に賭ける

そして主は哲学者に言われた。「わたしは主なる神である。ただし、その証拠はないのだから、堕落した今のお前にふさわしい、信ずべき理由を教えよう。つまり、打算に基づいて神に賭けるのだ。」
神が存在する方に賭ければ、それが当たれば永遠の命が与えられる。外れたとしても、宗教活動にかかった少々の無駄な時間と引き換えに、存命の間は少なくとも心安らかに過ごすことができる。神がいない方に賭ければ、それが当たれば自由気ままに過ごして死ぬ人生で済むが、もし賭けが外れて神が存在した場合、死後に永遠の地獄を味わうことになる。
となると、やっぱり神がいる方に賭けておくのがベターではないだろうか?

『100の思考実験』P.310-311をもとに要約

 本書の中でも特にこの話は好きだった。ただキリスト教系列の学校に通っているだとか、近しい人にクリスチャンがいるとか、あるいは自分自身がそうであるような人でないと、面白さは伝わりにくいかもしれない。(聖書で神様が発言する場面の多くは「そして主は言われた」から始まる)
 さて、何らかの宗教を信じているのにその教えを守ろうとしない人は、どの宗教にも、そして世界中にいるに違いない。
 キリスト教ならば、礼拝に行くべき日曜日にバイトを入れたり、占いに頼ってみたり、あるいは婚前交渉も平気でするし、食事の前に祈ることもしないが、クリスマスイブだけは真面目に教会に行く、などだろうか。別の宗教であれば、信者でありながら断食をしないとか、特定の肉を食べるとか、教義に沿った髪型や格好をしない、聖典を読まないなどかもしれない。
 神がいるとも熱心に思っていないが、それでも万一いた場合にそなえて最低限はかかわりを持っておくという生き方は、まさしくこの思考実験でいうところの「打算的な信仰=神に賭ける」姿勢である。この打算的な賭けに対して著者は、そもそも実際の選択肢が2択でないから賭けは成立しないのではないか、と述べている。
 多くの宗教は唯一絶対の神というたてつけになっているため、たとえ自分の宗教の神への忠誠を誓ったとしても、別の神から見たらそれは背信行為になってしまう。つまり「神を信じるか/信じないか」ではなく「どの神を信じるか」が問題なのだ。しかも宗教選びを外さなかったとしても、全知全能の神が打算的な信仰を見抜けないわけがなく、それを許してくれるとも思えない。というわけで、神に賭けるのは賢明ではない、というのが解説の大筋だった。
 ところで日本人はどうなのだろう。
 遠藤周作の『沈黙』で、日本の精神風土は、どんな宗教の苗を植え付けられても枯らしてしまう「沼地」にたとえられていた。
 結婚式はチャペルでドレス、あるいは神社で和装? お葬式はお寺にお願いしよう。今度の旅行は現地の神社・仏閣をスタンプラリーしようかな。海外に行くなら、イスラム教の聖堂がフォトジェニックらしいから行ってみたいな。渋谷にもあるの?じゃあ今度行く?
 この国では、宗教がいつの間にかそうではない何かとすり替えられてしまう。八百万の神といえば聞こえはいいが、コンビニエンス宗教とかつまみ食い宗教とも見ることができる。
 神に打算で賭けろと言われて、満遍なく張った状態が、宗教のつまみ食いに溢れたこの国なのだろうか。いや、結婚式をする多くの人がチャペルを選ぶのは、形式的にでも信仰心をあらわそうという打算ですらない、ゼクシィのお導きに従った結果じゃないか。
 何も信じない無宗教ではなく、平然とどの神にも賭ける態度でもない。これは、なんと呼ぶのがふさわしいのだろう。
 この「主は言われた」系の思考実験はいくつもこの本に入っているので、ぜひ探して欧米と日本とのギャップを味わってみてほしい。 

終わりに:トロッコ問題を物理の問題にすり替えない胆力

 トロッコ問題がそうであるように、思考実験といえば理不尽で現実離れしているものと認識されがちだ。理不尽で現実離れしているから、考えるのも疲れるし、つい「そんなもの考えて何になるのか」とさじを投げたくなる。
 著者もこれまで散々そのような疑問・批判を投げかけられてきたのか、はしがきには次のように書いている。

(前略)こうした思考実験で考えるよう求められることがらは、荒唐無稽に思えるかもしれない。しかし、あらゆる思考実験がそうであるように、その目的は、核心となるひとつの概念や問題に焦点を当てておくことにあるのだ。ありえないようなたとえ話を使ってそれができるのなら、その非現実性を気にする必要はない。思考実験は、思考を助けるための単なる道具であり、実生活を忠実に写すことを目的とはしていない。

『100の思考実験』P.15より引用

 「線路の切り替え部分に到達した瞬間にレバーをひねれば、トロッコ問題は解決できるw」「こういうことを決めさせる問題設定がそもそもよくなくない?」みたいなことはよく言われるが、そこで現実問題に話をすり替えては実験の意味がない。
 殺すことと死なせることはどう違うのか。最大多数の最大幸福は本当に道徳的なのか。そうであるとしたら、我々のどのような部分が、レバーを捻ることを躊躇わせるのか。
 真剣に考える=実験するための場には、真剣に挑んだ方が楽しい。答えを出すことを目指さないで「ああでもない、こうでもない」と考えるのが、面白い。そう、実験は意地悪でも無意味でもなく、本来面白いものなのだと思う。

 本書は、他の読者がどう考えるのかとても気になる本なのに、ひとつひとつの思考実験を検討したレビューは、ネットには少ない(かなしい)。なので今回は抜粋して所感を投稿してみた。
 同じことを思っている人がいたら、ぜひご自身で感じたことや考えたことを公開してほしい。必ず見にいくので。それくらいに、他の人との対話を呼び込む力のある本なので、未読の人は書店で探してみてほしい。

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