20世紀最後のボンボン 第三部 メンロパーク篇 第三章 スタンフォード
家からスタンフォード大学まで自転車で
10分くらい、歩いても行ける距離だった。
それでなぜスタンフォードの大学院に
すぐ行かなかったのかと言えば、それは
スケジュールがめちゃくちゃタイトだったから
につきる。
私が行きたかったのはドキュメンタリー制作学部
だったが、そこのスケジュールを問い合わせて
これは私にはできないと思った。
授業自体は午前9時から午後9時くらいまで。
これはまだわかる。けれども、その他に撮影の
宿題があるから結局チームを組んでやるとなると
午前6時から夜中まで全部拘束ということに
なるという答えだった。
カンクン君は1歳半になっていたが、まだおっぱいを飲んでいた。
なれない外国に来て、ご飯も変わったので、さらに
おっぱいから離れなくなった。
そういう赤ちゃんがいても、しょっていって、私に
勉強を続けることができただろうか?
私はできても、カンクン君はどうなるだろうか?
全部がはじめてのことだった。
いくらテイクリスクが結局は大成功の元といっても、
小さな子供がいるのである。
しかも誰にとってもたった一人の王様として生まれたのである。
とにかくあと一年して、おっぱいから完全に離れないと
決断できないと思った。
ボンボンは何も言わなかった。そして一年待つと私が
決めたとき、
「そうだね、別に急ぐことはないですよ。」
と言ってくれた。
学生ビザで滞米するからにはクラスには
どんな学校に通っていようとほぼ毎日、出ないといけない。
けれども、クラス以外の時間は、もちろん家族といる時間である。
赤ちゃんは手がかかるが成長する。
うちには赤ちゃんのように成長しない赤ちゃんもいた。
ボンボンである。
ボンボンは淋しがり屋だった。
多分生まれて初めて落ち着ける場所を得たのだという安心感と
誰かに私を取られてしまうのではないかという不安。
アメリカに住むことになったのも、もちろん、
ボンボンの貢献活動への動機もあった。
けれどもそれ以上に、日本に住み続ける息苦しさと
何か新しいことをやってみたいというまだ残っている若さと。
そういう時に私がハードスケジュールの大学院をこなすのは
まず無理だったと思う。いくら無鉄砲な私でも、いくら
アメリカでいろいろ勉強したいという私でも、
タイミングはよく考えないと。
それに映画製作というとアートだが、学部的には社会学なので
その専門用語などの習得はそんなに短期では難しかった。
いくらだいたいのものがカタカナの日本語で知っている言葉だった
とはいえ、学生として、拘束された中で、英語で議論していくには
私の英語は当時、まだ不完全だった。それもいつものように頑張れば
何とか間に合うかもしれなかったが、私ははっきり、カンクン君を
優先した。
ずいぶん後になって、ヤフーの女性CEOが赤ちゃんを産んですぐ
仕事に戻って、それはベビーシッターとか、いろいろな人を雇って
自分が仕事に専念できたからだという賞賛のニュースがあったが、
私はどんな名誉が待っていても、カンクン君から目を離すことなど
できなかった。ヤフーのCEOの座なんかカンクン君に比べれば
存在していないも同じだった。私たちの周りには日本人の親類も
住んでいないのだ。カンクン君の日本人としての文化を伝えるためには
私はすべてを投げ出す覚悟ができていた。
今までやってきた頑張りをある種、捨てるのは一種の賭けだった。
それは私という人間が試されている瞬間だった。
私にとって大事なものは何か。
そういう風に尋ねられていると思った。
私は絶対にカンクン君が大事。
そういう私の環境は特殊だと思っていたが、日本に一時帰国して
見渡すと、ワンオペ育児という造語までできており、
大変な問題だと思った。
私は女性にはそういうハンデがあるのだとは
思っていない。人間は経験しないとわからないことがあるのだ。
子供を産んでみないとわからない。
育ててみないとわからない。
そういう経験をしないといけないのだ。私は。
(だからといって女性が赤ちゃんと心中しないといけないほど
追い詰められている現在の状況は生物として許せませんが)
経験しないと本当の意味で、世の中に貢献することは
できないのだという思い込みが常にあったように思う。
それは善悪ではなく、私はそういう人間なのだ。
そういう人間として生きていくということが分かったと
いうことなのだ。
育児は親を育てるというがまさに私は育児によって、
再び成長する機会を与えられたと思っている。
感謝している。
続きは第三部 メンロパーク篇 第四章 で。