江戸初期(1630年前後)の江戸湊
江戸初期の江戸の町を表したとされる古地図に出会いました。
今の東京に比べ陸地が少ない!そして、町の真ん中(今の京橋辺り)に船着場が!面白いので紹介します。
東京が田舎から都市に発展したのは江戸時代が始まってから。江戸幕府をひらいた徳川家康が初めて江戸に入ったのが1590年。当時は湿地帯であった場所を埋立て、川の流れを変え、水路を整備し約100年かけて100万人が住む町に発展させたと言われています。
出会った地図は「武州豊嶋郡江戸庄図」。作成時期は定かではないが、1632年頃といいわれている。国立国会図書館のデジタルコレクションで非常に高解像度のものが誰でも見れる。
(1)地図の特徴
絵としてのまとまりや美しさが優先されて描かれており、地図としての正確さはない。江戸時代の古地図は皆そうだが、現代の地図とは重ねられない。西が上になっており、今の隅田川と東京湾が地図の下端を左右に這っている。
右上に江戸城が周りを囲む堀と共に立派に描かれ、その周りを武家屋敷が囲んでいる。地図下側には左側に東京湾が、そして右側には水路が張り巡らされた町人の居住区域内がある。
(2)八丁堀が陸地の南端。この頃、築地はまだなかった。
まず注目したいのが、八丁堀。「八丁ほり」との文字が読める。名前のとおり、八丁の長さの堀であることがわかる。何よりも、左側はすぐ海というのが驚き。
もう少し広域にみたものがこの絵だが、下方真ん中にある島のような土地が霊岸島(今の新川地域)であり、その上方は茅場町であろう。今では茅場町の隣に八丁堀があって、さらに行けば築地にたどり着くわけであるが、この時代、築地はまだなかった。築地は、その名の通り、この後、「土地」が「築」かれる。
地図を見ながら、この時代の風景を想像するとワクワクする。
(3)京橋界隈の船着場。
この地図の中で、何より目につくのが縦横にはりめぐらされた水路と船入である。左寄り中央に「京橋」と書かれた橋がある。今の京橋がこの位置に対応するのであろう。
すなわち今の銀座界隈は水路が張り巡らされ、船からさまざまな物資を陸揚げする場所だったことがわかる。
この場所は、東京湾からさほど距離はない。大波などあればひとたまりもなさそうだが、それほど東京湾は平穏な場所だったからこそ、このような物流拠点にできたということだと思う。そういう意味では、江戸という場所は、もともとポテンシャルのある場所だったと思う。
(4)今と変わらない桜田門と二重橋。
パッと見て、今と変わらないと思った場所が江戸城周辺(今の皇居周辺)の堀の形状だ。皇居周辺の堀の形ってホントいびつな形をしてるんですよね。なんでこんな形になったのか?敵を欺くため?などと考えてたことがあるのですが、これって自然の高低差などもうまく利用してこのような形になったと思う。
二重橋のあたりってよく地図で目にすることがあったので、この古地図でもすぐにわかりました。Google mapで同じ地点の地図も比較のため貼りました。古地図は上下にだいぶ圧縮されて描かれるものの、ピッタリですね。
二重橋は、行かれたことがある方が多いと思いますが、趣のある場所です。当時はどんな景観だったんでしょうね。また、1600年代の武家屋敷ってどんな家だったんでしょう?そんなことを想像しながら地図を眺めております。
(5)この頃すでに神田川は開通し、浅草橋があった。
最後に、神田川のお話です。神田川は人口の川です。江戸城に直接流れ込んでいた川の流れを変え、駿河台(今のお茶の水あたり)の高台を掘削して隅田川に水を通し、江戸城界隈の水害を無くしました。
1630年にはすでに開通していたんですね。地図の左下を上側から下に向けて流れる川が神田川です。そして、ここにかかる橋に「あさくさばし」との文字が書かれています。今の浅草橋の場所がここに対応します。
以前、駿河台を掘削した時の土を使ってできたのが築地だ、と聞いたことがあります。神田川の掘削と築地は関連あるんだと思ってましたが、この地図を見ると神田川があるが、築地はなかった。
もしかしたら、駿河台の掘削は、まだ小規模なものだったのかも知れません。この後川幅を大きくする大規模な掘削があり、その土を築地にしたのかもしれません。
もう少し、色々調べてみようと思います。