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「またね」で生きた

君の最寄りの駅名が忘れられない。
その駅に降り立ったことはない。
思い出す度、いつか行ってみようかなと企む気持ちが浮かぶ。「ばったり会えたら」なんて期待が僕を悲しませる。連絡はもう取れない。
いつかの久しぶりの連絡で、「死にたいから電話して欲しい」と言ったらLINEはブロックされた。
インスタは、いつのまにか消えていた。

どこが好きだったんだろう。これといった何かはなかったけど、話すリズムが心地良かった。それに何より、君の世界観が好きだった。
だから君の好きな音楽を好きになったし、君の撮る写真を愛した。
そしたらいつの間にか僕も同じ音楽を聴いていて、今まで全く撮らなかった写真を撮るようになった。
共有して、褒め合って、いいものをいいと言い合って、、そんなことをした。

その恋は、美化できる恋だった。それもそのはず、相手は私のことを好きではなかったのだから。弱さを美化という形で補う。片思いにおいて、美化も劣化もさせないで貫き通せるほど私は強くない。いや、片思いに限らずだ。辛い記憶は何かしらの形や気持ちに変えるんだ、みんなそうでしょ。

ところで強いとはなにか。人間が、心が、強いということ。自分が思う強い人を見ると、あるいは自覚して公言している人を見ると、悔しくなる。それは憧れからくるものなのか、疑いからくるものなのか。両方だろう。
弱いままでいることが強さだなんて、どこかで聞いたことのあるようなことが真実だと思うときもあるし、本当の本当に強いことが強さだと思うこともある。これについては、もっともっと生きてみないとわからないなと思う。

私は別れ際のあの子の「またね」だけを頼りに生きている。馬鹿みたいにそのまたねを言葉通りに受け取り、また会えるんだと確信している。疑いの心なんて0.1ミリもない。いつでも切れる関係なのに、これだけ信頼しているのはなぜだろう。答えは決まっている。

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