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【日常】事実は小説よりも奇なり

子供の頃、昔ながらの駄菓子屋さんで豆腐が水に浮かべて売られていたなんて一体誰が信じるだろうか。1990年代。私ですら記憶の改ざんを疑うくらいだ。

四種類のジュースしか並んでいないスリムな自販機があった。あの頃は、裸足で歩いていける距離に豊かな海があった。毎年夏になると潮干狩りをして、昼になればパラソルの下で塩っぱい大きなおにぎりを頬張った。
そのおかげで私はいまでも冷ご飯が大好きだ。

大切な思い出の数々が、連続する瞬間を重ねるうちに、いつの間にか失われていってしまう。もう手が届かない。それらが語る生の声を聞くこともできない。大切な人の死後に必ず、もっと話しておけば良かったと後悔するのと同じように。

あの頃に戻りたいと思うだろうか。あの頃に戻れるとしたら、少しでも、より良い人生を送ろうと改心できるのだろうか。
あの頃に戻れるのなら、もっと核心的な話を交えることができただろうか。つまりは「役割」ではなく「個の魂」なる問題に。

取りこぼしがないようにと精一杯手を伸ばしても、その隙間から一つ、また一つと大切なモノばかりがこぼれ落ちていってしまう。それらを引き止めることもできないし、その場に留め置くことすらできなくて、どうしようもないほどの無力さを感じる。

だから私は小さな抵抗として言葉を紡ぐ。

誰一人、気にとめなかったとしても、私は私が見てきた世界を何もなかったかのように消してしまいたくはない。

それらが語る声を、声として映す場所として。

物語が存在してくれることの喜び。

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水筒鯨
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