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【日常】それはすでに達成している
今まさに真剣に取り組んでいる事柄があるとして。もがいているのに、思う通りにできなくて苦しい。できている人や既に洗練されている人、成功者と自分を比べて、結果を出せていない、形になっていない自分が悔しい。そう思う時は、最初の達成が近づいているように思う。
ここで言及するのは個人的な達成であり、万人にとっての達成ではないかもしれない。私にとっての達成は、認識の変化。手ごたえの厚み。昨日見えなかったものが今日見えるようになること。地位や金銭や名声は、認識の変化の後でついてくる副次的なものに過ぎない。
昨日見えなかったものが今日見えるようになり、一の要素しか見えなかった対象が、十見えるようになれば、十の要素から総合して判断することができるようになる。そして、”対象についてのまなざしや価値観は固定的なものではなく、小さな達成とともに変化してく”ということに気づくことができる。
昨日まで認識できなかった(だから存在しないと思っていた)ことを今日、認識できた。それが分かれば、今日認識できていない(存在しないように思える)出来事が、他にも無数にあるのかもしれない、ということにも気がつくことができる。
そのことに意識的になれる地点がやってきたら、後はこっちのもの。「見えないし触れない」相手と戦っていたのが、「うっすら見えるし、フチくらいなら掴めそうな気がする」状態を想像してみてほしい。
では、どうしたら最初の達成を受け取るに至るのか。
それは、現実に屈することなく諦めずに表現を続けること、その一言に尽きる。
満足いく結果が出ていなくても。理想に達することが出来ないかもしれないと心が折れそうになっていても。「出来ていないのに達成するってどういうこと?出来ていないから辛いし、困っているのに」そう思う人もいるかもしれない。でもその認識こそが最初の一歩になる。まだまだ足りない、そう思えるということは、既に、足を踏み入れたばかりの時とは別の視点になっていることには気がつかないんだ。
それと同時に、こんな考えが浮かぶ。何かを”できていない”と認識すること自体が、物事を評価する際の”限定的な認識”に過ぎないのかもしれないのだと。意識しづらくても、できるようになったこともあるはずで。今まさにできそうなことだってあるはずだし、これから出来るようになることだってきっとあるはずだ。
真正面の現実を見てげんなりしていようが、表現を続けていれば、大なり小なりの気づきや手ごたえは、あなたの背後から不意打ちでやってくる。
もちろん、憧れの人がいたとして、その人のレベルまで一足飛びに進めるということはないと思う。憧れるくらいだもの、その人にも培ってきた経験や並大抵でない努力があるはずで。
それでも。そもそも誰かと自分では人が違うしやり方も違う。なりたい姿だって全く同じということはないだろう。そして評価や成功は画一的なものでもない。これからの時代は特別に。
私にも、私なりの達成が近づいている。その達成を経て足がかりを作り、さらなる達成さらなる認識の変化を目指してまた登っていく。ここで強調しておきたいのは、最初の足がかりが一番大切だということ。最初の足がかりを得るまでは止めない、諦めない。最初のステップは、それ以降のステップと同じ価値ではない。
それはなぜなのか。なぜ最初の足がかりを切望するのか。
それは最初の足がかりが知的好奇心に火をつけるから。「もっと、もっと」と自発的に表現の継続を切望するようになるから。
最初に出した例えに話を戻すのなら、「見えないし触れない、相手もこちらに触ることができない」相手と戦うのと、「うっすら見えるし、フチくらいなら掴めそうな気がする」相手と取っ組み合いをすることの、どちらが楽しいのかということ。
最初の足がかりはギアの一速。”目標達成”を目指していたはずが、”学ぶ喜び”をふいに手にする機会。結果ではなくプロセス自体に幸福を見出せるようになる最初の祝福。取っ組み合いができるようになればもっと嬉しい。だから絶対にその手前で諦めたくはない。
何度も言う通り、すでに達成しているのだから。諦める理由がない。
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