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2月13日(日)

5時起き。ひさびさに夢の断片が頭に残っていた。
かつてお世話になった映像制作会社らしいところにパーティのようにひとが集まっていて、居合わせたのを幸いCMの構成を依頼された。ここに書くのも憚られるようなつまらない案を出したところ、スタッフが勝手に打ち合わせして撮影の準備をはじめた。議論の結果も報告しないままだったから、スタッフに意見した。きちんと確認をとるべきだろう。会社ではそんな教育も受けていないのか、と。
社長を呼ぶ呼ばないになって、出てきた社長は中学時代の冴えない同級生だった。

夢と現のはざまで、なぜか石原慎太郎のことが頭に浮かんだ。
かれが他界してどれほどになるか、すでに話題になることもほとんどなくなったが、いまでもたまに頭をよぎることがある。
芥川賞作家として時代の寵児であった頃から、それほど興味はなかった。著書も読んだことがない。いちど姉の蔵書だったか「太陽の季節」ではない作品を手にとってはみたが、文体か内容だったか、しっくりこないまま閉じて以来とんと縁はなかった。
逝去して数日後に、かれの人物評を本にしたらしい中島岳志氏が新聞に書いた追悼の評論を読んで、石原の人生の遍歴、簡単にいえば芥川賞作家から政治家への転身だが、その動機が端的にまとめられていて腑に落ちた。
中島によれば、芥川賞作家であった石原は、はじめリベラル派の作家と目されていた。ところが作家としての壁に直面して政界への進出を考えたとき、〝ウケ〟のいいタカ派に鞍替えした。
その転向に政治的な信条はない。それは政界でのかれの遊泳ぶりを傍観していれば納得できたし、政治家としての実績がほとんどなかったことからもそれは理解できた。
そんな石原をいまさら気にしているじぶんをおかしくも思うのだが、きっとライバル視されていた三島由紀夫との対比で、興味がわいたのだろう。
三島由紀夫も政界に誘われたが、断っている。政治家の俗物根性を嫌悪してのことだったはずだ。石原もきっと政治家を嫌悪はしていただろう。あんな馬鹿どもに何がわかるのかと。それでもかれは政治家に転身した。ペニスで障子を突き破って芥川賞を取ったように、首相になてみせる。そう踏んでのことだったろう。
三島には世間からは奇異に思える言動があったし、故意にそうしてみせたようなところがあった。それでも、かれの処世の核には「誠実」があった。自分も俗物だと客観視できる分もわきまえてもいた。
石原慎太郎の、けっして美しくはなかった晩節と凡庸な死は、三島由紀夫の永き不在をあらためて思い知らしめたという意味で、気になっているのかもしれない。

きょうは朝から雨。農園作業はなし。
朝はスピリチャル万葉集の3首目の解釈文の手直しする。持統天皇の香具山の歌。これは、すっと歌意に入っていけた作品だったから、以前書き留めた解釈にそれほど手を入れる必要はなかった。

10時半から将棋のNHK杯。松尾八段対千田七段の対局観る。解説は山崎八段。笑いながらの観戦になった。結果は90手未満の手数で松尾八段の快勝。それにしてもNHKはいつまで棋士を椅子席で対局させるのか。コロナの被害を煽るような報道姿勢がこんなところにもあらわれているようで不快で仕方がない。

棋戦の観戦後、あらためてスピリチャル万葉集の原稿を読み直し、体裁を整えて投稿した。

昼の軽食をとりながらデイシアター。アマゾンプライムで「すてきな金縛り」観る。監督・脚本は三谷幸喜。
ここだけの話、かれの笑いのセンスはあまり好きではなく、「マジックアワー」を例外にほとんど観たことはなかった。さらに安倍晋三におべっか使ったような報道に接して、それは嫌悪感に近いものになっていたのだが、こと映画に関してはその印象をあらためた。
笑いのツボを何度もおさえられて、不覚にも抱腹絶倒してしまった。幽霊が裁判で証言するのにハーモニカを吹かせたのを、エンディングで死んだ父親とのコミニケーションの道具に使わせたところなど、ありがちなお涙ちょうだいとは思いながらも、一本取られたと感心した。
かれは、エンドロールでキャストを出演順にしている。また監督の名を最後に持ってこない。その姿勢に人間性があらわれていて好感が持てる。安倍のことはおいておけば。意外にいいやつなのだろう。

きのうの深夜から「ホビット」を観はじめて途中になっていたのを、つづきから観る。



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