時が過ぎた先に見える情景
信濃なる すがの荒野に ほととぎす 鳴く声聞けば 時過ぎにけり
巻14の3352 東歌・信濃國歌
一般訳
信濃にある、すがの生い茂る荒れ野に、ほとときずが鳴くのを聞くと、つくづく時が過ぎたのを思うのだ。
「しなぬ」は信濃の古称。その音からイメージしたのが「死なぬ」という語感だ。すると「すがの荒野」という荒涼たる世界と、死を告げる鳥とされる「ほととぎす」のイメージがすっと結びつく。それは「ほととぎす」を受けての「ときすぎにけり」の韻律からもきているのだろう。つまり「時が過ぎた」のを思う先に、死が想定されている。
信濃は、奈良の都との位置関係から見ると鬼門の方角。それを知ると、信濃という土地が宗教的な意味合いをもって立ちあがってくる。
万葉の時代に渡来した仏教思想は、それまでの素朴な山中他界という世界観に、「この世」と「あの世」という二元的な考え方を持ち込んだと言われている。奈良の都が「この世」ならば、いつからか信濃は「あの世」のような土地に比定されることになったのかもしれない。北アルプスの連山のたたずまいを目にしたいにしえびとは、それ以前から信濃に霊的な他界的なイメージを見てもいただろう。
「信濃なる」。これを「信濃にある」ではなく、荒野にかかる枕詞としてとらえれば、信濃そのものが荒野に、つまり死の世界ということになる。その荒野でほととぎすが鳴いている。
ほととぎすは野山にあって荒野のようなところに来ることはない鳥だというから、「この荒野に死を告げに来たのだ」と知るべきだろう。
スピリチャル訳
こんな山深い荒れ野で、いつの間にか時が過ぎてしまっていた。さっき、ほととぎすが鳴いた声を聞いたように思ったが、あれはきっとお迎えの声なのだろう。どうやら私はこの荒れ野でその時を迎えることになりそうだ。
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