沈みゆく選手たち

きのう9月3日の「草野球の日」に、白球ならぬとんでもないニュースが飛び込んできました。

「菅首相 辞任へ」

草野球でも滅多にお目にかかれない大チョンボとでもいいますか、驚天動地の大事件でした。

ここに至る流れを傍観していると、「もしかしたらあるんじゃないか?」と見てはいたので菅…(笑

〈総裁再選を前提としての首相続投〉
つい先日まではこれが既定路線で、ご本人もそのために腐心し執念を見せていたようですが、度重なる選挙での敗北、地元の離反、後ろ盾からの三行半などなど、つぎつぎに外堀を埋められて、にっちもさっちも行かなくなったようです。

それもこれも歯止めがかからない「人気の凋落」が原因でした。

コロナ拡大に有効な対策を打ち出せなかった無策ぶりが致命傷になったとはいえ、それまでにも学術会議会員の任命拒否で見せた傲慢さや、まともに自分の言葉でしゃべれない会見ぶりとか、鬱積していた不満や疑念が不人気に拍車をかけていったのでしょう。

そもそも新年号『令和』のボードを掲げて見せただけの御仁をつかまえて「令和おじさん」とか持ち上げ囃し立てた世論に便乗してトップに祭り上げたのがそもそもの見込みちがいというべきでしょう。

分不相応な人材をトップに担げば、その組織が停滞するのは必定。もちろん本人にとっても悲劇でしかありません。
その好例となったのが、この菅総理の誕生であり、また辞任への顛末でした。

身も蓋もない言い方をすれば「その器ではなかった」ということです。
官邸の番頭さんとしては有能だったのかもしれませんが、その才覚がトップにふさわしいものかどうかはまた別の話です。

そのことをあらためて思ったとき、わがカープのベンチのことがすぐに頭に浮かびました。
世の中はシンクロして動いているということでしょう、お国のトップにふさわしくない人材が座ったのと前後して、カープにもその器量が疑問視されるトップが誕生していました。

現役時代のかれの活躍、また投手としての抜きんでた技量を認めるにやぶさかではありません。でも、その器がトップにふさわしいものかどうかというのは前記の如しです。

カープ草創期から今日までの監督を概観してみれば、運を得ずしてつまずいたり、巡り合わせが悪くて結果を残せなかった人材はいたものの、それらしい人材が並んでいました。
「衣笠祥雄」の名がそこにいないという重大な落ち度はあるものの、ほぼ及第点。それがファンの一般的な感覚ではないでしょうか。

ところが、「佐々岡真司新監督」の報に接したときは、個人的にはいままで経験したことのない違和感というか拒否感がありました。
「激務に耐えられるか?」と、当時、かなりの肥満だった肉体的な事情にかこつけて間接的に異を唱えたものでした。

繰り返しますが、かれの選手としての実績は認めますし、その栄光には賛意しかありません。あるいは投手コーチとして投手を育てる才能は認めましょう。
しかし「監督はない」。いまでもその思いに変わりはありません。

「まだ2年目だろう。経験を積んで、これからさ」そんな声も聞こえてきそうです。
それでも敢えてそういいたいのは、その兆しが一向に見えてこないからです。
采配・用兵のセンスに疑問符がつくばかりか「評論家目線」からいつまでも脱却できず、その言動がチームに暗い影を落としている。そうとしか見えないのです。

   ❋—❋—❋

今日のニュースの、ある記事に目が止まりました。
人気挽回の秘策に河野幹事長就任を打診した菅総理に対して、派閥のボスである麻生副総理が(口をひん曲げながら?)声を荒げてこういったとか。

「おまえと一緒に、河野の将来まで沈めるわけにいかねえだろ」と。

それを知ったとき、「河野」を「選手」に変えて、カープベンチで声をあらげている誰かをつい想像してしまいました。

「おまえと一緒に、選手の将来まで沈めるわけにいかねえだろ」と。

その人物の具体的な像は、残念ながら浮かんでは来ませんでしたが…。

試合観戦を重ねるたびに、不満は鬱積していくばかりです。
このまま監督が続投すれば、チームは瓦解してしまう。
そんな危惧が頭から離れないのです。




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