昭和のある日
三島由紀夫の自決
昭和28年生まれの僕は、昭和を生きている間は「昭和の人間」である自覚はなかった。昭和に遅れて生まれて来たような感覚だったからだ。
もちろん太平洋戦争は経験していないし、物心ついたときは戦後の混乱もほぼ収束していた。70年安保も対岸の騒動で、昭和の微熱を遠く感じてきた、そんな印象だった。
それがいつしか平成の御世となり、その30年を過ごし令和にまで生きながらえてみれば、こんどは時代に外れている感覚で、たしかに自分は昭和の人間なのだったと自覚せざるを得なくなった。「平成」のよそよそしさ、「令和」のウソ臭さを思えば、そう受け止めたくなるのも人情というものだろう。
わが敬愛する衣笠祥雄氏は昭和50年に広島東洋カープが初優勝した後楽園球場で、「広島の人は8月6日と、きょう10月15日を永遠に忘れないだろう」とコメントしている。まさに至言というべきだろう。
その言をお借りすれば「昭和の人間は、45年11月25日を永遠に忘れないだろう」と思う。あの日、当代に比類なき著名作家のひとりだった三島由紀夫が市ヶ谷の自衛隊駐屯地において自決した。
僕は浪人の身で、事件を知ったのは予備校で午前中の講義を受けてバイクで帰宅したときだった。玄関を開けて家に入ると、姉と母親がコタツでテレビを観ていて、ぼくを認めると姉が声をかけた。「三島由紀夫が、割腹自殺したみたいよ」と。
割腹自殺なんぞという浮世離れした行為の現場を想像できないこともあったのだろう、三島の父親が息子の割腹自殺の一報を聞いて「また腹に包帯でもして帰ってくるんだろう」と経験的に楽観視したように、僕は僕で「三島がまた何かやらかしたのか」と、そのときとくに動転した記憶もなく姉に問い返しただけだった。
それらの動機が誠実さや真摯な生き様にあったことを知ったのはずっと後年になってからだったが、三島にはボディビルをはじめ、世の紳士淑女を微苦笑させるようなスキャンダラスな行動をとる癖があることだけは承知していたし、映画でみせた稚拙な演技のようにヘタうって、喜劇の結末を観ることになるのではないか、そんなことを咄嗟に思ってもいた。
楯の会の制服に身を包んだ三島がバルコニーから眼下の自衛隊員たちに向かって絶叫する様子をテレビは繰り返し映していた。そして、陸上自衛隊市ヶ谷駐屯地内の東部方面総監室を訪れた三島が面談中の益田総監を人質に籠城。隊員を正面玄関前に招集するように要求して檄文を撒いたのちに、ふたたびバルコニーにあらわれて、隊員に向けて(自衛隊を合憲とするように)決起を促す演説をした直後に割腹したとみられる、とアナウンスはおうむ返しにそう伝えていた。
そのうち三島が腹を割いただけでなく、介錯によって首が落とされたらしいことが判明して事件は異様な色調を帯びるコトになった。父親が願ったような喜劇的な終幕とはならず、世界的にも高名な作家が割腹して果てた現実を僕たちは知ることになった。
それまで作家三島由紀夫は知ってはいても、作品はほとんど読んだことはなかった。事件に接したときも、だからこその傍観者だった。しかし、ひとりの男が命を賭して訴えようとした何かにからめとられたように、三島の自死を突きつけられてからは「ミシマ」が意識のなかに潜りこんでしまったようだ。
年があらたまって某大学に合格した僕は上京し、東横線の学芸大学前から歩いて15分ほどのアパートに下宿することになった。しかし、そこを1年で追い出されて中央線三鷹駅の先の武蔵境駅から西武是政線(現多摩線)に乗り換えてふたつ目の多磨墓地前(現多磨駅)近くのアパートに引っ越すことになった。
この多磨墓地に三島の墓があることがわかると、さっそく散歩がてらにその墓を訪れた。それからは、部屋の背後の墓地の方向に三島の存在を意識するようになった。ちょうどそのころ、駅前の小さな書店で三島が転生をテーマに書いた豊穣の海4部作をみかけて、飲み代に消える前にと仕送りがくると「春の海」「奔馬」「暁の寺」「天人五衰」と1冊ずつ購入したものだった。
同期で大学に入学した無二の親友のキャンパスが、三島由紀夫のペンネームとなった「三島」にあって、遊びに行って裏山に麻の種をまいたのは入学直後だった。また別の級友が就職した会社の保養所が伊豆にあって、ある夏に海水浴に行くと、その目の前のホテルに三島がよく滞在していたと聞いて、三島の面影をロビーに追ってみたりしたものだ。
ここ数年、車で広島・東京間を頻繁に行き来してきたが、その何回目のことだったか、道路標識に「馬込」の文字をみつけて、三島の旧宅を探し当て無人の邸宅前でひとりたたずんでいたこともあった。広島への帰途、伊豆から足をのばして三島が晩年の避暑地とした下田で、三島の散髪をしていたという人物に同じ髪型にしてもらったのは愉快な思い出だ。
積極的に三島の文学や人生に傾注してきたわけではないが、二・二六事件の2月26日生まれという奇縁もあるのか、昭和という時代と同じように微熱が伝わる距離感で「ミシマ」はありつづけている。
『昭和45年11月25日』三島が自決したあの日は、僕のなかでは記憶の一日として終わってはいない。いまもこの日に繋がっていて、人生が永い一日であることを、そして縁がからみあって人生が転生していることを、バルコニーでの絶叫とはちがって、あの独特の哄笑のあとの私語のように、そっと語りかけるように訴えてくるのだ。(初出 入谷コピー文庫 142号)