津田恒美の磁力
昨日の中国新聞朝刊「カープ70周年 第1部 あの日あの時」は津田恒美の特集。
1991年4月14日の最後のマウンドにスポットを当てている。
この広島市民球場で行われた対ジャイアンツ戦はテレビで観戦していた。
1点リードの8回表、先発の北別府学との交替で登板した津田には、かつての精彩がなかった。
かつて炎のようなオーラをまとって投げ込んでいた表情にまったく生気はなく、その顔には影がさしているようにさえ見えた。
先頭打者の川相昌弘に力ないストレートを打ち返されて一塁強襲の安打。2番のブラッドリーには制球が効かずにデッドボール。そして次打者の原辰徳にレフト前に運ばれ1点を失ったところで降板。
生涯最後のマウンドが、この日4月14日になることを暗示してたかのような背番号「14」の背中を丸めるように津田はダッグアウトに消えた。
翌々日、病院で検査をしたところ、脳腫瘍はすでに末期となっていて、余命半年を告げられたという。
もちろんそんな事態になっていたことを、ファンは知らなかった。
それからは津田の闘病は知らされないまま、彼が不在の時間ばかりがが長くつづくことになった。
そのうち津田が入院しているらしいという情報が漏れ聞こえるようになり、どうやら頭の病気らしいといという噂もたった。
それに呼応するように球団からは「水頭症」という、はぐらかしたような病名が発表された。
彼の情報が不足するなかで、ファンは彼の安否を憶測するしかなかった。そしてそのことが、かえって津田への思いを募らせてもいった。
かくいう私もそうで、物書き志望だったから彼の不在の謎を探って本にしたいなどと考えたりもしていた。
そのうち奇跡的に持ち直した津田がリハビリに励んでいるという吉報が届いたが、それからまた津田の姿は消え情報は途絶えた。
そして、つぎに彼の消息がもたらされたのは1993年7月20日。オールスターゲームの中継の中で、彼の訃報が伝えられた。
今でもあの時の印象を覚えている。
「なんであれほど屈強な野球選手が…」という当惑と、「なんで津田なんだ」という悲しみ…。
その時の記憶がずっと頭に残響していたのだろう、後年、1、2冊本を出して物書きのアリバイができてからは、ずっと彼のことを書くタイミングを狙っていた。
ようやくその願いが叶ったのは、すでに彼の死から10年近く経った2002年のこと。
「なんであれほど屈強な野球選手が…」という当惑と、「なんで津田なんだ」という悲しみ…、の答えを探ってみようと、津田恒美をフィジカル面で支えた福永富雄トレーナーをはじめ、他球団の何人かのトレーナーを取材して「ダメージ」という原稿にまとめて出版することができた。
津田恒美をはじめ、同じく脳腫瘍で他界した近鉄バファローズの盛田幸妃、外野フェンスに激突して膝の皿を粉砕骨折したカープの山崎隆造、そのカープの外木場義郎投手から頭部にデッドボールを食らって血を流した田淵幸一、そしてジャイアンツの西本投手の死球によって肩甲骨を亀裂骨折しながら試合に出つづけた衣笠祥雄といった各氏にもスポットを当てた。
これはこれで一冊の本にはなったが、プロ野球選手の生老病死のカタログ的な面が強くなって「津田恒美」を書ききったという得心は得られなかった。
そこで没後20年に、あらたに津田本にチャレンジすることにした。
しかし、津田には他に先行する良書が何冊か存在した。
思案の挙句、ノンフィクションというアプローチは捨てて、津田が蘇ってカープに入団しチームを優勝に導くというストーリーで「天国から来たストッパー!」を書くことにした。
そのチームの監督は、もちろん衣笠祥雄で、ヘッドが江夏豊、コーチに高橋慶彦という、わが夢のラインナップを実現させた。
思えば津田のお陰で、楽しい作業ができたのだった。
そして、この本をお読みいただいたある編集者から依頼があって、結局あらたなドキュメント「甦る炎のストッパー 津田恒美」も書かせていただくことになった。
投手としての実績、人間的な魅力に、ある種の儚さが加わって、津田恒美は死後にさらに魅力的な伝説をまとうことになった。
そんな津田の魅力の磁場に引き寄せられるように、彼の伝説を書き起こす作業を何度となくしてきた…。
そんな気がするのだ。
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