美醜の三拍子
打点王1回。盗塁王1回。
これが衣笠祥雄氏が打撃部門で獲得したタイトルのすべてだ。
1971年に81個の最多三振を記録しているが、こんなタイトルはもちろんない(笑)。
その翌年には147本の最多安打を記録しているものの、この年はまだ正式なタイトルではなかった。
長く華々しい選手生活を送りながらタイトルには縁が薄かった衣笠さんはまた、シーズン3割を打ったシーズンもたった1回しかない。2000本安打を記録した19年目のシーズンまで、衣笠さんは3割を打ったことがない打者だった。
この時点まで3割を打てなかったバッターであれば、それが選手の実力でありスタイルであって、そのまま「3割を打ったことのない名球会入り選手」となるはずだった。
ところが衣笠さんは現役生活20年目、引退する4年前になって、たった一度だけ3割を記録することができた。
それは前回も書いたように、彼がフルスイングというスタイルを貫いたから、というのも一因だろう。
「当てに行くバッティングなら、もっと早く3割は打てた」と、のちに語っておられたが、『3割打者の勲章』より自分のバッティングスタイルにこだわった。
だから齢と共にフルスイングによる過剰な力が入らなくなったのと、フィジカルが衰えてしまわない前の一瞬が重なったあの年、絶妙のバランスとなって理想のバッティングができたということなのだろうか。
また、この年は盗塁を12回企図して失敗はわずかに1回。ほとんど成功させていることは特筆すべきことだ。
例年はいくら調子がよくても3回に1回は失敗していたことを考えると、この年ばかりは神がかったような状態だった。
衣笠さんが「生涯最良の年だった」と、いうものうなずける。
もともと衣笠さんは、脚力に自信がないわけではなかった。「走る」ことにかなり意識はあったらしい。
平安高校時代も、4番バッターでありながらかなり走ってはいたようだ。
プロ入りした当初は、周りの先輩たちのパワーとスビードに圧倒されて自分を見失っていたようなところがあったが、レギュラーの座を射止めた2年目の1969年には、その韋駄天ぶりを発揮して走りに走った。そのシーズンの盗塁王・柴田勲氏の35個には及ばなかったが32個の盗塁を記録。
そして初優勝の翌年に31個の盗塁で初タイトルを獲得している。
「生涯野球選手でいたかった」衣笠さんが現役引退を決めた理由のひとつは、「打って守って走れる」三拍子揃った選手だった自分のセールスポイントのひとつが欠けてしまったことだった。
そしてそのひとつというのが「走力」。それまで目標にしてきた年間10の盗塁すらできなくなったことがきっかけだった。
まだ打撃に関しては自信があったし、もっとよくなる可能性も信じていた。ファンが求めていたのは豪打だったのだし、それを衣笠さんも意識していた。
しかし、走れなくなって三拍子のひとつが欠けたことを自覚した時、引退を考えたというのが、いかにも衣笠さんらしい潔い幕引きだった。
いま世間では、「隠蔽」「改ざん」「欺瞞」の三拍子が揃った稀代の壊国宰相が、連綿と地位にしがみつこうと悪あがきをしている。
そのみっともない姿を見るにつけ、せめて野球のグラウンドだけは衣笠さんの魂のごときピュアなるものが生き続けて欲しいと願うばかりだ。