途絶えた人生の“フルイニング出場”

1979年のきのう、28日は衣笠祥雄氏のフルイニング連続試合出場が途絶えた日だ。
岡山球場での対中日戦のスコアボードから「衣笠」の名前が消えた。

それまで衣笠さんは6シーズン、678試合のスタメンには必ず名を連ね、試合の終了までグラウンドに立ちつづけていた。そして当時の日本記録、三宅秀史氏の700試合まであと22試合と迫っていた。

その断を下したのはもちろん古葉竹識監督だった。前日の夜、遠征先の宿舎の監督室に呼び出されて、衣笠さんは「明日のスタメンから外す」と告げられている。
シーズンに入ってから衣笠さんのバットは湿りっぱなしで、打率はそのとき1割台の絶不調。外されて当然の成績だったが「血と汗で築いてきた記録」、さすがにその時の衣笠さんは荒れたらしい。

一方で、すでに“チームの顔”となっていた選手であるがゆえにスタメンを引きずってきた古葉監督の苦衷も察して余りある。

その日から衣笠内野手は代打や代走、守備固めで出場をつづけ、連続試合出場の命運はつないだ。
そんな古葉監督の“温情”に批判がないではなかった。しかしその雑音を振り払ったのが、あの8月1日の対巨人戦で西本聖投手から食らったデッドボールだったろう。

そのダメージで衣笠さんは左肩甲骨を骨折した。これで連続試合出場記録は完全に途切れたと思われた。
ところが翌日の試合に代打で出場した衣笠さんは、江川卓投手の快速球を3つフルスイングしての三振。鬼気迫るプレイで記録への並々ならぬ執念を見せつけたと同時に、外野の雑音を降り払い、封印してしまった。

結局、その不調時に衣笠さんは20試合余りスタメンから外れたものの、また調子を上げると“定位置”にもどることができた。

しかし、人生のフルイニング出場は途切れたところで終わりだ。さすがの鉄人でも、ふたたびもどることはかなわない。

4月23日。衣笠氏は再び人生のグラウンドに復帰することはなくなった。

あの5月28日。「このままでは潰れてしまう、との配慮から英断してくれた」古葉監督には感謝の思いもあったという衣笠さん。
人生のフルイニングを止める断を下した神様には、果たしてどんな思いを抱いていたのだろうか…。




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