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球場巡礼 第7番 「兼六園球場(跡地)」

1996.8.28

正面

球音の利休ねずみに記憶とどめて

 野球場も時とともに劣化が進めば消えてゆくのが定め。建て替えにでもならないかぎりは解体され、跡地は公園になるか商業施設になるか、あるいはマンションにでも姿をかえるか、どちらにしてもその痕跡を後になって偲ぶことは難しい。  
 小学生3年で長野から東京の小学校に転校してからは、学校から帰ると母親の目を盗んでランドセルを縁側から放り投げ、近くにあった野球場の金網を乗り越えてさんざん三角ベースを遊んだものだった。
 東京都下・調布市の国領にあったその思い出の野球場、親父が宮仕えした会社の社有だったが、中一で広島に転校となって縁がなくなって30年後に訪ねてみれば、もはや跡形もなくなっていて、それと思しき場所には高層マンションが林立していた。  
 会社はいつからか業績不振となってタケノコ運営。財産をひとつ、またひとつと切り売りし、やむなく野球場も手放したとは聞いていたが、かつての敷地らしきところに林立したマンション群を見上げたまま、その変わりようにしばし放心状態となってしまった。 

国領の公園

 とまどいながら視線を下ろすとその隙間に小さな公園があって、マンションを開発したデベロッパーか、あるいは開発許可した行政か、地元で親しまれた野球場を潰すことにいくらかの負い目があったのか、申しわけていどに残しされたスペースにストライクゾーンを白く囲った壁投げ用のコンクリートボードがあって、男の子がひとりでピッチング練習していた。そこは住宅地の公園には珍しくキャッチボールが公認らしく、女の子もまじって三角ベースに興じする子供たちの姿もあった……。  

 兼六園球場は、すでになくなっていた。しかしここは解体されてマンションになったわけではなく、再活用というのか躯体の一部が利用されて石川厚生年金会館に生まれ変わっていた。ここには宿泊施設もあって、かつての聖地を訪ねてひと夜の宿とすることも巡礼のひとつの形態にはちがいなく、草薙から甲子園へとまわる途次に巡礼することに決めていた。

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