フィービ・スノウ「サンフランシスコ・ベイ・ブルース」(見本盤)
東京で過ごした大学時代の5年間、社会人も含めると6年あまり、部屋にあったのはステレオレシーバーとカセットテープデッキ、それに安物のスピーカー1本のみで、カセットテープにFMから録音しては再生していた。
たまにレコード聴くのは久米川の義兄宅で、かれはさほど音楽に興味を持たないが、勤めが大手出版社だったから見本レコードの分配があって、そのコレクションから選っては聴いていた。
中でもよく針を落としていたのがこのアルバム。
鼻から抜けるような独特のハスキーボイスが歌うブルージーな曲が、さきの自画像が浮かばない当時のわが心象に沁み入ってきたからだろう。
そんなある日の夜更けに、中学高校で同級生だったF子の訃報が飛び込んできた。ガスホース咥えての自死。はじめて身近に接した自殺だった。
葬儀はすでにすんでいたが、その事実知ってグズグズしてもいられず、義兄宅にタクシー飛ばして新幹線代を借り、翌朝、広島に飛んで帰った。
はじめてF子の自宅にあがって、仏壇に手を合わせ、それから彼女の兄と母親だったか、話を聞いたが、ただただ泣けるばかりで、どんな内容だったか何も覚えてはいない。
中学1年の夏に東京から広島に引っ越して転入学した段原中学校。そこで最初にちょっかい出してきたのが同級となったF子で、その頃はクラスで3番か4番目に小さかった僕は、彼女に苦もなく腕を捻じ上げられ机に組み伏せられた。
別にケンカになったわけでもなく、F子なりの手荒なご挨拶だったのだが、今にして思えば、あのとき未来の不義理のしっぺ返し食らっていたのだろう。
F子はその頃からぼくが好きだと半公言していて、ぼくの学校生活にやたら絡んできて、男だったらやってみなさいよ、と生徒会長に立候補させられもしたものだった。
べつに疎ましく思っていたわけではなかったが、高校に入ってからは意識することはほとんどなく、卒業アルバム見て同級生だったことを確認したほどだった。
F子と意識して再会したのは大学2年の夏休みの帰省時だったか、比治山の麓にあったジャズ&ブルースの店Rで、そこでバイトしていると聞いたからだった。
広島で短大に進んだF子は演劇にのめり込み、関係者の男性とただならぬ仲になったらしく、その色恋のゴタゴタで悩んでいて、東京に戻ってすぐに彼女から手紙がきた。
薄情を告白するようで気が引けるが、文面は、ぼくの部屋に転がり込んでもいいか、というもの。失意からの救いを求めてのことだった。
薄々そんな予感はあったが、年上の男性とのいざこざを背負える自信もなし、その傷がさらに深くなるかもしれず、遠回しに断った。
訃報はそれからほどなくもたらされたもの。F子の自死にまったく責任がないとはいえないのだ。
たまに思い出したようにこのアルバムに指が向くのは、その自責の念からではないだろうが、フィービ・スノウのボーカルを聴くと、喫茶店のカウンターの向こうで寂しそうに笑ったF子の横顔、たまに憶い出されるのだ。
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