月の光を送り火に
春日山 おして照らせる この月は 妹が庭にも さやけかりけり
巻7の1074 作者未詳
一般訳
春日山の一面を照らしているこの月は、きっとあのひとの庭も、あざやかに照らしていることだろう。
解釈
「春日山」と「妹の庭」。離れてあるこのふたつの場所が月の光によって結ばれている。つまり春日山を見る(私)と、庭を見る(あのひと)が、月の光によって一体だといっている。いうなれば、天から注ぐ月の光が、わが恋ごころを仲立ちし、その成就を叶えてくれるだろうという願いがこめられていると解釈されている。
当時の庭は、それなりの地位にあるものの邸宅も柴垣をめぐらせただけの簡素なものだったらしい。それを想像してみると、しめ縄を張った地鎮祭の様な景色を想像できなくもない。
もともと庭というのは、よそ者の侵入を防ぐ〝結界〟で囲まれる場所なわけで、それは同時に特別な場所、異なる次元に通じる回路でもあった。
つぎの柿本人麻呂の歌のように、わが庭と天とを雪によって意識的に、視覚的につないでいることからも、その感覚は汲み取ることができる。
わが庭に 梅の花散る ひさかたの 天より雪の 流れくるかも
そう理解すると、この歌の味わいもずいぶんとちがったものになってくる。ぼんやりと恋心を詠ったように思っていた理解が、まったく異なった情感とともに染み入ってくるようだ。
月が照らしている春日山から、光はあのひとの庭に転じられる。ここで、わが庭とあのひとの庭はつながってはいない。あのひとの庭が月光によって山と月と結ばれているだけ。
つまり、同じ次元で恋心を訴えているのではない。あのひとの庭と月の世界とを結んでいるのだ。
月の光は死の世界からのものでもあって、あのひとはすでにこの世のひとではなくなっている。その庭を照らす月の光がさやかであってほしいと願うのは、思いを寄せたあのひとのこころの平穏を祈ることでもあったのだろう。
恋ごころの熱いおもいを吐露しているのではない。この歌ぜんたいに漂っている静ひつな印象は、鎮魂の思いの発露からきているといえそうだ。
スピリチャル訳
春日の山々をあざやかに浮かびあがらせているこの月の光は、あのひとの庭もさやかに照らしていることだろう。かの女の御霊が安らかに天にあがっていけるように。
(禁無断転載)