初優勝への“過去の予感”
いま手元に1974年、カープ初優勝前年の「広島東洋カープ イヤーブック」がある。
広島の古書店、アカデミイ書店で手に入れたものだ。
表4の「広島グリーンフェリー」の全面広告の隅に「六ノ四 ○○幸枝」とペン書きしてあるから小学6年生の女性のものだったようだ。
A4版の変形サイズで本文2色刷り80ページ。いまの豪華版に比べるとチャチな冊子だ。
内容も薄っぺら感が否めないのは、いま流行りの選手のインタビュー記事が全くないからだろうか。
定価は200円。当時どれほど売れていたのかは知らないが、小学校の女子生徒が持っていたのだから、そこそこは売れていたようだ。
内容の希薄さとクオリティの低さはあっても、必要最小限の記事は盛り込まれていて、当時のカープのチーム状況と雰囲気は見てとることができる。
例えばお約束の「衣笠祥雄」の記事を見てみよう。
ページの肩に
「28 内野手 衣笠祥雄(10年)昭和22.1.18生 27才」
とある。
ちょうどこの年が入団10年目。そして、この年まで衣笠さんの背番号は「28」だったのだ。
さらに見出しに目をやると…
「主砲復活へ“無心”のミスターカープ」
そう、このシーズンまで「ミスターカープ」は衣笠祥雄だったことがわかる。1969年に山本浩二が入団したシーズン、すでに4番は衣笠祥雄の指定席だった。
それが翌1975年、カープが「赤ヘル」となり、衣笠祥雄の背番号が「3」に変わったシーズンにチームは初優勝。山本浩二が首位打者のタイトルを取ったことで「ミスター赤ヘル」は彼にとって代わられた。
1974年といえば、前年まで2年連続最下位。この年も結果的には最下位となるわけで、カープは揺るぎない『リーグ最弱チーム』だった。
したがって「優勝」を語ることが憚られるようなチームだったわけだが、不思議な事に、そんな悲壮感は誌面からは感じられない。
ローカルチームの、のどかとも見える田舎臭さのなかにも、なんとはなしにチームの充実を感じるのだ。
つづけて衣笠祥雄の記事を見てみよう。
「抜群の筋力と瞬発力で昭和43年以来、球界一の若き4番打者として成長、史上初の連日5試合連続本塁打の快記録を持っている。主砲不在のカープ打線のみじめさは彼自身の不振からだと言うことを実感として骨身にしみた昨年。持ち前のがむしゃらさが迷いに、落ちるところまで落ちた。
しかし、過去の素晴らしい実績は彼にとって無意味でもフロックでもない。「パッティングは“無心”がいい」ことを知っている。評論家の青田氏は「衣笠は力と素質に恵まれた大型打者の自信を武器にせよ」とアドバイスする。衣笠開眼がカープ初優勝のカギである。」
文章にふらつきがあるのはご愛嬌だが、ここでは恥ずかしげもなく「初優勝」と書かれている。衣笠が開眼すれば…と。
この年まで2年連続最下位のチームにあって、衣笠祥雄はじめ山本浩二、三村敏之といった若手の成長もあって、カープの周辺にはチーム力の充実ぶりが手応えとしてあったのだろう。
そして翌年、カープは現実に悲願の初優勝を手にすることになる。
そんな“過去の予感”が、この薄っぺらな冊子から伝わってくるのだ。