とりとめのないかき散らし
とりとめのないかき散らし(たぶん幸福について)
漠然と、遠くには自由があると思っていた。
物理的に遠くに来たけれど、どこに行ってもなにが良いのかさっぱりわからない社会をわからないまま生きている。
どこにいても同じ、生活が続いていく。
もっと遠くに行っても、たぶん変わらない。
星の音は重要な出来事を囁いているように見えるが、それは自然な存在であって、特別、私たちに語りかけてはいない。
私たちはそれを勝手に拾って解釈しているだけだった。
しかし、星々からなにかを見いだして大切にするのは人間の活動において悪いことではないと思う。
わたしとあなたでは体感温度が違うので、空気さえもそのままでは共有できない。
私は寒いと感じても、あなたは暑いと感じているかもしれない。
根本的なあり方から違っている。
育ってきた環境、生まれもった身体の性質、心、考え方、全て違う。
同じ生物の見た目をしているのに、なにかが違っている。
もう既に地球上に、私とどこか違っている同一種族が何十億もいるのに、いまだに、幸福が何か、どうしたら皆、自然な態度で生きられるのか、なにもわかっていない。
人それぞれの幸福があるはずなのに、同じ規格で幸福を探そうとしたりして、さまよっている。
生活のリズムも、好む食べ物も違うので、やっぱり個人として、生活の上での私は、1人で立つべきだ。
いつか歩けなくなるまで。
私は私の幸福を探すべきだ。
誰かの不幸と重ならない範囲で。
現実、社会生活、労働、そういう場所に身をおかねばならない。
そういう場所では心や頭では、いけないとか嫌だとかそう感じるような行いが平然とある。すさんでいく。やさぐれていく。優しくできなくなっていく。都会に行けば行くほど治安は悪くなり(偏見)、田舎に行けば行くほど閉塞感を覚える(偏見)。
一人一人の人間がかかわり合い絡み合い生きていることでどんな地獄も産み出され、それが当然の顔をして横たわっている。
地獄を作るのはいつも人間。
空気さえそのままでは共有が出来ないために、すれ違いが刺し違いにまで発展していくこともある。
天国も産み出せる力もあるはずなのに、それは今、目を凝らしても見えない。欲深いんだ。
私は幸福の最中にいるとき、自分が幸福だと認識するのは怖い。あとに待っているのが何か分からないから。転落を想像してしまうから。幸福はいつも後から、柔らかな日々だったと思い出す。
地獄みたいな現実をどう泳いで行けば良いんだろう。
なにが正しいとかとなく、傷つかないようにとか、楽しいようにとか、誰かの言いなりとか、泳ぎ方も人それぞれだ。
野心をもって社会的な上を目指したり、お金、地位、支配、ほかにも色々。
生きようとする気力があって良いとは思うけど、その目標としているものも、社会が変われば消えていくもの。
確実な指標なんてどこにもない。
虚しくなることもよくある。
生きていることだけが現実での最低限のノルマで、後はお好きにどうぞっていうけれど、労働やら奉仕やら、子育てやら、消費やら、何やら、社会的なノルマがついてくる。さらに地獄も重なれば、生きない方がコスパは良くて、無駄がないんだなと思ってしまうこともある。辛すぎる世界を生きている人に、生きろ、とか簡単に言えない。誰かが幸せになれない世界なら全て無くなった方が、と何度も思った。
私が魔王だったら、絶対、人間を滅ぼしてる。とかね。
やっぱり、泳ぎ方も人それぞれ、目指す場所も人それぞれ。そういう考えに行き着く。
他人の幸福を侵害しない限りは。
絶海の孤島のような個人同士の繋がりのなかで共有できる時間こそ幸せなんだよとか、そういうの好きな人でだけ話していて。
半分程度互いを所有するのが恋愛なのだとしたら、私にはすこし動きにくいかな。
なにもわからない。稼いだお金を何に使って行けば幸福になれるのかとか、だらだらSNSを見続けたり動画をみたりしてなにもしないことは無駄なのかそうでないのか、とか。
無駄とか得とかそういう次元で物を見るのも違うのかもしれないし。
本当の幸福などを探すよりも生活にかかりきりそれで精一杯なことの方が多いし。生活でいっぱいいっぱいの時、他人の幸福まで気遣う余裕がなかったり、願えなかったりするし。いうほど他人を気にかけてないし、誰かのためになにもしてないし。
色々、頭がまとまらない。
明るい場所と明るくない場所を行き来している。