水点
書きたい、書こう、という気持ちにさせてくれた映画のこと
「おはよう」 大うそつき、じゃなかった、にんげんは、にこやかにあいさつしました。さて、次は、きみをしあわせにしてあげよう、というきもちでした。われながら、なんて心やさしいにんげんなんだ、と思いました。 「だれ?」 ぼうやは、むずかしい顔をしてにんげんを見上げました。 「ぼくは、あの山のむこうのダイヤモンドの国の王さまだよ」 「王さま?」 「そうだよ。こっそりお城をぬけ出して、これから街へゆくところなんだ」 「どうして街になんて行くの? お城のほうがすごいのに」 「お城
書けないときの映画「ビッグ・フィッシュ」に出だしをもらった。 Like this. 自分が今いる場所から書きはじめること。 私はこういう気分です、ということを書いてみる。 正直に、正直に、と思うとどうしてもお話になってしまう。 大うそつきの話 むかしむかし、あるところに、大うそつきがいました。大うそつきは、自分のことを「うそつき」だなんて、ちっとも思っていませんでした。自分はやさしいにんげんだと、心のそこから信じていました。だって、大うそつきはいつもみんなをよろこば
勝手なもので、映画のなかの人たちにしあわせになってほしくて泣くこともあれば(書けないときの映画「マイ・ブックショップ」)、なんかしあわせそうだから観る気がしないこともある。こちらは後者。 でも、観たら。 どうやって書きはじめたらいいか答えがきた。 物語の生まれる瞬間に立ち会える映画だった。 映画のなかの人がもらった出だしは Like this. だけ。 今ここから書きはじめること。 私は今どこにいるか。 水点を書いていこうと決めても決めても書けないでいる。 なぜずっと
書けないなら、読もう。 でも読む気も起きない。 なら、本を読みたくなりそうな映画を観よう。ということで。 今、予告編を初めて観て、ものすごくびっくりしている。 そんな映画だっけ? そんな味付けだった? もっとなんかこう苦くて重くなかった? 私が数ヶ月前に観たときには、苦しくて苦しくて、絞るように嗚咽。それも、しばらく時間が経ってからしか泣けなかった。その夜はなかなか眠れなかった。この人にしあわせになってほしくて。 いじめ、いやがらせ、モラルハラスメント、村八分 ニュ
書けなくなるといつも思い出す映画。 はじめは画面の「静謐」な美しさにうっとりする。わぁ、この映画大好き、と座り直す。どの画面もいちいち美しい。美術館みたいに静かで。 やがて、その美しさは三人姉妹の母親が強迫的に作りあげてきたインテリアによるものだとわかってくると、整った画面が暗く重く響いてくる。あふれる情熱とか血とか、そういったものに蓋をされて息が苦しい。「静謐」は静かにおさまっていなさいという圧力。 私のなかには、蓋をしている母と蓋をされている娘が両方いる。書けなくし
さっそく横道にそれる。 「モラハラで書けなくなっちゃった」私が 「書いていこう」と書きはじめたのは昨日の夜。 2年かかった。 その2年を言葉にするために早起きしたけれど、なにから書いていいかわからない。どこへ向かって書いていいかわからない。だれかのためにと思うと嘘っぽくて書けないし、自分のためにと思うと落としどころがわからない。ライターでしたなんて言えない。ここまで書くのに1時間以上かかった。 時間がかかる。 傷を負った人が表へ出るには、時間がかかる。 だから横道にそ
ずっと書けなかったことがある それを水点と呼んで これから書いていこうと思う 人と別れる点 涙が溢れる点 水に流れる点 水点 体のなかにはきっと いくつもの水点があって 日々、なにかを洗い流している 今もまだ書けない気がする まずはその「書けない」水点を 洗い流してください、と この手にお願いしてみた あと2分で明日