前世症候群
病院は住宅街のなかにひっそりと建っているふるいレンガ造りで、びっしりと蔦におおわれていた。
古めかしい看板がなければ、画廊か純喫茶だと思って入る人がいるかもしれない。
風邪をひいても、近くにあるからちょっと行ってみよう、とは決して思わないたたずまいだった。
休みの日に電車に乗ってここまで来た。
ここを訪れるのは私のようにわざわざ来る人だけのような気がした。
木製の重たいドアをあけて中にはいると、思いのほか事務的で驚いた。
床はリノリウム、黒い待合ソファとつるつるとした茶色の合皮制スリッパ、受付には栗色に染めた髪を綺麗にまとめた若い女の子がちょこんと座っている。
もっとおどろおどろしい待合室を想像していたので、拍子抜けした私はあやうくスリッパを履くのを忘れそうになった。
「すみません、初診なんですけどー。」
「はい。ではこちらに必要事項を記入して、保険証と一緒に受付までお持ちください。」
問診票を片手に、ぐるりと周囲をみまわした。
待合室には窓がない代わりに、横長の大きな水槽が置かれていた。
私は問診票を受付に返すとその水槽を眺めた。
1メートルはあるアロワナが、ゆったりと泳いでいる。
その水槽の浄化装置の音だけがこぽこぽと響いているので
この待合室自体がさらに大きな水槽のように思えてきた。
こぽこぽ、こぽこぽ…
水の音に心を巻き込まれるようにしてアロワナに気をとられていると
診察室のドアが開いて名前を呼ばれた。
「高梨さん、どうぞ。」
診察室に迎え入れてくれたのは院長だった。
適度に太った、という表現がこれほどぴったりな男の人はいないだろう。
私とそう変わらない身の丈なのに、それを感じさせないのは
低く甘みのある落ち着いた声のためなんだろうなと思った。
「今日はどうされましたかな。」
院長はしばらく問診票に目を落としてふむふむといいながら
それを手早くパソコンに打ち込んでいった。
「眼と耳の奥に湖がねえ。他におかしなところは?」
「いえ、特には。」
院長は他にいくつか短い質問をすると、ペンライトを片手に私の目をよくよくのぞき込んだ。
「これねぇ、あなたみたいな若いお嬢さんによくあるんですよ。
原因不明なんだけど、ひどくなることもないから特効薬もないんですな。
いつのまにか治ることが多い症例です。過去には目の奥にラクダが横切ったり月のクレーターが入り込んだりしたっていう患者さんもいたなあ。
この手の症例に不慣れな病院だと、心身摩耗ってことで山ほど薬を出されて終わりってケースが多いみたいですがね。
なあにそのうち治るからあまり気になさらないことです。ところであなた運転は?」
「しません。」
「よろしい。運転中に影がよぎったりすると事故につながるんでね。飲酒も控えるのが賢明。とにかくよく眠って、バランスのいい食事をすることです。点眼薬と、音がひどくなってきたときのために一応軽いねむり薬を出しておきましょう。
必要ないと思うんだけど、まあこういうのはお守りがわりに持っておくだけで眠れたりしますからな。
今の症状なら放っておいて大丈夫ですが、ひどくなるようならまたきてください。ではお大事に。」
ふたたび院長に見送られて私は診察室を出た。
「アロワナが気になりますかな。」
「はい。いつまででも見ていられそうです。」
「そういう患者さんは多いですよ。なにしろこの堂々たる泳ぎっぷり。中国では龍魚というそうでね。
30年以上生きたって話も聞きますが、そんなに長生きされちゃあこちらが先にお陀仏ですな。はははっ。」
院長は豪快に笑うとまた診察室へ戻っていった。
視線を水槽へともどす。
尾びれをゆったりとターンさせて大きな水槽のなかを泳ぐアロワナの目がこちらを見ていた。
悲しそうにも、呑気そうにも見えた。
この古代魚が院長亡きあと、水槽も壁もすり抜けて、蔦の間から天に戻っていく龍の名残を想像しているところで受付に呼ばれた。
会計を済ませて病院をあとにした。
受付で一番近い薬局を案内され、処方箋をそのまま手に持ち、ぴらぴらさせながら歩いていった。
ついた先は古めかしい田武医院とは違って、どこにでもある普通の薬局だった。
30代半ばだろうか。受付の他にはひどく色の白い病的な薬剤師が一人いるだけだった。
腕も首も指もながい。少し長い前髪と黒ぶちの眼鏡が似合うひょろりとした男で、長いこと薬を扱っているとこんなにも不健康になってしまうのか
と思わせるようないでたちだった。
彼はその見た目に反して落ち着き払った声でどんな症状なのかを軽く聞いた。
「ああ、前世症候群ですね。」
「前世症候群?」
そんな病名は言われなかったはずだ。そもそもそんな病名聞いたことがなくて私は顔をしかめた。
「正式な病名ではなくて、僕たち医療従事者の間での通り名みたいなものです。むかし大真面目に学会で発表したドクターがいたんですけどね。誰もとりあわなかったわりにその名前だけはこうして定着してるんです。
前世の記憶の欠片がどうしてだか現世の体に入り込んでしまって、目や耳に支障をきたすんだそうですよ。」
ずいぶんぶっとんだ話なのに、妙に納得してしまった。
命に別状はないけれど、全くの原因不明で治療法もとくにないですと突き放されるより、したり顔で前世症候群ですなんて言われたほうが、患者としては不安な気持ちを落とすところに落とせるのだろう。
「それじゃあ、私の前世は湖に縁があったのかもしれません。」
「そうでしたか。」
薬剤師はにっこりと笑って調剤室に入っていった。
薬を受け取ったときに何気なくみた彼の名札には瀬良雪比湖と書かれてあった。
ああー
こ ん な と こ ろ に も み づ う み が 。
そう思った先に、耳の奥で鳥が水面から羽ばたいて行く音が聞こえた。
「どうぞお大事に。」
一瞬、この男にも今の音が聞こえたのだろうかと思ったが、そんなことあるわけないのだと思い直して薬局をあとにした。
その夜、湖は私の夢のなかにまであらわれた。
ひたひたと体のなかから浸食していく湖が、鼓膜の奥からしみだして、耳朶をひかえめにくすぐっていくのが妙に気持ちよかった。
私は一本の香木を両の掌に乗せていた。生き物を扱うように、動きはしないかとそのままそっと眺めている。
これは、東雲町に住んでいる女性が所有しているものだった。
その人はタキさんと言って、私が自伝制作のためのインタビューに訪れるときにはいつもお香を焚いていてくれた。
煙と香りによって、彼女の記憶はよどみなく語られる。
そのタキさんが宝物だといって見せてくれた香木だった。
昔、亡くなったご主人と一緒に旅した東南アジアで買ったものらしい。
「当時でもいいお値段だったのよ。今ではもうこんな立派な木はそうそう売ってないでしょうね。」
タキさんが誇らしげに語る通り、それはもはや美術品だった。
黒みがかった茶色く艶のある木片で、細かな溝が幾重にも入り、それが捻じれてオブジェのよう。
このままどこかの展覧会に作品として飾られていても、誰にも違和感を抱かせない、鑑賞に堪えうる不思議な力を持っている木だった。
それを、なぜか私が自室で持っていた。
その木を燃やすといいとてつもなく良い香りがして、若芽を出してからこんな姿になるまで数百年を経てきたのに燃やしてしまってかわいそう、もったいないというより、ようやく解放されて帰れることになってよかったね、とういう気持ちがした。
大切な人を見送ったあとの余韻に似て、あたりには霧がたちこめはじめる。
霧はだんだんと部屋いっぱいになり
私の体のなかにはくりぬかれた香木のようにぽっかりと空洞ができて
そこに水がたまりはじめる。
ここに湖をむかえるのだ、と思うと嬉しくてたまらない。
くりぬかれた壁面からじわじわとしみだして、水面が細かく揺れた。
その湖に体の内側からおぼれ、やがて自分が失われていく、という夢をみた。
湖の水はしんと冷たくて、それだけで深い悲しみに支配されてしまうようだった。
理由なんてない、ただ悲しい。
わけも原因もない。切り出したばかりの感情だった。
目や耳の奥によぎる湖をどうにかしようと病院にいったのに、かえって湖は濃くなってしまった。
でもそのことを後悔したり、病院をすすめてきた友人や院長先生を恨んだりする気持ちは全くなくて、むしろ今までよりもっと身近に湖が感じられるようになったことが嬉しかった。
こんなにも愛しい、私だけの場所があることが誇らしくもあった。
瞼の裏にひっそりとあって、決してつかむことのできないものなのに、それはどんな理想の恋人よりも私を満たしてくれた。
同時に、いつまでもそんな満たされ方をしていてはいけないということもわかっていた。
自分の胸にそっと手をあててみる。
心臓の鼓動のかわりに、湖の控えめなさざ波が響いている。
私は自分の内側に湖を飼っている。
いろいろなことが、それだけで大丈夫な気がした。
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