瀬尾まいこ『そんなときは書店にどうぞ』|第一回 無敵のカルカン先輩現る
謎多き出版業界
小説を書き始めて十五年以上もの間、恐ろしいことに、私は本を買う以外に書店さんに伺ったことがありませんでした。
新刊が出た時など書店さんにご挨拶に行くという習わしを知らなかったのです。
二十代から三十代前半まで田舎の中学校で勤務をしていて、出版社の方とも年に一度お会いするくらいで、小説は真面目に書いてはいたけれど、普段は教員として生活していました。
そんなこんなで、できた本がどうやって売られるのかという仕組みも実はよくわかっていなかったという始末。
今思うと申し訳なさすぎます。
元をたどると、そもそも私は出版についても意味不明でした。
「卵の緒」で坊っちゃん文学賞大賞をいただき、それをきっかけに執筆をすることになったのですが、十年近く落ち続けていた教員採用試験に受かりたくて、そのためには賞でも資格でもなんでもいいからほしくて、応募したもので。
文学賞をいただいた時は「よし、これで教員採用試験に通る!」という思いでした。(その年も試験落ちましたけどね。どれだけあほなんや、私)
一つだけ言い訳させてください。
今でこそ、教員不足と言われていますが、二十年ほど前は教員が余ってて、募集のない教科がある年もあったくらいなんです。
いや、でも、高校の時、数学で十三点取ったことありました。
あほなのはまぎれもない事実か。
と、話はずれましたが、賞をもらった後、いろんな出版社の方が、当時私の住んでいた不便だけど海も山もあり自然がふんだんにある素晴らしい町、京丹後市に来てくださいました。
出版社の人は観光をされ、その後高額な食事をごちそうしてくださり、「この辺りって本当にいいところですよね」「海がきれいで、食べ物もおいしい。最高な場所」と京丹後市をべた褒めし、その後は、「アイデンティティがカタルシスして、リビドーだわ」と教員試験を十回落ちた私には聞いたことのない言葉を並べ(というか、こんな言葉、普段使います?)、「なんかまあ、その通りですよねー」と曖昧にうなずく私に微笑んで、帰られるという感じでした。
まだ二十代で純粋だった私は、住んでいた町が大好きで、東京の人は疲れてるんだな。この海と山のある風景を見に来たかったんだなと本気で思っていました。
そして、物もくれるんです。
田舎に住んでいた私は、それまで存在を知らなかったマカロンをもらい、明治でも森永でもない会社が作ったチョコを食べ、東京すごいと思っていました。
そういえば、お菓子以外に化粧品をもらったこともありました。
『幸福な食卓』を担当してくださった編集者の方が男性だったのですが、お会いした一週間後くらいに贈り物として化粧水と乳液が家に届いたんです。
基礎化粧品って……。
私、どれだけ不細工だったんだろう。
まだ若かったはずなのに、もう小汚かったのか。
生徒が私に「ばばあ」と言っていたのは、中学生特有の悪態で本気ではないと思っていたけど、落ち着いた大人の目から見てもなんとかしなきゃというレベルだったんだなと少々驚きつつ、「これ絶対いい化粧品だ」とうきうきしながら使用しました。
そんな感じで、出版社の方が来て、一緒に観光しごちそうになりカタカナ言葉にうなずき、いい物をもらうという暮らしをしていたのですが、半年くらいすると、連絡があり、「原稿のほうは……」という話が。
え、原稿? この人、景色の話してただけだよな。と驚くことを繰り返し、三回目くらいで、これは商談というやつなんだと気づきました。
大げさだろうと思われるかもしれませんが、契約書って本になってから作られるので、執筆開始時は本当にふわふわの口約束だけなんです。
しかも何月何日までに書けと言われるわけでなく、「いやあ、本当いい景色です。また来たいですね。それじゃあまた」というあいさつで、契約が結ばれるんです。
もちろん、書くことが楽しく、それが本になるなんてものすごい幸運を与えていただいていたので、喜ばしいことですけど。
今では締め切りをしっかりと聞き、「半年前に書いているかと連絡をください」と編集者の方に言うようになりました。
年を取った私は、どれだけ「瀬尾さんの暮らす町、いい景色ですね」と褒めてもらっても、「そうでしょう! よっしゃこれは小説書くか」とはならなくなったし、なぜか皆さん、もう住んでる場所を褒めてくれなくなりました。
もっと自然の多いところに引っ越さないとだめなのかも。
カルカン先輩登場
そんな私は三十五歳で健康診断にひっかかり、入院して手術して、そのまま教員を退職することとなりました。
そして、二〇一八年、『そして、バトンは渡された』を執筆し、プルーフ(本になる前の見本の冊子)を初めて作っていただきました。
この時、そういうものを持って書店さんに挨拶に行くということを知ったのです。
書店さんを回りましょうと、担当してくださっていた敏腕編集者のSさんに言われ、初めて営業の方とお会いしました。
出版社には想像以上にいろんな部署があるんですよね。
ここで、私の前に現れた初の営業担当者さんがカルカン先輩(たぶん本名は違うと思います)です。
カルカン先輩は、今まで私が出会ってきた出版社の方、どの人とも似ていない人でした。
「アイデンティティ」も「カタルシス」も「コンディショナー」も口にしないし、声もでかいし、なんかがさつだし、一気に親近感がわく人で、三分で好きになりました。
難しい話をしない代わりに、カルカン先輩と何を話したのかはあまり覚えていません。
記憶にあるのは、カルカン先輩がいつでも「ガハハハハ」と笑っていたことと、書店さんを回る移動に疲れた(一日に十軒近くの書店さんに挨拶に行くんです)私に、「まあまあ、あそこのリラックマでも見て一息ついてください」と遠くに見えるファンシーショップに並べられていたリラックマのぬいぐるみを指さされたことだけです。
お店に置かれたリラックマを遠目に見て休憩。
この人、リラックマにどれだけの癒し効果を求めてるんだ。と心の中で思いつつ、カルカン先輩と歩くのは楽しかったです。
とにかく周りの人を緊張させないカルカン先輩。
こういう人って本当は繊細なんですよね。と、カルカン先輩の気遣いエピソードを書こうとして、思い出しました。
私、このころ、パニック障害になりたてで、4時間おきに薬を飲んでいたんです。
で、初めての書店さん回りに緊張して忘れてしまうかもと、最初にお会いした時、薬を飲んだ後、「4時間後に教えてください」とお願いしたのに、カルカン、4時間後どころか、帰るまで何も教えてくれなかったわ。
書店の皆さんが優しく迎えてくださって、初めてのことに緊張以上に楽しさが上回って、発作は起こさなかったけど倒れるところでした。
芋づる式でもう一つ思い出しました。
ある書店さんでサイン本を作らせてもらう時、改装中で身動きできないくらいの小部屋で書かしていただいたことがあったんですが、その時、カルカン、「これ、まさにパニック起きそうなシチュエーションですね。このまま閉じ込められたりして。ガハハハ」言うてました。
あの人、繊細違いました。
そんな愛するカルカン先輩との書店巡り。まだまだつづきます!
瀬尾まいこ(せお・まいこ)
一九七四年、大阪府生まれ。大谷女子大学文学部国文学科卒。二〇〇一年、「卵の緒」で坊っちゃん文学賞大賞を受賞し、翌年、単行本『卵の緒』で作家デビュー。二〇〇五年『幸福な食卓』で吉川英治文学新人賞、二〇〇八年『戸村飯店 青春100連発』で坪田譲治文学賞、二〇一九年『そして、バトンは渡された』で本屋大賞を受賞した。他の作品に『図書館の神様』『強運の持ち主』『優しい音楽』『僕らのごはんは明日で待ってる』『あと少し、もう少し』『君が夏を走らせる』『傑作はまだ』『夜明けのすべて』『私たちの世代は』など多数。