殴り書き、

年が明けて、4日目、非通知から電話がかかってきた。
出はしない。が、心臓がバクバクと波打ち、目の前が真っ白になりかける。

ぼくの日常にとって、非通知からの電話、というのは、すなわち、加害者からの電話、である。

交感神経系が昂って心臓がバクバクと波打ち、と思えば背側副交感神経系が反応して身体が硬直し目の前が真っ白になりかけているぼくは、しかし、その感覚を甘美なものとしてそれに身を任せ従いかけている。

郷愁に駆られている、と言ってしまってよいと思われるそれは、ぼくにそれを「正しいものだと」記録しろ、と囁きかける。

よって、ぼくは、こうして、混乱のさなか、身体のコントロールを失いつつ、僅かに残った感覚を頼りに、こうして記録を残そうとしている。

便宜的に、加害者という言葉を用いるが、それはのちの文脈で仮にそう位置づけられたものに過ぎず、ぼくとかの人の関係性のほんの僅かな一部を切り取ったに過ぎない言葉である。よって、以下にはここまで加害者と表現したものを、かの人と表現する。

ぼくがかの人からの行為を受け止め続けている間、ぼくに起こってきた数々の変化をぼくの身体は記録してきた。

それが、ぼくのある種のルーツである。

ルーツは、単にルーツであって、良いも悪いもその他あらゆる評価の物差しから逃れるものだとぼくは感覚しているが、しかしそれはやはり単にルーツであって、=アイデンティティ、あるいはその一部だと言ってしまうような乱暴は願い下げたいものである。

そして身体が交感神経系と背側副交感神経系のアクセルを全開にしている今、それこそがぼくのありとあらゆる追憶にダイレクトに接続して、今、ぼくは「現在」として「過去のその時」にいる。

懐かしい、という言葉では表現しきれない強烈な過去の想起、あるいは具現とまで言ってしまえるか、これを、フラッシュバック、と言うのか、否、ぼくは「現在」をもって「その過去」にいるのだ、あるいは、「その過去」をもって「現在」にいるのだ。

そうして慣れ親しんだかの人からの暴力は今なお再現され続けてぼくのなかに生きていて、ああ、ぼくは真にそれを求めているのだ、と信じるこの瞬間に、身体は何処までも拒絶して凍りつくのも感覚していて、しかしそれすらも、ぼくにはどこまでも懐かしく、儚く脆い、甘美な夢なのである。

ああ、痛みよ、恐怖よ、混乱よ、その全てをもってぼくに安寧を施すのだ。

この感覚こそが、ぼくに生をもたらすのだ。

 一方で、「過去の記録を見ないと、自分が辛かったらしいことさえ忘れてしまっていて、現在の自分が辻褄の合わない辛さを抱えて生きていくことになってしまうので、時々過去の辛さと現在の辛さを照合して擦り合わせて生きていかないといけない」と感じている日常がぼくにはある。

確かに、辛い。それを気の所為だとか嘘だとか言うつもりはない。それもまた、真である。

また一方で、「幸せになろうとして」トラウマ治療に励む闘病の日常がぼくにはある、というのもまた、真である。

トラウマ治療とは革命である。革命にシンボルは必要だ。でもそれを「人」にしてはいけない。そうしたら最後結局、どこまで行っても犠牲が出る。シンボルになったものは、必ず民衆の奴隷となる。だからぼくたちがシンボルとして掲げるのは、「幸せの記憶」である。

「なぜ生きるかを知っている者はどのように生きることにも耐える」のだ。「幸せの記憶」に何を選択しようと、ぼくはそれが「幸せ」であったことを知っているのだ。

それが、偽りであったとしても、である。

ぼくは、そういうたくさんの矛盾の中に生きている。
そのアンビバレントさこそが、ぼくの困難である。

今日もぼくは、心臓を張り裂けそうに波打たせ、目の前を真っ白にしかけながら、ここにいる。

ああ、生きてるってかんじがするぜ。

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