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誰にも気づいてもらえなきゃ、本当の自分なんて居ないのと同じ

たとえ中身に素晴らしいものが詰まっていようと、
それを外に見えるようにしていなくちゃ、
ないものと同じ。

言葉にしなくちゃ伝わらないし、
行動を起こさなきゃ見てもらえない。

たとえそれが偽りの言動だったとしても。

偽善だってなんにもないよりはいい。
出してしまえば、それが他人にとっては本物になる。


他人が自分のことをどういう人間だと判断するか。
それがすべてだと思う。

本当の自分を圧し殺したくなんかない。
でも本当の自分なんて誰も分かってくれないんだから、
他人に自分はどう見られているのかをしっかりと見極めて
事がうまく進むように自身を仕組まないといけない。

心理学的に、
出会う人全員を、この人はどういう人なのかと
じっくりと判断することは不可能なので、
もともと持っている固定観念を活用して効率よく判断することは
社会生活を送るうえで現実的な方法として私たちに備わっているらしい。

だからその人の性質について
誤解が生まれることは当然のこと。

自分だって他人のことを誤解しているはずだ。
 
その人のすべてなんて分かりっこないんだから。
だったら、
もういっそのこと、
本当の自分なんて一人暮らしのアパートに閉じ込めてしまって、
もう一人の自分、他人が作り出す自分として生きていくほうが楽なんじゃないか。


他人のことなんて分かりっこない。

この人は私のことを分かってくれていると誤解して
本当の自分をさらけ出してしまえば、
自分の意図とは違ったほうに解釈される。

それは他人もきっとそうで、
あなたの意図とは別のほうに
私はあなたを解釈してしまう。

私の思い描いていたあなたと
本当のあなたは別物だった。


たとえあなたにとっては冗談でも、
私にとっては冗談なんかじゃない。

ああ、そんなことを言う人だったんだね。そんなことをする人だったんだね。


それを
「冗談じゃん~」
って笑い事にされると
なんだかもう今後その人に、心から笑いかけることはできない。

そうやって私が判断した。
ああ、この人はこういう人なんだって、私が判断した。

たとえその人が本当に「こういう人」ではなかったとしても、
私はその人に「こういう人」という判断を下してしまった。

それがたとえ誤解でも、
そう判断してしまえばそれまでなんだ。
そう判断されてしまえばそれまでなんだ。

本当の自分を理解されていなかったことに絶望するくらいなら、
私はもう本当の自分なんて他人にいっさい見せないほうが楽なんじゃないかと時折思う。

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