#157どうやって金を借りるのか?ー大名貸しの不思議(二)
領主がどのようにして地域住民からお金を借りていたのかについて、引続き考えていきます。
先の例では、自分の居住地域の領主からの金策に対応している様子を紹介しました。自分たちの領主ではない場合、一応の利害関係はないため、金策に応じなかったために後に不利益を被るというということはないはずなので、わざわざ金策に応じる必要というのは無いように思われるため、今回は居住地域外の領主の金策についてアプローチしてみたいと思います。
次に挙げる例では、自分たちの地域の領主ではない、他の地域の領主への金策に応じた話です。以前に「#055武士と百姓の友情はあり得るか?-食と歴史にまつわる、あれこれ」で触れたことがある、浜松藩の岡村義理(通称黙之助)の関係する例を挙げましょう。
岡村黙之助の仕えた浜松藩は領主は井上氏ですが、陸奥国棚倉から上野国舘林、遠江国浜松と転封を重ねた大名で、大阪には領地はありません。岡村は大阪で蔵屋敷に務めており、その時期に河内国の庄屋層の人々との繋がりが出来、金策をしたようです。
どのようにして繋がりが出来たのかは不明ですが、多田屋篤右衛門という人物が用達として間に入って金銭のやり取りを行っていたことが書状などから見受けられます。多田屋篤右衛門については、詳細は不明なのですが、『大阪府誌』第一編の一一三頁に奥州舘林藩の用達に「多田や徳右衛門」とあり、恐らく同一人物であろうと推測されます。
浜松藩と地域との金銭の貸借は、実際には為替で行ている様子なども史料では見て取れますが、どのような契機で領地でもない場所の庄屋層の人々が浜松藩の金策に応えていたのかはよく判りません。「#055武士と百姓の友情はあり得るか?-食と歴史にまつわる、あれこれ」でも触れましたが、少なくとも岡村黙之助と、書籍の貸し借りや文学談義、あるいは出張先からのお土産を渡すなどがあることから、地域の庄屋層との文化的な交流、人的交流によるところが大きいように史料からは感じられます。
別な例として、河内国の庄屋層の人々で、宮津藩、大和郡山藩の金策に応じているところもあります。
宮津藩は領主が本庄氏ですが、河内国に所領を持っていません。こちらについてもどのような契機でかは不明ですが、河内国の庄屋層に対して金策を申し込んでいます。宮津藩においても、金策に応じた庄屋層の人々に対して、苗字、帯刀を許しています。宮津藩の例では、大坂に藩主や藩の主だった役職者が来た際には、庄屋層の人々は宿まで出向いて挨拶にうかがっていることや、藩主の代替わりや幕府での役職就任にあたってはお祝いを送っている様子などが史料からも読み取れます。庄屋層の人々が金銭を貸しているにもかかわらず、このような待遇で遇しているということから、苗字、帯刀の許可をもらうということが相当な好待遇であると推測されます。
大和郡山藩は領主が柳沢氏です。大和郡山藩は河内国では讃良郡に四か村、若江郡に一か村しか領地を所有しておらず、それらの領地は大和郡山藩の境域とは隣接していない場所になります。
河内国全体としては、大阪府の東部に位置するため、その東部の地域については現在の奈良県に隣接しており、大和郡山藩の領域は山を越えてすぐ、という関係になります。河内国の中でも、現在の奈良県に隣接している地域、河内郡、高安郡などでは、庄屋層のうちで非常に学芸、文学に対する熱意があり、文化サークルのようなものが形成されていました。
一方で、大和郡山藩には近世中期に藩士から柳沢里恭という文人を輩出します。柳沢里恭は、柳里恭(りゅう・りきょう)と中国人風の名前も名乗る文人、画家で、淇園とも号していました。柳沢里恭は文化的な地域性を持つ近隣の人々とも交流してたため、大阪府東部では柳沢里恭の揮毫した扁額などがいくつも散見されます。
このように柳沢里恭との文学的な交流があったためか、大和郡山藩の所領でない地域において、藩の金策の史料も出てきます。大和郡山藩の場合は、柳沢里恭没後の近世後期においても大名貸しが続いており、柳沢里恭の遠忌に際してもお供えを贈るなどのことを地域の庄屋層がしていることも史料からも確認され、没後も引き続き続いている様子がうかがえます。
どのように大名が金策するかについては、浜松藩や大和郡山藩については、結果として文化的、人的な交流に重きを置いて、所領でないにもかかわらず金策に応じていたのではないかという印象を受けます。どのような契機で大名が金策を行っていくかについては、今後も調べていきたいと思います。
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