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#174江戸時代から明治時代にかけての木綿の話(三)

 前回、前々回と、どのようにして江戸時代の木綿産業が近代化していったのか、その品質、ブランド化の問題、および価格の推移を見ていきました。
 今回は明治以降に綿布がどのように評価され、品質、価格の変化がどのように影響していったついて見ていきたいと思います。

 なぜ高い評価であった河内木綿が衰退したのかというと、先の表の通りの高価格であったことが理由として挙げられます。というのも、これまで河内木綿の服を一着しか購入出来なかった層が、半唐、丸唐の製品であれば、二着、三着と複数持つことが出来るようになります。
 これはどういうことかというと、江戸時代以降、質屋に預ける質草の大半は木綿の衣服でした。つまり身の回り品のうちの衣服は高級品であったといえます。低所得者層であれば、夏の間には冬の衣類を質草として質屋に入れ、冬になると夏の衣類を質屋に入れ、冬の衣類を手元に戻す、といったような生活をしていました。
 西村卓「鉄道踏切番と強盗-明治一七(一八八四)年八月に起こった強盗事件」(『経済学論叢』63(4)、同志社大学経済学部、2014年9月)によると、こちらは明治時代の例になりますが、強盗が金品以外に盗んだものの大半が衣類であったことが記されています。つまり明治時代中期にあっても衣類は高価なものであったことが、ここからも見て取れます。

https://doshisha.repo.nii.ac.jp/records/22847

 衣類が高級品であった時代であったため、今まで一着しか購入できなかった層は二着、三着と購入出来るようになりますが、それは総じて生活がより豊かになると言えるでしょう。そのため、高級な衣類よりも安価な衣類に消費者が流れていく、という現象が起こります。
 また、逆に国産の綿糸を使用していた綿布の生産地は、その評価が高ければ高いほど、半唐や丸唐に移行するという品質の低下が消費者の側から許されずに、以降に踏み切れなくなるという効果があったと言えます。

 綿布の原材料の綿糸についても、外国産の綿糸については、価格が安く、毛足が長くて細いため、機械紡績に向いており、大規模な機械紡績を行う場合にはうってつけでした。外来綿は、毛足が長く手細いため、従来江戸時代に需要のあった作業着という用途に向かない代わりに、薄手の布が生産出来、薄くて滑らかなおしゃれ着に向いた布を生産出来ました。また、機械紡績に耐えうるために、労せずして生産量を増大させることも可能でした。
 逆に国産の綿糸は毛足が短く太いために機械紡績には向かず、布にした際に厚手で丈夫であったために作業着に向いているという性質がありました。しかし、機械紡績に向いていないので、時代のニーズにこたえることが出来ず、徐々に国産の綿花の栽培が衰退していきます。これについては大阪府を例とした下の表を以前に作成したので掲げます。明治期後半に一気に作付面積が減少していくことが見て取れるでしょう。

明治~大正期の大阪府下の綿作作付面積の推移(拙稿「河内木綿の近代-地域での振興策と河内木綿の衰退」(『河内木綿-歴史と資料』八尾市立歴史民俗資料館、2007年所収)より)

 このように機械紡績に向いていないことと、外来綿よりも高価であったことから、明治後期から綿花の作付面積も減少し、また外来綿の圧迫を受けて、次第に国産の綿糸を使用した綿布の生産が減少していきます。
 これとは逆に、前回のグラフでもともと品質、価格が河内や伯耆、などに劣っていた地域は、現地での糸の生産をあきらめて、外来綿を用いることで半唐、あるいは丸唐を生産することで、生産技術のみで生き残るという方法をとることが出来ました。現在の大阪府泉州地域や愛媛県今治地域などが、現在にまで続く成功例と言えるでしょう。

 一方で、国産の綿糸を用いた綿布が全く滅びてしまったかというと、そうではなく、機械で生産しづらい点を逆手にとって、手織りの着物や布団地などを細々と生産していって昭和期まで続いていました。これは、手織りによる特色として、嫁入り衣装や嫁入り道具として、思いを込めた一点物である点を生かした生産方法であったと言えるでしょう。

 このような形で、その特色と生産方法や価格に制限されて、江戸時代からの伝統的な木綿の製造が近代的な機械紡績業へと変化していったといえます。とはいえ、木綿業で生き残れなかった地域が、その後、どのようになっていったかという問題点もあるので、それについてはまた別項を設けて紹介したいと思います。


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Nobuyasu Shigeoka
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