#116活用される古墳(1)
朝日新聞Podcastで、百舌鳥・古市古墳群の話を配信していました。それを聞きながら、そういえば以前に古墳に関わる文章を少し書いたな、ということを思い出し、今回は古墳についてのお話をしたいと思います。
古墳の話と言っても、著者は近世史、近現代史が専門のため、古代史、考古学のことは全くお手上げですので、古文書を読むことで、その中に登場する古墳についてのお話を紹介したいと思います。
古墳は古代に築造されますが、年月が経つことで、古代の首長の権威も、そこにどのような意味があったのかなど忘れ去られていき、そのまま放置され、のちの時代には荒れるにまかされてしまうようになります。
中世では、戦国時代において合戦のために城が多く築造されますが、古墳は葺石や石室など多くの石材を用いていることから、城や砦を築造する際に、格好の材料調達場所にされます。例えば大阪東部の高安千塚古墳群(八尾市、国史跡)は、「千塚」と呼ばれるだけに数多くの古墳が散在していましたが、豊臣秀吉の大阪城築城に際して格好の石材調達場所と目され、かなりの数の古墳が破却されてしまいます。また、後に大きな石がたくさんあることから、この地域は造園業が発展して、庭石として調達されて破却されてしまい、ますます古墳の数が減少してしまします。
また、現在の高槻市に所在する今城塚古墳は、継体天皇陵と考えられる古墳ですが、文献の中の郡境の読み違いなどから比定の際に継体天皇陵=三島藍野陵とされてしまった、不運の天皇陵です。そのため、天皇陵と目される古墳ながら、発掘調査が行われ、自由に見学出来る唯一の天皇陵と言えます。その今城塚古墳は、戦国時代には三好長慶によって城郭に改造されて活用されます。
一方で、現在継体天皇陵とされている三嶋藍野陵はというと、江戸時代には多くの農家に分割所有されており、墳頂部はそれぞれの人々に分割して農地として活用されてたことなどが、地積図などから明らかになっています。また、陵墓の濠の部分が、明治六年には干害のため干上がってしまい、これ幸いと濠にいた魚介類を払い下げてもらいたい旨の願書なども出されています(『新修茨木市史』第六巻史料編近現代、七五四頁)
同じような活用のされ方をしていたのは、恵解山古墳(長岡京市)です。現在は国史跡として恵解山古墳公園として整備されていますが、墳頂部には近世以来の村墓として活用されており、現在も村墓を残した状態で古墳公園として整備されており、ホームページやグーグルマップからもきれいに区画整備された村墓を墳頂部に備えている様子が見て取れます。
もう一つ、大仙陵古墳についての話題があるのですが、少し長くなりましたので、こちらは自戒にご紹介したいと思います。