【第二話】結婚と新たな人生の出発~商売修行時代~
ある日、小学校で仲の良かった友人の結婚式に呼ばれて出席した時の事。
隣の席に座った男性がいたのです。
それは私の幼馴染でした。
その男性は小さな時から病気がちで、色白、登園日の半分しか幼稚園にきていなかったのです。
体は弱い人でした。
しかし明るく楽しい人。
後に【吉本のよう】と私は思ったことを覚えています。
こんな楽しい人と一緒に過ごせたら、私の人生は幸せかもしれない、と感じさせてくれるものがありました。
その友人の結婚式が終わった時に彼は私に言いました。
「車で送ってあげる」
タクシーで帰りたかった私。
そんな私に先生が言ったのです。
「無下に断るな」
ここが人生の転機になったのです。
人生どこで何がどうなるかもわからない。
この先生の言葉で私は人生の転機を迎えたのです。
もしかしたら
先生は私の恩人かもしれないw
当時、毎日の様に私を待ってる彼。
そんな彼を遠目で見ていた専務であった叔父の一言
「あれだけ熱心な男は仕事も熱心だ、絶対に成功する」
彼は、周りからの信頼は抜群でした。
そんな私たちのさらなる転機は、正月に訪れました。
正月に、大島紬を着て車で迎えにきた彼。
「正月なので挨拶くらいさせて欲しい」
母が
【挨拶に来てるよ】
父
【なぜ会うのか?】
ムッとする父w
そこからみんなで初詣。
意気投合する熱血漢の父と彼。
彼が夫に昇格w
どちらも単純な男たちだったのですw
そんな縁で結婚する事になりました。
付き合って一年半、26歳で結婚する事になったのでした。
主人の生家は。。。
明治時代から続く、地元では皆に愛される有名なパン屋でした。
60人の従業員を抱え本店。支店が2店舗と成功していた家柄だったのです。
私が次男坊である主人の家に嫁いだ時は、兎に角人気で忙しくて、何時も笑顔の絶えない家族でした。
ある日、元気だった主人の父が病気で倒れてしまいました。
全ての司令塔であり、会社の頭脳だった義父の現場からの離脱は経営に大きな影を落とす事になりました。
頭脳明晰な父の知恵の元、家族皆で力を合わせて頑張りましたが経営状況は悪くなる一方。
時代の移り変わりも手伝ってか 2店舗も閉めざるを得ませんでした。
時代の流れとともに事業は急激に衰退していったのです。
ある日主人が
【こんな店は辞めてやる】
と私に想いを吐き出した事もあります。
パン屋の仕事は朝早くから夜遅くまで長時間労働でかなり過酷なものがありました。
私は夫に対して「お父さんの目の黒いうちはパン屋をやるべきだ」と言っていました。
嫁に行って6年目、お父さんが亡くなってしまいました。
父が亡くなった時を境に、兄夫婦に店を託して私達はパン屋を後にしたのでした。
私たちの修行はそこで幕を下ろしたのです。
実になる前に私たちは次の階段を登る事となったのでした。
主人は仕事を探してくれていました。
そして、ある大きな保険会社に内定が決まりました。
私たちは安堵するも束の間、受かっていたのに健康診断でひっかかり、
さらに、主人の体調が悪くなり、結局はその会社には入れなかったのです。
諦めざるを得なくなったのです。
子供2人も未だ小さくて、どうやって食べて行こうかと貯金を崩しながら何とか生活していました。
「どうしよう・・・」
夜も眠れない日々が続きました。
そんな折
「ちょっと会社に来い」
と、実家の父が私に連絡をくれました。
父から呼び出され会社へ足を運ぶ私たち。
そう私の父は
【いつも私たちの様子を遠くから見てくれていた】のでした。
私たちが到着するやいなや父が、一反風呂敷を広げて商品を
取り出したのです。
一枚2万円の
・カシミアセーター
・ツイードジャケット
・スラックス
・スーツにコート等
「兎に角貸してあげるから売って来い!」
父は私たちに告げました。
私は以前、父の会社に勤めていたので商品の事、価格の事はすんなり理解できたのですが。。。
一個100円前後のパンを毎日売って、数年経っていて今日から2万円のセーターを今の私に売れるのか?
私には一抹の不安が過ったのです。
そして貸出伝票を見たら
定価で100万円の内容だったのです。当時の100万円は今の価値で言いますと400-500万円くらいの感覚でしょうか?
その額は私たちにとってかなりの大金ではありましたが、その時、その事は不思議と負担とは感じなかったのです。
父からの思いやりを受け取って
兎に角売りに行こうと決意した私が居たのです。
そう、私はいつも期待に応える女。
喜んで貰いたいのです。
私の家は問屋を営んでいました。
消費者と直接会うことはない仕事でした。
お客様は商店の社長さんばかりだったのです。お客様を持つお客様。
これこそは今までのお付き合いであり、決して消費者に会う事も直接消費者へ物を売る事も経験は有りませんでした。
家に帰って、さあ〜
何処に行こうか・・・
思案に暮れる私。
2、3日経った昼頃。
3歳の息子が三輪車で遊んでいた時に、いつも可愛がって下さっている近所のおばさんから「飴もらったよ〜」と
ニコニコ顔で帰って来たのです。
早速、そのお礼にちょっとご挨拶に伺いました。
町内なので何度かお顔は拝見していましたが、何せパン屋の時は、朝5時から夜8時迄だったので、余りご近所の方とお会いする事も無かったのです。
今はパン屋は辞めて
今の状況にいると言う話から
思い切って「セーター見てみませんか」声を掛けて見ました。
快く「夕方、家にどうぞ」と仰られて、伺いましたら数人集めて下さっていて沢山購入して頂きました。
人を呼んでなど言ってもないし、思ってもいなかった。
私は、あまり涙を零さないけれど
帰宅後、人の優しさに溢れる涙を堪えることが出来ませんでした。
そこから訪問販売をスタートさせて後にブティック経営を25年間する事となりました。
この25年の間はバブル期も重なって商売は順調でなにをやっても上手くいく事も経験しました。
市場と言うのは【何が伸びると何かが落ちる】
落ちゆくマーケットにしがみついていても、そこには苦労しか有りません。
伸びゆくマーケットを捉えてビジネスをするとまるで帆を張る船の様に前に進んでいけるのです。
まさに私はその様な体験をしたのでした。
バブル期は日本中がお祭り騒ぎで、10万円のスーツが山ほど売れました。
しかしその様な時期は長くは続かず、ついにバブルは崩壊。
世の中の流れは大きく変わりました。
その流れは大きなうねりとなり、徐々に私たちの経営を蝕んでいったのです。
実家の商売は
《中間卸し問屋》で有るが、その頃には消費者と生産者が直にやり取りできる仕組みが出来てきて、もはや問屋の存在意義が薄れて来ていました。
やがて 私の実家も主人の実家も閉める事となってしまったのです。
時代の変化に対応出来ない事業が辿る運命は決まっていたと言えました。
時代の変化を目の当たりにしてきた私。
小さな町に暮らす私には、地元の人々の声は直ぐに届くのです。
「親亀転けたら子亀も転けるよなー」と影口がどこからともなく聞こえてくる。
私は反発する心に火が付いて「絶対に生き伸びる!」と新しい仕入れ先を見付けてブティック経営を続けていました。
しかし長い目で見たら私たちの事業も時間の問題では?と
心に囁く声がする。
そう、私は不安でならなかったのです。
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◆【第一話】私とは?
◆【第三話】不安な心に忍び寄る陰
◆【第四話】ネットワークビジネスの問題点とは?~誰も気付けない真実~
◆【第五話】これからを生きる~インターネットを活用して生涯現役~
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