映画「グラン・トリノ」を再考する③
本稿は、
映画「グラン・トリノ」を再考する①
映画「グラン・トリノ」を再考する②の続きです。
4.隣人との交流
モン族はウォルトがタオたちを守ってくれた件の感謝の気持ちとして、料理や贈り物を持ってウォルトと関係を築こうとします。当初は冷たく接するウォルトですが、次第に隣人の温かさに心を開いていきます。 また、タオの家族が、盗みを働いた罰としてタオを使ってほしいと頼んできます。ウォルトは、タオを「男らしく」育てると称して、周りの家の庭や家の修繕を手伝わせる仕事を与えます。
仕事を通じて、ウォルトはタオを息子のように感じ始め、また(父親もいない)タオやタオの姉スーもウォルトを父のように慕い始めます。
なお、隣人の少年タオを「トロ助」と決めつける場面や、うまくガールフレンドを誘えないことを揶揄する場面では、やはりウォルトが「男性性」や「強さ」を大事にしている価値観の持ち主であることも分かります。
[ 大事なシーン ]
また、5と少し順番が前後してしまうのですが、ここでひとつ大事なシーンがあります。
このシーンは、2つの意味があると思います。
①とても大事にしている「グラン・トリノ」(※実の孫にも渡したくない)を、タオに貸しても良いと思うくらい、タオに心を開いていること
②「女性を獲得するために車を使う」いう…昔ながらの「男らしい」価値観をウォルトは持っているということです。
くどいようですが、この作品では、ウォルトが「男らしさ」という価値観を非常に大切にしていることが繰り返し強調されています。
ただし、前頁でも述べたように、伝統的な「男らしさ」を大事にした、偏屈で頑固な老爺に見えるウォルトが、意外にも柔軟な一面を持ち、偏見の対象であった「バーバリアン」たちと向き合い、対等な関係を築くことができている点も特筆すべきポイントだと思います。
これら一連の描写を紐解いていくと、ウォルトは、戦争で深い傷を負った繊細な男性でありながら、戦争でより強固になった「男らしさ」という鎧を纏うことで、自らを守ろうとしている姿が浮かび上がるようにも見えてきます。
5.ギャングの復讐とウォルトの決意
ウォルトとタオたちが交流を深める一方、モン族のギャングが、タオにさらなる嫌がらせを加えます。怒ったウォルトはこれ以上タオに手を出すなとギャングに暴力を用いて警告しました。しかし、最悪なことに、その暴力の報復としてギャングはタオの家に銃弾を乱射し、スーを陵辱してしまいます。
スーの被害、非常に胸が痛いというか、凌辱という凄惨な被害を、ウォルトを曇らせるために舞台装置化していないか?と思うところもあり、個人的にはすごく嫌な気持ちになるのですが、男性同士の終わりのないの応酬が、取り返しのつかない結果を招いてしまうということを、イーストウッドは、スーという女性の被害を通じて描きたかったのだろうと解釈しています。
6.ギャングとの対峙
この事件をきっかけに、ウォルトは自分の内面とその呪いと深く向き合ったと私は思います。戦争が彼にゆがんだ価値観を植え付け、悪い意味での「男らしさ」が彼を苦しめるとともに、周りも傷つけていたということに、ようやく気づき、そして、ウォルトはある選択をします。
ウォルトの告白は、タオにとって「男らしさとは何か」という本質を見直すきっかけを与えるだけでなく、ウォルト自身が「赦し」を求める心情の表現でもあります。彼は、自らの行動によって繰り返される暴力の連鎖を断ち切り、タオに新しい生き方を示そうとしたのです。