映画「グラン・トリノ」を再考する①
「グラン・トリノ」とは
『グラン・トリノ』(Gran Torino)は、2008年に公開されたアメリカ映画で、監督・プロデューサーおよび主演は名優クリント・イーストウッド。舞台はアメリカ、(かつてアメリカの自動車産業が栄え、そして衰退した)デトロイトです。
私と「グラン・トリノ」
2008年というと、今からもう16年前の映画です。私は、社会人1年目のときに一度この作品を観たことがあり、そのときは「まあ…いいんじゃない?」くらいの感想を抱いて、そのまますっかり忘れていました。というのも、物語のラストがある程度予想できてしまい、若い私には、どうも予定調和のように思えたのです。相互理解、異文化理解、心の交流、暴力の連鎖を食い止める、老人が異なる民族の少年を成長させる…なんかYes, we canっぽい(当時はオバマ政権でした)。そうだよね、なんか、心が温まるって感じの映画かな…という感じであまり心に留めていなかったのです。
ところが、16年経った今、あらためてこの映画を見返したとき当時気づかなかった、クリント・イーストウッドが、この映画で本当にやりたかっただろうこと」が分かったような気がしてきました。
グラントリノの評価
さて、過去の「グラン・トリノ」の評価はどのようなものだったでしょうか。イーストウッドの監督作で過去最高となる興行成績を達成していたり、レビューサイトでは割と評価の高い本作ですが大きな賞などは受賞しておらず、また、私の知る限りでは、私が若いころに抱いた感想と似たような感想を頂いた人が、日本では多いようです。(海外ではわかりません。Googleの評価を見てみると、キリスト教的な映画だと感じている人が多いようです。)
中でも、日本では、「主人公の男らしさによって、少年が成長した」といった観点でこの作品を評価している人が多いように感じられました。それを象徴するのが、ワーナー・ブラザーズのウェブサイトの紹介文です。
というわけで、日本においては「主人公という『男』がいいやつだった」、といったような評価をしている人が多いようで、マーケティング的にもそこを推しているように見受けれます。
しかしですね、面倒くさがりの私がわざわざNoteを書こうと思ったのは、どうしても「この映画の良さはそこではない」と声を大にして言いたかったからです。
まず、先に結論を述べると、「この映画は、男らしさ礼賛というより、主人公が、自分が縛られていた(男らしさを含む)様々な呪いから解放され、「赦し」を得た話であることが丁寧に描写されている」「そして彼の遺した精神を少年が自分の思いとともに継承する物語なんだ」ということです。
「(男らしさを含む)様々な呪いの解放」、なんだか最近では手垢のついたようなテーマでもあります。しかし、この映画は今から16年前に上映され、さらに「男らしさ is wonderful」みたいな評価を受け続けてきた映画でもあるのに、「実はそうでもないんじゃ?」って私はどうしても言いたいんです。へえ、おかしいな…?と思った方、少し続きを読んでいってみませんか?
本作のあらすじ(ジジイ・ミーツ・ボーイ)
まずは簡単に本作のあらすじを紹介します。このNoteは「グラン・トリノを再考する」というテーマでもありますし、16年前の映画なので、ここからはネタバレを気にせず書きます。(まだ観てない人はぜひ、観てください)
主人公ウォルトは、かつてフォードで熟練工として働いていた頑固な男。物語は彼の妻の葬儀から始まります。妻を失い一人暮らしとなったウォルトですが、2人の息子たちとの関係もあまりうまくいっていません。彼は偏見と孤独の中で日々を送っています。
そんなある日、モン族のコミュニティと交流が生まれます。初めは彼らを受け入れることに抵抗を覚えていたウォルトでしたが、彼らとの触れ合いを通じ、心の変化を遂げていくのです。
要するに偏屈じじいが少年と出会い、その交流を通じて心を開いていく、『ジジイ・ミーツ・ボーイ』ものなんです。
では、もう少し細かく見ていきましょう。