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『命懸けの虚構〜聞書・百瀬博教一代』#4


 博教の少年時代の風景

  生涯に渡って100キロを越える巨躯の博教が食いしん坊になったのは、子供の頃からだった。
  父・梅太郎は喰べ物に対しては一家言をもっていた。
  刺身、塩辛、うに、なまこ、シャコ等々子供が好んで喰べるものとは違ったものが食卓に並べられることが多かった。
  梅太郎は喰べる前にそれの喰べ方、料理の仕方等をクドクド説明してから「これは江戸ッ子の食い物だ」と必らず言って喰べさせた。
 博教が自分勝手に箸をつけようとすると「ダメだ。シャコはこうやってもって、そして横にして、まず煮たつゆがしみているそいつを吸って見ろ」と教えた。
  こんな調子で始まるので、食事には時間がかかり、またよく喰べたので、博教は幼児から肥満体だった。

  博教は子供の時から好き嫌いがはっきりしていた。
 食べ物では、とくに蒸したご飯が大嫌いであった。プーンとする臭いがどうにも我慢出来なくて粒の米ものどを通らなかった。
  食卓の横に置かれた、銀色の蒸し器を見るのも嫌だった。
「僕、蒸したご飯ならいらないよ」梅太郎が殴ろうが、菊江が泣き叫ぼうが蒸した飯は一口も喰べなかった。
 そして、戦時下でも親分であった梅太郎の家には、実に贅沢にさまざまな料理が出たいた。
 ある日、近所の友達の貧しい食卓を初めて見て博教は、自分の家が特別で一風変わっていることを知ったほどだった。

「いまでもそうだけど、昔から飯の好き嫌いははっきりしてたねー。あと子供心に他人の家との食卓に優劣があるのが哀しかったよ。あれは何も悪いことをしていないのに俺の方が傷つくんだよなー。でも俺は子供の頃から、大食漢で食道楽だったから、獄では何がつらいって何よりひもじさが応えたね」

  博教は、幼児、物思いに耽るとじっと過ぎ行く景色を眺めていた。
子供の頃に焼きついた原風景は強烈で、後に博教が作家になった際、東京の風景の移り変わりが作品のモチーフになっている。

「あのころ、母と一緒に見た、浜町、水天宮、八丁堀、新富町の風景や、国技館の円屋根、水上バスが着く大川端、霞町(よしちょう)、人形町界隈には堪らない郷愁がある」と百瀬は書いている。

 そして柳橋こそ、その郷愁の原点であった。

  神田川が墨田川に流れ込み、それはやがて東京湾の海へ到達する。
その神田川の終点に柳橋は架かっている。
  柳橋は、緑色のペンキで塗られた、わずか28メートルしかない鉄橋だが博教にとっては、どんな建造物より長く思いを馳せるモニュメントであった。
 この柳橋を渡り切った橋の袂に「浅草橋町名由来」と書かれた案内板がある。

「いくつかの町が整理統合され、昭和九年(一九三四年)に誕生した。町名の由来は神田川の隅田川合流点近くに柳橋と称する橋があったのに因んだ。柳橋の名は、江戸中期の頃から花街として人によく知られ、橋のほとりには舟宿が並んで賑わっていた。一頃は、料亭及び芸者衆も多く、隆盛を誇ったものである。柳橋は元禄十一年(一六九八年)に初めて架けられた。神田川が大川に注ぐ所にあったから、その当時は川口出口之椅と呼ばれていたが橋の畔に柳が植えられていたことからいつしか柳橋と呼ばれた。現在の橋は昭和四年に架けられたものでローゼ形式の橋である」
 と書かれてある。

  この橋を見るためだけに呼びだされ、私の運転で橋を眺めるだけの時間を、何度過ごしただろうか──。
「な、いいだろう!水道橋!柳橋っていいんですよ!水道橋!」
 柳橋の夜景と共に、この言葉が今も忘れられない。

  江戸情緒を強く残す柳橋には、料亭や花柳界ばかりではなく昔から多くの文士や俳優が好んで住んだ。

  梅太郎が生まれる9年も前、昭和六年の五月、当時日本一の人気者、新生新派の名女形、花柳章太郎が柳橋代地河岸に引越して来た。
  花柳章太郎は、土地の顔役である百瀬梅太郎の家に酒と菓子と自ら書いた色紙を持って挨拶に来た。
 台所にいた留守番のおふじが出て行ってびっくりした。
 なにしろ新橋演舞場や明治座の舞台で眺めていた、憧れの名優が二人の男衆を連れて立っていたのだから。
 あいにく、梅太郎は菊江と一緒に出掛け祖母の坂本ふみも留守であった。
「そうですか。貸元がお帰りになられましたら、花柳がすぐ近くに越して来ましたので、挨拶に参りましたとお伝え下さい」
 そう言うと花柳章太郎は、おふじに頭を下げ敷居をまたいだ。
「その時、隅田川の川面を渡ってきた風が、花柳の薄紫の絽の羽織をはらりとさせ、花柳が腕をすいと伸ばして、舞い上がろうとする羽織の先を押えた風情は、舞台でも観られないほど粋でしたね。もう、うれしくってうれしくって。だって親分の代理として私があの花柳から挨拶を受けたんですもん」
 博教は後年、おふじが誰彼なく話す、この話を何度も聞いた。

 おふじは、梅太郎の乾分、土屋の女房だったが10歳になる前に苦界に売られ、土屋と私娼で出会った。
 おふじは鉄漿(おはぐろ)で歯を黒く染めていた。
 江戸時代には結婚した婦人は鉄漿を総て行い、既婚であることを満天下に知らしめた風習だった。
 おふじは苦界に身を置いた自分がまさか人並みには結婚できないと思っていたから鉄漿をつけた自分の姿に深く陶酔していた。
 しかし、博教は、おふじが口を手で覆わず笑うと、溝に落ちたゴムボールを素手で拾うような気分になった。
 おふじは文盲でピストルをペストルと言い、タイヤをタイ輪と言った。
 それでも家中の誰もが彼女の言い間違いを笑ったりしなかった。

「組というものは、国籍や、前科や、出生について、詮索しないことで成り立っている団体なのである」と百瀬は書いている。
 実際に私は百瀬が、人の属性で差別的言辞を言うのを一度も見たことがなかった。

 この、おふじに博教は面倒をよく見てもらっていた。
 小学一年生の時、寝坊したのを理由に学校をさぼろうとすると、おふじは、
「そんなに学校が嫌いでずる休みしようとするなら、これから先生の所へ行って、百瀬博教は小学校に入る前の日まで私のおっぱいをしゃぶってたんですよと言いつけてくるから」と叱って博教を縮み上がらせた。
 初恋の片思いを成就させてくれたのも、おふじだった。

 幼児、一番仲の良かった遊び相手は芸妓置屋「中西」の娘の朝子であった。
 朝子は来る日も来る日も彼女と遊んだ。
「朝子ちゃんにいつか、おかみさんになっておもらいなさい」と言ったのは、おふじだった。
 そして幼い朝子に「博ちゃんのお嫁さんになってあげて下さいよ」と博教の目の前で言って「きっとですよ、きっとですよ」と念を押し、どうだという顔で博教の顔を覗き込んだ。
 幼児から纏(まとい)が大好きだった博教は、二人で鳶の頭(かしら)のところへ遊びに行った。頭(かしら)は、博教に大きくなったら刺子半纏をくれると言った。

 博教が頭の真似をして鉢巻をすると、朝子も真似をしたがったが、おかみさんに女の子だからと言われて姉様かぶりにしてもらった。
 その姿が今でも忘れられぬほど可愛かった。

  博教は子供ながらも柳橋で生まれたことで自然と粋を好み、花柳界のえも言われぬ甘美な香を味わいながら生長した。
  朝子が好きでたまらなかった博教は仲良しだった、あんま屋の息子の安藤康に「絶対朝子とは二人っきりで遊ぶな」と厳命しておいた。
 ある日、博教が家に帰ると朝子と康が仲良さそうにままごとをしていた。    カッとなった博教は履いていた下駄を脱ぎ、その下駄で康の頭を殴った。
 その返す手で朝子の頭を殴ろうとしたが下駄の軌道が、それて朝子の眉間に当たり、額から血がにじんだ。
  朝子は将来柳橋の芸者に成る女だったので、大切な売り物を傷つけたと、博教は坂本ふみに折檻された。
 博教は自分より弱い女の子に手を上げたことを深く反省した。

「でも初めて人を殴った、この経験からだな、俺が人を『殴れる人間』だとわかったのは 。あのね、殴れる人か、そうじゃないかって重要なんです。人って一生殴らないで人生を終わる人っているじゃない? そういう人の人生も平穏でいいけど、そういう人はいざって言う時、後ずさりするじゃない。
 何も起こらないんですよ。それじゃあ運命や物語は呼び込まないじゃない。殴ることによってとてつもない代償を負うことだってあるだろう。でも俺は殴ってでも自分が我慢しないで前に出て行くことが出来ることを、このときはじめて知ったんだろうな」

 それまで殴り合いの喧嘩を一度もしたことのなかったひ弱な私が、たけし軍団に入って「殴れる人」になり、一時、見境なく衝動で人を殴るようになっていたが、1987年に通称「600万賠償事件」という暴力沙汰を起こし、師匠から厳しい叱責を受けるまで、それは止まなかった。

 氏の言葉に私は体験的に頷いた。

 その後、博教は引越して朝子と離れ離れになったとのは、感傷的な思い出になった。博教は、しばらくその哀しみを引きずった。
 その後、小学校二年生の時、母親に連れられて朝子が博教の引越し先の市川にやって来た。
 二年間会わなかった彼女は見違えるほど大きくなっていた。
「あんなに仲良かったのに、よそよそしくしちまって嫌な子だよ」
 再会にとまどっている博教に、曽祖母のふみはそう言った。

 時は流れて博教が二十一歳、赤坂のナイト・クラブの用心棒をしていた時のこと。
「中西朝子の少女時代を知ってるんですか。彼女は今、菊龍といって、柳橋一番の売れっ妓ですよ。一度会いに行ったらいい。すごい美人ですよ」
  と客から聞いた。朝子とは市川で別れて以来一度も会っていなかった。
 博教は「もっと立派に成ったらぜひ」と断った。
  その後、博教は三十六歳の時、私家版『僕の刀』を上梓し、どうしても一冊送りたくて朝子の住所を調べると、彼女は数年前の一夜どこへともなく身を隠してしまったことを知った。


疎開地 市川と長野

  昭和十九年、都内では警視庁が『享楽追放』に乗り出し、歌舞伎座、新橋演舞場をはじめ全国19の劇場が閉鎖となり、本土決戦体制がすすんでいった。
   東京の空襲が頻発するので、三月、丁度、博教が四歳の時、坂本ふみと博教、孝治の3人は、柳橋から千葉県、市川の須和田へ引越した。
  柳橋から須和田へ移ってきた時、博教は目眩がした。
 総武線市川駅から徒歩五十分の父の隠れ家に使っていた須和田の家の前の狭い道の向うは畑が陸続と見渡せる田舎だった。
「こんな寂しい所、僕嫌いだよ」
 百日紅の木が一本、芭蕉の木が一本、鳥の入っていない鳥籠が五つ縁側に置いてあるだけの暗く小さい借家に入ったとたん、博教は我儘を言って、坂本ふみにぶたれた。
  博教は、女の子の泥臭さ、キャラメルを置いていないパン屋、グローブのような手をした無愛想な百姓親爺、狐そっくりの目をしたキンキン声の八百屋の女房、どいつもこいつも見る度にやたらと腹が立った。

 それはまるで島流しにあったような気分であった。

「 疎開ってのは思い出したくない体験だよ。ありゃあ、子供心にも嫌だったねー。田舎ってのは文化って香りが何もないんだよ。まるで日蓮が鎌倉から佐渡へ流された以上のカルチャーショックを受けたね」

  慣れない引越し先で、博教の味方は孝治とふみしか居ないのに、この二人がやけに仲がよいばかりではなくつるんで博教をいじめた。 
  しかし、ふみは孝治が学校へ出掛けた後、幼い博教に講談社の絵本「いなばの白兎」や「猿蟹合戦」を読んでくれたり、大好きな川上四郎の絵がある童謡集を開いていろいろな童謡を唄って聞かせてくれる優しいところもあった。
 博教は、その童謡を、今も克明に憶えている。
 博教が童謡のなかで「雨が降ります 雨が降る 遊びに行きたし 傘はなし 紅緒のかっこも 緒が切れた」が一番好きだと言うと「おおいやだ、女の子みたいだね、おまえは」と、ふみは言った。
  そう言われて博教は、ふみには判る筈はないだろうと思った。
  博教がこの歌を好きなのは「朝子ちゃんは今頃どうしているだろう、雨で外に遊びに行かれず泣いているんじゃないだろうか」と子供心に夢想していたからだった。
  逆に博教が嫌いな歌は「青い目の人形」の中の「優しい日本の嬢ちゃんよ 仲良く遊んでやっとくれ 仲良く遊んでやっとくれ」の「やっとくれ」のフレーズだった。
 「やっとくれ」とはなんと薄情で汚ならしい言葉を使う歌だと思っていた。

「ここな!しかし、よくそこの話を拾ってきたなオマエ!どうしてか俺は子供なのに、そういうのが気になるのかねー、で、そういう感情を覚えてるんだよ。俺は何故か、そういう言葉の語感とか、哀しい風情とかに、過度に敏感な子どもだったな、ま、今もそうだけどよ。」

  この頃、博教はいつも夢想した。
  もし自分に度胸があったら、ぐっすりと睡っている孝治と祖母のふみの頭を 鉈で殴って家出しよう。家を出たら行く先は柳橋だ。朝子の顔を見たら両国橋の上から隅田川へ身を投げるのだ。

  妄想はしたが、まだ実行力がなかった。

  昭和20年本土決戦が始まり、米軍機が東京上空へ飛来するようになった。 3月10日未明、アメリカ軍が開発した超長距離爆撃機B29による本土空襲により、大都市に次々と『空襲警報』が鳴り響いた。
  この夜間大空襲による死者は8万人。隅田川をくだって、新大橋に近い日本橋浜町は、爆弾や焼夷弾が落とされ家が焼かれ、猛火に追われて「明治座」へ逃げ込んだ千人近い人が蒸し焼きにされた。
  都心の約42平方キロメートルを焼き尽くす空前の大爆撃であった。
 当時5歳であった博教は、この大空襲で焼きだされた人が家にたくさんやってきたことを記憶している。
  そして柳橋1丁目13番の3にあった博教の生家も焼けてしまった。

 そして、その少し前に長い間不在であった、母、菊江が家に帰り、博教と再会を果たした。
 しかし、逃亡先は、夫婦別行動だったので、父・梅太郎はまだ戻ってこなかった。
  戦争は日に日に敗色が濃厚となり本土攻撃の火の手は拡がり、東京のはずれの市川でも危ないとのことから、4月20日、長野県の宮田村へ疎開することになった。
 疎開先の食事は毎晩おじやだった。
 博教には、おじやのおこげほど美味しいものはなかった。
 子供の適応力は早い。すぐに田舎暮らしに慣れ、お腹をすかせては、桑の実、グミ、蜂の子の焙烙炒り、沢蟹焼、蚕のさなぎ、いなご、うさぎの刺身などを平気で喰べられるようになった。

 そして8月15日、終戦の日──。

  長野の田舎で終戦の玉音放送を聴いた。
  子供心にも何のことかわからないままドジョウ汁を食べたことだけが、その日の思い出だった。
  玉音放送を聞いた半月後、マッカーサー元帥が沖縄から厚木飛行場へ飛んできた。
 博教がタラップを降りるそのダンディーな姿を写真で見たのは小学生になってからだった。

  戦争終結後、疎開先に梅太郎が戻って来ると知った日、菊江と孝治と3人で駅まで迎えに行った。
  父、梅太郎は、大きなリュックを背負った乾分と一緒にやってきた。
  久しぶりに見る父の姿は、いかにも頼もしく思えた。
  家に戻る途中、強い風が来て梅太郎の帽子が飛ばされた。
 博教は、駆け出すと孝治より素早く追いついて、小川に流される寸前の父の帽子を掬った。
  それは父の前で久々に味わう誇らしい気分だった。
 家につくと、梅太郎が「開けてみろ、美味いぞ」と言いながら、蝋でしっかり封をされた箱を広げた。それは米軍から払い下げ品の米空軍の非常食である、Cレーションであった。
  博教は、そのとき食べたチョコレートやランチョンミートの缶詰は、ほっぺたが本当に落ちると思った。

「逃亡していた梅太郎が、こうやって家族と一緒に居られるようになった訳はわからなかったが、空襲と敗戦の混乱で梅太郎を拘束できる証拠が焼けたか、失われたからではないかと思う」と博教は書いている。

 博教の父と母は、国家的な“戦争”という時代の分水嶺を、実に個人的な“逃走”により、無事に渡り切った。

  長野から帰京し再び、文化果つる地、市川の須和田で暮らし始めた博教は6歳になり、市川小学校入学した。
  しかし、入学初日、博教は一分と凝っとしていることが出来ない性格で、休み時間に家に帰ってしまった。
  担任の女教師が、家に来て叱ったが、なんであんなつまらない学校へ行かなくてはならないんだろうと博教は思っていた。
  博教は、小学校でも勉強に興味を示す気配もなく、そのまま、今まで通りに自分のルールで生きることにした。
 
 実際、博教が、学ぶべきこと克服すべきことは、まだまだ家にあった。
小学校一年のとき、曾祖母の坂本ふみと留守番をしていた。
 ふみは長火鉢の前に座って煙管を使っていた。そこへ押し売りがやってきた。
「うちは間に合っているよ」と、ふみは邪険に答えた。
すると押し売りは、ふみに「そんな断りからはないだろう」と居直った。
「お前、なんのつもりだい、なめた真似をすると承知しないよ」
「けっ、気の強え、ばあさんだな」
 と言い争っているところへ、梅太郎の乾分の若い衆が入って、ものも言わず殴りつけた。
  その後、ふみは、この若い衆に小遣いをやってから博教に、
「おまえは口がないのかい、え、どうして、いらないよの一言も言えないんだ。意気地なし!」と謗られた。
 まだ一年生の博教は、押し売りの凄さに圧倒されてロが利けなかった。
 博教は悔しかったが、自分は「臆病なのだ」と思った。
 その思いはしばらく澱のように残った。
「臆病であってはならないのだ」と何度も言い聞かした。

 ふみが追い返したのは、押し売りだけではなかった。
  博教が生まれる前のこと、梅太郎との間に出来たと言い張る子供を抱え「面倒を見てくれ」と芸者が家に押しかけたことがあった。
  ふみは「お前はなんの稼業やってるんだ!芸者だろ。売りもの買いものだろ、誰の子供かわかんないんだよ、そんなみっともないことするなら芸者やめな!」と言って追い返した。

 「『臆病であってはならない』ってのは、俺が子供の頃にかかった魔法だな。人生のあらゆる場面で、漫画の吹き出しのように出てくんの。その魔法のランプの怪人みたいなのが出てきて、俺に言うんですよ。そいつが。『臆病であってはならない!』って。今でもそうだよ」

  なにかと、ぶったり叱ったり理不尽な祖母のふみではあったが絵本を読んだり、童謡を歌ってくれたりしたように、博教が小学生になると、映画へ連れていってくれるようになった。
  阪東妻三郎の『狐がくれた赤ん坊』『月の出の決闘』『影法師』『大江戸の鬼』『お富と与三郎』など、ふみが切符を買ってくれた。
 当時、全盛期のエノケンの映画もずいぶん一緒に見た。
 また『マルクスの二挺拳銃』は、あまりにも面白くて映画館から出られず、大笑いしながら3度も見た。

  博教が映画好きになれたのはふみのお陰であった。

  映画館は主にふみが連れて行ったが、そのほかのところは、梅太郎が博教を連れて行った。
  家には、五右衛門風呂があったが、銭湯好きだった梅太郎は博教を連れて三日に一度は通った。
  博教にとっても、銭湯は社交場だった。
 なにしろ博教は古本屋で買った相撲本の知識で40歳は年上の相撲好きの大人とも話しが出来た。
  ある日、いつものように、梅太郎に連れられ風呂へ行った。
 梅太郎は、大勢が入った後の汚れた風呂が嫌いだったので一番風呂に行くのが常だった。
  しかし、この日、博教が湯船に片足を入れたが「アツ」と言って足を引込めた。あまりにも熱すぎた。
  梅太郎も試してみて、大人でも入れないのを知ると、蛇口を全開にして水をどんどん入れた。それでも、なかなか冷めなかった。
 耐えかねて梅太郎が三助に言った。
「玉子ゆでるのとわけが違うんでェ。人間様の入れるようにしてくれろ」「そうですか、女の方は平気で入ってますよ」とすげない答が返ってきた。
「坊主こっちへ来い」
  そう言うと梅太郎は博教を連れると一瞬もためらうことなく女湯へ行った。そこには7、8人の女客がいた。二人の男の闖入者に全員が気色ばんだ。
 「男湯がどうもべらぼうに熱いし、銭払って風邪を引いちゃ馬鹿馬鹿しいんで、皆さんどうか温泉に行った気分で、私と子供を入れてやっておくんなさい」
  大声で言うなり、ザブンと浴槽に飛び込んだ。梅太郎は十分温まると、
「おまえは、もっと温まっていけ」と博教を残し「皆さん、ありがとうさん」と言って男湯に帰っていった。
  梅太郎が出て行った後、隣のおばさんが、
「あんたの父さんかい」
「はい」
「あんなん(馬鹿)じゃあ、ずいぶん苦労するだろうね」と言った。

  博教は後年、父の思い出話をするときは好んでこの話を綴り、誰彼ともなく語った。私も何度も目の前で聞いてきたが、何回聞いても、いいなぁ!と思ってしまう。

  銭湯へ行くと、妲己のお百の刺青のある父の背中を流すのは博教の仕事だった。
  必ず駄賃をくれたから父の乾分と一緒に風呂に行った時でも、父の背中は博教が流した。
  梅太郎と風呂に入っていると廻りの小父さんたちが、刺青を指差して、「妨や大きくなると小父さん達みたいに背中に絵が出るよ」とからかった。
 彫り物とは知らない、幼い博教は本当に絵が出るような気がして、どんな絵が出るか楽しみな反面、親父みたいな恐い絵が出たらどうしようと心配し、どうせ出るものなら、金太郎とか桃太郎が出ますようにと祈った。
 しかし、銭湯で見つめた梅太郎の後姿、その刺青は、どう贔屓目に見ても、惚れ惚れするにはほど遠かった。
  もともと父の背中にある「姐己のお百」は悪女の見本のような女で、段の紂王が百蘇氏を討って得た妃、紂王の寵愛厚く、淫楽、残忍をきわめ、武王に殺されたという言い伝えがあるが、そこまで調べて、梅太郎が刺青したのかは怪しいものだった。  
  もともと、この刺青も梅太郎の家に転がりこんできた自称・彫り物師に腕前も十分に確かめず針を入れさせたらしい。
  後に博教は、父の兄弟分でもある鈴木栄太郎や、銀座の篠原縫殿助(ぬいのすけ)、その乾分の富本富次郎の立派な背中を見るたびに、もっと上手に彫ってもらえばよかったのと思った。
  普通の人たちが恐れ、忌み嫌う「刺青」に対し、博教は子供の頃から抵抗感が一切無かった。
  背中の刺青は、一目で無頼渡世を送っている漢と判る。
 しかし、むしろ刺青に背中一杯に信念を背おっているのだという気構えを感じた。
  父・梅太郎の刺青も、自らの手で自らの道に励む存在を知らせた強さと、同時に刺青をしなければ他の道に色気を出してしまうかも知れないという弱さが同居しているのだと思うようになっていった。

  刺青と同じく博教は父の稼業に対して子供の頃から一度も嫌悪感を抱いたことがなかった。
  小学校の時、5歳年上の不良の中学生から「いいよなあ、ひろ坊んちは、お父さんがペタンポタンてやると、たくさんお金がはいってくるんだから」と言われたことがあるが、ペタンポタンが花札を指すということすらわからなかった。
  学校で仲間から父の職業について言われたのはこのときだけだった。
 長く離れ離れだった、父への思いを強くするのは、その頼もしさであった。
  小学校一年生の時、梅太郎と二人で谷津遊園の海水大プールに行ったことがあった。そのプールは縦百メートル、横八十メートルほどあったが、酷く汚れていた。
  梅太郎は背中に博教を乗せてプール中央の飛び込み台の下まで連れて行き、飛び込み台の櫓に組まれた太い棒に摑まっていろと言った。博教はまだ五メートルくらいしか泳げなかった。
 しかし、言われたとおり棒につかまると、梅太郎は博教を置いて泳いで行ってしまった。
 飛び込み台の下に居るので、誰かが飛び込む度に顔に飛沫が掛かった。顔を拭いたいが、棒を摑んだ手を離すことは出来なかった。
  ただひたすら梅太郎が迎えに来るのを待った。十分もしないで梅太郎は来てくれたのだが、随分長く感じた。 
  梅太郎の背中にしっかり摑まって岸に近づいて行く途中、父をどのくらい頼もしく感じたか判らなかった。岸に上げてもらうと同時に大声で泣いた。
「だらしのネェ野郎だ。早くあそこからここまで帰ってこられるように泳ぎが上手くなんな」と梅太郎が頭をなぜてくれるので、博教は、いっそう大きな声を出して泣き出した。

「俺は日本一のマザコンだと思っているけど、ファザコンでもあるよ。やっぱし。憧れてたよ。親父のエピソードはまだまだ話したことのないのは山のようにあるさ。でも俺の中では背中だな。あれを見て育ったから、男らしいというのはそういうことだって、親父が死ぬまで思ってましたよ」


芸人のたにまち

  長野から市川に引越しして来て2度目の正月、梅太郎は、吉原から馴染みの幇間(たいこもち)の桜川忠七を呼び、獅子舞を躍らせた。
  数日後、市川に住む、喜久八という幇間がやってきて、「どうして自分というものがありながら呼んでくれなかったのだ」と凄い剣幕で文句を言った。
 侠客と同じく芸人にも縄張りがあった。
  一目で、その喜久八の了見を気に入った梅太郎は、家の傍にあった「松桃園」に喜久八を連れて行くと、「こうもり」を躍らせ小遣いをやった。
 この「松桃園」は、中村勘三郎の母堂が経営していた割烹で、梅太郎とは親戚付き合いの仲だった。

  博教は、芸人には生まれながらに縁があった。

  よく憶えているのは、梅太郎が柳家三亀松を贔屓にしていたことだ。
  戦前から、梅太郎は兄弟分の宴会で同席した、当時、人気絶頂の三亀松を可愛がり祝儀を切っていた。

  三亀松も、また、実に芸人らいし芸人であった。

 三亀松の評伝「浮かれ三亀松」を著した吉川潮氏は、三亀松を知らない世代に立川談志と比較して紹介している。
 以下長くなるが引用しよう。

 昭和四十三年に亡くなった三亀松を知っている世代は限られる。私はなんとか間に合って、晩年の高座を東宝名人会で見ることができた。上野池之端に住まいすることから「池之端の御大」と呼ばれた芸界の大御所なので大物特有の威圧感があった。しかし、漫談は軽妙で面白く、妙にリアルな女の声を出して色っぽい文句の都々逸を唄う。大学生の私から見れば、「助平で面白いおじさん」だった。
 小説を書くためいろいろ調べると、若い頃の三亀松は鼻っ柱が強く、喧嘩っ早い男であったことがわかった。本名を伊藤亀太郎といい、木場で生まれて木場で育った生粋の深川っ子。
 野暮を嫌って粋を心がける美学を持ち、行動に一本筋が通っている。また、小生意気ではあっても可愛げがある。
 亀太郎は貯木場で働く川並から幇間になり、客を殴って破門になった後、洲崎の遊廓を流す新内流しになった。
 寄席芸人に転向してからも客と喧嘩はするし、三亀松という芸名の名付け親で恩人の柳家三語楼にさえ逆らうことがあった。
 そんな三亀准を書いている最中に『談志百選』の一文を読み、若き日の三亀松と談志の姿がぴたりと重なった。
 江戸っ子気質でシャイ、喧嘩上手のところなどが共通する。ただし、女性に関してはさすがの談志も三亀松には及ばない。
 (中略)
 女性関係の派手さとともに驚いたのは金の使い方だ。
 戦前に所属していた吉本興業の芸人の中で最高額の月給をもらっていたとは言え、気前がいいというか見栄っ張りというか、使いっぷりが半端でない。当時の吉本の芸人で三亀松にご馳走になっていない芸人は一人もおらず、人気漫才エンタツ・アチャコの花菱アチャコなどは、ご馳走になった上、舶来のオーバーとカメラを買ってもらったために生涯呼び捨てにされ、三亀松のことを「兄さん」と呼ぶはめになった。周囲の連中はアチャコほどの人気芸人を呼び捨てにする三亀松はさぞ偉いのだろうと思うわけで、金を使えば使っただけの効果があることを三亀松は知っていた。
 芸界や花柳界には「心付け」を出す習慣がある。ポチ袋という小さな袋に少額の現金を入れて渡すもので、三亀松は出演する演芸場の従業員全員に配り、タクシーに乗れば運転手に、料亭へ行けば下足番、仲居に出す。頻繁に東京、大阪を往復していたので、東京駅の駅員にまで渡した。
 大阪から戻った三亀松が東京駅の改札を顔パスで通ると、改札係が「お帰りなさい」と挨拶するのは東京駅の駅員全員に心付けが行き渡っていたからだというが、駅員の数からしてそんなことはありえない。実は三亀松、国鉄の組合員の慰安会に毎年ノーギャラで出演していた。だから駅員たちが三亀松を特別扱いしたのだ。
 その使いっぷりを真似した二人の役者がいる。
当時「松竹新喜劇のプリンス」と言われた藤山寛美と、大映映画の若きスター、勝新太郎である。二人とも三亀松に輪をかけて浪費したため、後年莫大な借金を作った。三亀松は両人を「俺の跡継ぎ」と言って可愛がった。(中略)
 三亀松は六十六歳の年の暮に胃ガンの手術をした。
 麻酔を打たれ、看護婦に「数を数えて下さい」と言われた時、そんな野暮なことはできないと代わりに『さのさ』を唄った。最後まで粋を通した深川っ子の意地であろうか。手術をしたものの転移がひどく、手遅れで、ひと月たたないうちにあっさりとあの世へ旅立った。盛大な葬儀で、鳶の頭連中が、三亀松の大好きな『木造り』で送った。
 同じガンでも談志師匠は食道ガンが早期発見されたため命に別状はなかった。「疲れた」だの「もう駄目だ」だのと言ってひとり会をやめてしまったが、引退したわけではない。これからは別に『芝浜』や『文七元結』のような大ネタをやることはない。軽いネタでいい。漫談だけで下りたっていい。ファンは立川談志を見られるだけでうれしいのだ。
 三亀松みたいに大物然としてわがままを通せる芸人は談志師匠しかいない。ビートたけしを、上岡龍太郎を、中村勘九郎を呼び捨てにし、桂文珍、笑福亭鶴瓶、爆笑問題、ダウンタウンを小僧扱いして、皆が「師匠」と奉るのは芸界で談志だけなのだから。  
(吉川潮著、「我が愛しの芸人たち」より)

 吉川潮氏が、その共通点を綴った三亀松と立川談志。
 後に、博教は立川談志とも交友を深めることになる。

  そんな気風の三亀松を梅太郎が贔屓にしないはずはない。
  その三亀松は梅太郎を「代地のモー様」と立てて呼んでいた。
  寄席に行くと、舞台の上から梅太郎を見つけた三亀松が、二役の芸者の声で「あなたァ。お得意の都都逸を歌ってちょうだい。ほら、代地のモー様が大好きな、あれよう」と言うと、梅太郎十八番の都都逸を唄い、挨拶代わりにしていた。
  三亀松は、葭町(よしちょう)座敷で梅太郎が着ていた100万円の結城紬(つむぎ)の羽織をおねだりし、梅太郎は気前よく与えた。
  梅太郎は中山競馬場へ行った帰り、人形町の割烹へ行くと、大勢の芸者を呼んで大散財した。その際は、決まって「おい、三亀松の家に電話しな。居たら来る様に」と呼びつけた。

「親父は気風がいいよ。例えば博打で勝ったら、一晩で今の金で5千万くらい儲けてたって。人力車に乗ったらお金がはみ出して落ちたっていうんだから、24日間、博打で勝ち続けたことがあるんだって、勝ってるときは、そりゃあもう大盤振舞いしてるよぉー。昔から相撲取りや芸人を呼んでカネを配るってのが当たり前の人だったなぁ」

  市川の工場の慰安に梅太郎が口を利いて営業を入れてやると、その晩は、三亀松が梅太郎の家にストリッパーを連れてくることもあった。
  そんな日は、必ず子供は早く寝かされた。
 2階に大人が全員あがると、そこで何が行われてるのだろうと想像すると、博教は、なかなか寝付けなかった。
  そして、子供心にも三亀松が演る坂東妻三郎の真似で「寄らば斬る!」とちゃんばらの振りをしながら途中からラ・クンバルシータを踊るのが大好きだった。

 「三亀松が謳っていた、都都逸は今でも憶えてるな、いいかい、よく聞いとけよ。『掃いても、掃いても、あとからゴミがでるから、ホウキはやまられぬ』とか、『格子は商人(あきゅーど)、よくみりゃ刺客(しかく) 抱いて寝て見りゃあ手腕の凶状持ち』なんて習ったな~。
 間が抜けた都都逸と違って調子が三亀松は違うんだよなぁ」

  と博教は私の前で完全に諳んじてみせた。記憶魔の氏は、映像だけではなく、こういう節ですら完全再現可能だった。

  三亀松だけではない。
  広沢虎造、玉川勝太郎など当代一流の浪曲師が、昔から家に出入りしていたのは、曽祖母の坂本ふみが、明治の後半から大正にかけて泪橋に「柳亭」という寄席を持っていたからだった。
 坂本ふみはこの寄席へ、若き日の玉川勝太郎を頻繁に出演させた。
  後に『天保水滸伝』の内『笹川の花会』を演じて日本一の浪曲師となった勝太郎の出世前の影の後援者の一人が坂本ふみだった。
  博教が最も好きな浪曲であり、侠客の道理の多くを学んだ、この名作「天保水滸伝」の作者でもある、作家の正岡容(いるる)も、また百瀬家を出入りする一人だった。

  話は飛ぶば、ふみが八十近くなった昭和29年頃、家に勝太郎がやって来た。
  その日は興行師、小暮幸太が「市川鈴本」で浪曲大会の興行を打ったのだ。
 それに出演する前に勝太郎はわざわざ、坂本ふみを訪ねて、
「私でお役に立つことでしたら何でもおっしゃってください」
 そう言って、もう誰からも慕われなくなって寂しかったふみを大いに嬉しがらせた。
「あの子は昔っから、恩義に厚い子だった」とふみは勝太郎の優しさを、死ぬまで褒めたたえた。

  家には古いレコードがたくさんあったが、歌謡曲は一枚もなかった。
 ふみの仕事柄、総て戦前のレコードばかりで浪曲や落語真打十八番集ばかりだった。
 広沢虎造の「夕立勘五郎」、天光軒満月「父帰る」、酒井雲「大谷刑部」、浪花亭綾太郎「佐倉宗五郎」、寿々木米若「吉原百人斬」、木村友衛「小金井と新門」等の浪花節が多かった。
 金馬の「居酒屋」金語楼の「入営初だおり」虎造の「石松代参」を蓄電で聞くのが、なにより楽しみだった。
 歌舞伎のレコードもたくさんあって、9歳年上の兄が与三郎や、播随院長兵衛の台詞を言えば、博教がお富や白井権八の科白で応えて、「源氏店」や「鈴ヶ森」の場のやりとりをして遊んだ。
 それだけではない。小学生になると、明治座は木戸御免で通えた。

 新田新作

  明治座の社長、新田新作は、梅太郎の兄弟分蠣殻町の貸元鈴本栄太郎の乾分だったが、実業界に転じて四十前に大出世して、戦後明治座を復興させた立志伝中の人物だった。
  明治座の社長、新田新作はやがて博教の運命を変えていく。
  明治座に行くと、木戸係がいつでも気持ちよく「坊や、いらっしゃい」と言って、立ち見の時もあったが必ず見せてくれた。
  新国劇の辰巳柳太郎の「国定忠治」、島田正吾の「一本刀土俵入」は博教の大好きな芝居だった。
  しかし、お手伝いのおふじから、花柳章太郎話を耳にたこの出来るほど聞かされて、花柳章太郎、水谷八重子、大矢市次郎の『風流深川唄』、『鶴八鶴次郎』という新派を観ることも多かった。 
  中学生の頃になると、川口松太郎の作品で第一回直木賞でもある『鶴八鶴次郎』の方が、同じ川口の『風流深川唄』より好きになった。
 落ちぶれ果てた鶴次郎役の花柳が縄のれんの小さな酒亭で世話役の佐平を演じる大矢市次郎に、
「鶴八の方が芸は上だ。が、ああ言わなきゃア鶴八はまた芸人に逆戻りする。芸が拙いと言ったのも覚悟の上で仕組んだ芝居だ。あいつはあれで舞台には出ないだろう。そのまま居れば生涯奥様と呼ばれて暮せる身の上で、幸福に死ぬだろう。女にとってこれ以上の出世はない」と恋する鶴八を想って告白する。すべてを承知した佐平が「飲もう、次郎さん」と言う幕切れは優しさに溢れていて、博教は、子供ながらも哀感と感動をもって眺めた。

 この百瀬博教の幼年期の寄席芸人の出入りや、後述する週末の明治座通いのその趣味の充実度合いについて、評論家の川本三郎はこう書いている。

                                             (②で一度引用しているが再び)

「遊びには年季がいる。昨日今日の付け焼刃はすぐに落ちる。たとえば、落語や歌舞伎や相撲見物といった遊びは、子どものころ、祖父母に連れられていって覚えるもの。だから「先代の――」を知っているか知らないかが大事になる。大人になって文化教養として遊びを学んでも少しも面白くない。百瀬博教の遊びには年季が入っている。子供の頃から自然に鍛えてある。にわかシティーボーイとは格が違う。何しろ子供の頃から吉原の太鼓もち桜川忠七の芸を見て育っているのだから羨ましくなる。父親に連れられて明治座に新派や歌舞伎を観に行く。花柳章太郎、水谷八重子の「鶴八鶴次郎」に感激する。家には古い落語や浪曲のレコードがたくさんあり、金馬の「居酒屋」、金語楼の「入営初だより」、虎造の「石松代参」を聞いて育つ。年季が入っているというのはこういうことだ」

  博教の家に訪れたのは、芸人ばかりではなかった。
 当時の人気ラジオ番組であった「とんち教室」で有名な石黒敬七や、日本中に名の知れた三船久蔵なども通ってきた。
  石黒敬七は、早稲田の柔道部の主将で文武両道を誇り、柔道8段で空気投げをあみ出した猛者であった。
  また柔道13段、三船名人に、梅太郎はごく若い頃に柔道をおそわったと言っていた。昔日、柔道家は町の名士でもあった。
  また市川出身の柔道家、加藤幸雄は昭和26年にブラジルに渡り、グレイシー一族の祖であるエリオ・グレイシーと戦った、日本で最初のグレイシー一族と戦った日本人であり百瀬家とは懇意であった。

  まさか、ずっと後に、博教が日本人とグレイシー一族との戦いに深く関わることになるとは、思いも寄らなかった。

柔道家っていういのは、昔っからいろいろと知っているんだよ。猪木より坂口征二の方が俺は知り合うのが早いしね。プロレスラーなんて最初っからハンチクなのとは違うからねえ柔道家は。俺がPRIDEをやるようになってから、いろんなことが結びつくようになっていったんだけど、市川出身の加藤幸雄なんて柔道家って言うだけで、グレーシーがなかったら、もう完全に忘れてるよなー。歴史に埋もれるよ。そこらへんが繋がっていくってところは俺でも驚くよな−」
                           (つづく)

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