(備忘録)5月18日。近田春夫さんとLIVEする。そこまでの経緯を書いておこう。(21/5/4記す)
5月18日に近田春夫さんと一緒にLIVEする。
共演者にダース・レイダーを指名した。
ふたりは初対面になる。
その前に、
近田春夫さんとボクがLIVEに至る経緯を紹介したい。
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文章で振り返ると、
まず、ボクの著者である『本業』に残っている。
近田春夫『考えるヒット』書評〜
『本業』(文春文庫・2008年より)
近田春夫さんと俺たちは、今から10年前、テレビ東京『浅草橋ヤング洋品店』で毎週顔を合わせる共演者だった。
初めて会ってすぐ、俺は『気分は歌謡曲』の初版本を持参して楽屋で「こんな本持ってんだぁ、懐かしいねぇ!」と近田さんに言われつつサインを貰った。
この本は、近田さんの処女作でもあり、自伝&歌謡曲評論本で、『POPEYE』に書かれたコラムをまとめたものである。
1979年の刊。
さて、『浅ヤン』レギュラー時代は、近田さんがテレビタレント活動を縮小して久しい時期であったので、若い視聴者のなかには「いったい何者なんだろう?」と思った人も多かった。
しかし、この『気分は歌謡曲』が出た頃、つまり70年代後半、短期間ではあるが、テレビのバラエティー番組において「たけし・タモリ・近田」と言われた時代があったのだ。
今も俺が覚えているのは、NHKの『レッツゴーヤング』で当時のアイドル、川崎麻世と並んで、遥かに小さい近田さんが背伸びして「背は俺の方が小さいけど、顔は俺の方がカッコいいだろ!」などと、ゴタクを並べながら早口で突っ込みまくっていたシーンである。
今で言えば、その芸風は、おすぎとピーコや、YOU THE ROCK★さながらであった。
ちなみに、ミュージシャンとしての実績も申し分ない。
慶應大学在学中に、内田裕也のバックバンドにキーボード奏者として参加。やがて自らのバンドを率いることに。プロデューサーとしても日本の「テクノの仕掛け人」とも言われ、アイドルグループ、ジューシーフルーツをヒットさせた。
いまやCDセールスの鉱脈となった「歌謡曲カバー」は、25年以上も前の近田春夫&ハルオフォンのアルバム『電撃的東京』が先駆けであり、今なお俺の愛聴盤である。
初ソロアルバム『天然の美』のバックには当時人気絶頂だったYMOのメンバーを一堂に揃えたことは、いまだに、「坂本龍一は昔、俺のパシリだった」などと言うギャグの根拠になっている。
さらに、日本語ラップを始めたのも、今から18年も前のこと。
この日本に於けるラップ創生期、当時の代表的ラッパーに、いとうせいこうも居た。
二人はともにミュージシャンであると同時に異能なるライターであったことを思うと、日本語と初期ラップの融合が、この時代の大きなテーマであったことが類推できる。
しかし、そんな近田さんのテレビにおける露出大の時代においても、俺にとってはタレント、ミュージシャンと言うより、卓抜なる評論芸を持つコラムニストなのであった。
なにしろ、その歌謡曲評論家としての卓見は、かつて週刊文春に「歌謡界の小林秀雄」と書かれるほどであった。
いささか、この呼称、大袈裟すぎると思われるだろう。なにしろ小林秀雄と言えば、日本における近代批評の祖とも言われる「知の巨人」である。
そして、その守備範囲が、文学のみならず、古典や音楽、芸術全般へと広大であったからこそ、近田さんのサブカルでありながら、広い見識、目配りにたとえられたのであろう。
当時から、音楽を批評する場も人も、数々存在してはいたのだが、近田さんは、あえてジャンルとして軽んじられていた歌謡曲に絞って語っていたのである。
そして、その記事が出てから20年の月日が経ち、今度は実際に小林秀雄の『考えるヒント』をもじって『考えるヒット』と題された連載が、奇しくも同じ週刊文春誌上で始まったのである。
連載当初より、その物怖じしない踏み込み方には、読んでいて「オオオッ!」と唸るものが多かった。
例えば、今井美樹の代表作、『PRIDE』を「今井美樹と布袋寅泰の歌を介したSM的関係」と評し、当時、愛人関係にあった二人を、
「♪貴方は私に自由と孤独を教えてくれた人♪と、普通なら調子のいい男!と頭に来そうな歌を、今井美樹がむしろそのつらさに酔いしれている風情である」と描き「これじゃあSMの調教をみせられてるようなもんじゃないか! セックスの最中にひわいなコトバをいわせるのと同じ構造だもんね」と書く。
これを読みつつも「同業者で、しかも、相手は喧嘩上等の布袋様なのに大丈夫かよ!」と思うと同時にその見立ての良さに笑う。
それだけではない。
「小室哲哉はケンカに弱い新種のヤンキーである」
「パフィーは一発屋として構想されたはずが、逆に聴き手の方が一発屋になっていたため長続きした」
「シャ乱Qって……『敏いとうとハッピー&ブルー』にめいっぱいディストーションかけたもの」
「奥田民生の書く名曲を井上陽水が駄目にする」
「国体の消臭につとめるユーミンに紫綬褒章を」
などのタイトルやフレーズに笑いつつも、本文を「読みたい!」と思わせ、実際のCDを「聴きたい!」と思わせるフックの鋭さは流石である。
しかし、毎週、短いコラムの中で、2曲のシングルを何年にもわたって評論するという行為が簡単なようでいて、いかに至難の抜か。
現在、連載は300回を超えているのだから、計600曲以上を語っているわけだ。
凄い芸当だ!
「薄目を開け、遠くから物を見ると輪郭がわかる」と本人も言っているように、歌謡曲という世界を距離を置いて一旦消化し、新しい消費空間として再構築する、この技術、目利き、いやいや耳の良さは他に真似しがたい。
さて、近田さんの執筆活動を振り返ると、97年には『家庭画報』で書評を始めている。
そして、この機会に初めて評論家・小林秀雄に興味を持ったとのこと。
20年前は『歌謡界の小林秀雄』と自分がたとえられていても、彼から自分の思索に何かヒントを与えられ、オリジナリティーを失うことを恐れて手にしなかったそうだ。
そして、小林秀雄を初めて読んでみた感想を、
「小林秀雄とオレは似てるワ。文章も似ている。今となっては小林秀雄に何か運命的な近しささえ覚えてしまっている」
と大胆不敵に書いている。
しかし、この思い込みが勘違いではないことは、既に5冊目となる、このシリーズを1冊でも読めば誰でもわかることである。
誰もが、耳にする通俗的な音楽を、超越的な着眼点で平易な文章で語る。そして、強度のある突っ込みは、読者の溜飲を下げる。
その分析能力は稀有なものである──。
もはや、近田さんには、歌謡曲評、書評に限らず、まだまだ、その評論のジャンルを広げていただきたいと思うのである。
さて、ナンシー関が亡くなって、ポカリとその位置が空き、もうその後継者すら無く、毎週、週刊誌を開く楽しさが奪われたと嘆く向きが多い。
しかし、もし近田さんがTV評論を始めれば……。
と期待するのは俺ばかりではない。
(『日経エンタ』2002年9月号より)
その後、近田春夫氏は、MXテレビの『TokyO Boy』で、俺たちやテリー伊藤、石原慎太郎東京都知事と共演し、その辛口コメンテーターぶりを十二分に発揮している。
ちなみに、近田さんとナンシー関さんは何度か対談しているほど手が合う二人であり、ナンシーさんの車にはハルオフォンのCDが入れられていたと聞く。
またある時、俺がナンシーさんと一緒にカラオケに行った際、音楽は「鈴木慶一と近田春夫のファン」と言っていた。
同じ歳であった俺には、実にその嗜好はよくわかった。
(08年近況)『考えるヒット』も10年以上続く長寿連載に。本業では06年に『ハルオフォン・リローデッド』名義で伝説のバンド『近田春夫&ハルオフォン』が復活。ちなみに最新の肩書は“ロックンローラー”。
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2021年3月8日の日記より。
『調子悪くてあたりまえ 近田春夫自伝」
を読んで。
近田春夫さんとボクの歴史は長い。
素人時代の憧れの人であり、
思春期、学校に居場所がなかった
ボクには文字通り
「ぼくの好きな先生」だった。
その傾倒ぶりは、
殿への弟子志願のときに書いた文章の中に、
その名前が出るほどだ。
本文の中に出てくる、1979年の週刊文春の記事、
「芸能界の小林秀雄……」
は切り抜いて保管しているほどだ。
30歳のときに『浅草橋ヤング洋品店』で、
共演することになり、
同じ楽屋になって、そのときに、
処女作本『気分は歌謡曲』(1979年出版)
を持参してサインを貰った。
今回、書庫から出てきた。
甘酸っぱい想い出だったが、
さらに、この本は、復刻版で補足原稿を加えて定本が出た。
1998年のことだ。
そのまえがきに、こう書いている。
「こっちが彼等のファンだったから
すごく感動してしまった」
なんて書かれているのを、
忘却の彼方の2021年に再発見したら、
42年もの歳月を経て、改めて、
人は言葉でぶっ飛ぶ。
思春期の憧れは永遠につづくのだ。
その憧憬を、
後の人生の中に想い出として
刻み込めれるか、どうかが、
人生の「想い出ノート」
を付ける喜びの真骨頂だ。
この歳になると
「距離は人を夢見させる」から、
実際に会えることすら、
一回一回が貴重になる。
きたる3月11日、
BS12 BOOKSTNAD.TV
収録が楽しみだ。
しかし、改めて、
本を大切に保存する性格で良かったと、
こういうときに実感する。
本書は前半の、
東京の真ん中で
偏差値169の天才児に生まれ、
慶応幼稚舎から
慶応大学文学部進学までの、
華麗なる人脈ぶりにあっと驚く。
映画「あのこは貴族」を見た直後だけに余計に。
その後の音楽家人生も集合離散の波乱万丈だ。
そして、大腸がん発症から今の人生観まで。
特に今の死生観、
芸能界「舞台の袖」理論などは──。
2017年2月25日の
出来事を思い出す。
この日、湯山玲子さんの誘いで、
妻と娘と一緒にクラシックコンサートを
人生初で見に行った時。
偶然にも近田さんと隣り合わせた日!!
そこでボクに近田さんが幕間で語っていた話と、
全く同一の話なのだ。
しかし、4年前、この日のボクが、
実に精力的なことにも読み返して驚く。
この頃から、
編集の下井草さんは近田さん
に取材はしていたのだろうな。
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2017年2月25日の日記
カミさんと娘と一緒にタクシーに乗って、
渋谷・オーチャードホールへ。
18時、
ジェフ・ミルズ×東京フィルハーモ二ー交響楽団
×バッティストーニ
「クラシック体感系II -宇宙と時間編-」
開演。
湯山さんのお誘いで、
大人になって初めてのオーケストラ体験。
なんと客席のお隣が近田春夫さん!
10数年ぶりだろう。
「こんなところで会うんだねぇ~」と。
あまりにも劇的な邂逅に、
思わず話し込む。
「SPA!の坪内祐三さんとの対談、
読みましたよ。あれは衝撃を受けました。
よくぞ、あれ、あの内容で通りましたね!」
「あれ、誰にも怒られてないよ!」
近田さん、ボクに生命線を見せながら、
「300歳まで生きると思うんだよ!」
そして衝撃的なウラ話を語るのだが、の
書き留めるわけにもいかず、
しばし、唖然とする。
我々にとっての芸能とは何か?
本質的なことを突かれて、
目からウロコが落ちる。
しかし、近田さん、若いなー。
湯山さんが再三、登場し、
解説を入れながらの演奏。
「題名のない音楽会」形式だが
門外漢には優しい演出だ。
ドビュツシーの『月の光』にはうっとり。
オーケストラを逆手にとった、
100台のメトロノームのための
ポエム・サンフォニックという
企画が面白かった。
休憩時間も近田さんと2人、
席に座ったまま会話が止まらない。
後半、第2部は、
ジェフ・ミルズのPlanetsが
一時間強、一気に。
オーケストラと
DJの共演の醍醐味があった。
終演後、お誘いをいただいたので、
3人でバックステージを訪問。
佐竹雅昭さんの「ウチの奴」(奥方)に邂逅し、
「いつも暴言スイマセン!!」とご挨拶。
その後、湯山玲子さんの旦那様、
ご両親にお会いしてご挨拶。
日頃、「バラいろダンディ」で、
さんざん暴言を尽くしているので申し訳なくうつむく。
さらにAV男優の森林原人も邂逅。
カミさんが「森林原人さんだ!」と見つけて
初対面の挨拶をしているので、
娘を視線から隠すと、
「森林さんは筑駒ですよね?
勉強教えて欲しいくらいです」
とカミさん。
娘が「パパ、あの人、誰なの?」と言うので、
「知らなくていい人だよ」と言うと、
森林原人が「10年後に会おうね!」と。
「いやいや会わなくていいから!」などと会話。
最後に歌姫・野宮真貴さんともご一緒。
お美しいかぎり。
オーチャードホールを出て遅めの夕食。
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2021年3月11日の日記
今日も、近田春夫さんの
『調子がわるくてあたりまえ』
を再読する。
さらに次々と、
近田春夫さんの名盤を
youtubeでチェック。
ボクが歌謡曲カバーの名盤、
近田春夫&ハルオフォンの『電撃的東京』
をどれほど愛聴したことか。
この名盤に収録された曲は今でもソラで歌える。
今もカセットテープは持っていることを確認。
つまり40年近くも保持しているということだ。
近田さんを初めて文字で認識した
1979年の週刊文春の切り抜き。
たけしさんへの弟子志願のときの
直訴状に現れている、近田春夫さん。
などなどの想い出の紙類も整理する。
本日のゲスト、清水崇監督、
九龍ジョーについても整理。
これらに午前中はかかりっきり。
今日の散歩部は中止に。
12時半にお迎えに運転手のジョニー小野が、
ポルシェのオープンカーで登場。
高円寺の細道には、似合わないところが面白い。
ジョニーと渋谷のスタジオへ向けて出勤。
3密を避けてのオープンだが、
花粉が酷くてくしゃみが止まらない。
杉山マネがお出迎え撮影。
収録は3本の長丁場。
一本目がホラー映画の巨匠・清水崇監督。
ボクは「呪怨」が全米一位を獲得した、
2005年2月2日の中野サンプラザの
凱旋プレミア上映に観客として夫婦で見ている。
そのあたりから、ホラー映画を中心とした、
シネフィル話に大いに盛り上がる。
推薦本の「アルジャーノンに花束を』の話。
話が跳ねてスイング。思った以上の撮れ高だった。
2本目ゲスト。スーパー編集者・九龍ジョー。
次の坂口恭平の新刊で、手掛けた本がのべ100冊目になるとのこと。
文字通りの今、一番スーパーな編集者のひとりだ。
本人名義の新刊『古典芸能の革命児たち』を中心に話。
ボクが歌舞伎や神田伯山&伯山のyoutubeに関して、
これだけ話すのは初めてのことだが、
コロナ禍でどれほど嵌ったことか。
しかし、これら全て紹介者は九龍ジョーなのだ。
また、文章上の美意識のキーワードである、
「揺蕩う」と「微睡む」に関して
「古典芸能」に絡めて。
あまりにも話が盛り上がり、
お薦め本までは至らず。
そして3本目。真打ち登場。近田春夫さん。
ボクの思いの丈が強すぎて、
近田さんが引き気味なほど。
でも、長年に渡る敬意と交誼への感謝を伝えられて、
忘れられない収録だった。
収録後、次回のゲストに関して打ち合わせ。
帰途、阿佐谷ヤング洋品店ゲストに関して直接連絡あり。
電撃的契約。思わずガッツポーズ。
そして、『メルマ旬報』にニューヨーク嶋佐の原稿が届く
これも4ヶ月がかりのスカウトだったので万歳三唱だ。
ボクが発注したのは、日記だったのだが、
内容も実に素晴らしい!!!
編集長冥利に尽きる。
駐車場ではバットニュースが告げられたが、
その後はグッドニュースが続く一日だ。
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2021年4月11日の日記。
今日の対談に向けて、
『調子悪くてあたりまえ〜近田春夫自伝』
を読み返す。
今日の名言──。
非アカデミックなものが
アカデミックなものに
勝つという瞬間こそ
「ロックンロール」の醍醐味である。
俺は昔からそう定義してきた。
パンクやヒップホップに形を変えながら、
その精神はずっと受け継がれていったと思うんだ。
(近田春夫)
金言だらけのこの本がもっと読まれることを。
自宅へ、ドルフィンソングの三木が来宅。
渋谷へ運転、初のハカセードライバー就任。
お弁当配達などの経験アリで、
十分余裕を持って家を出る。
渋滞もなく目的地の渋谷へ。
車内の会話も弾む弾む。
芸名のコンビ名
「ドルフィンワールドビュー」
が長すぎるので、
「ドルフィン」か
「ドルフィンソング」かに
変えるべきだという提案に、
「ドルフィンソング」を選択改名。
そして、
ミキくん、キミは、
太すぎるんだから、
逆に、
三木亘(わたる)の本名を
幹太(みきふとし)
に改名してはどうか、と提案。
巨根がいかに潜在的受容が多いか、
具体的事例をあげて説明する。
「渋谷へは行ったことがあるの?」
「去年は2回だけです」
「なんの用事で?」
「風俗です」
「何の風俗?」
「手コキです。一番シンプルな奴」
「手コキ?手コキって幾らするの」
「2千円です」
「安いねー。2千円?店名は?」
「『かりんとう渋谷店』です。
などなどのくだらない会話を
繰り広げながら……。
そこから渋谷エクセルホテル東急の
駐車場入口がわからず、何周も周回し、
結局、違うホテルの駐車場へ。
結果、10分の遅刻。
『婦人公論』の清水ミチコさんの鼎談コーナー。
ボクと近田春夫さんがゲストで。
長期連載で既に単行本化されているのだな。
出会ってすぐに撮影。
撮影中からのノンストップ鼎談スタート。
近田春夫無双。
昼からビールを飲みながら、
怖いもの無しトーク。
近田春夫自伝『調子悪くてあたりまえ』
を何度もさらっているので、
ボクも質問が止まらない。
70歳にして
This is ロックンローラー!!
ボクもミッちゃんも笑い転げるが、
誌面で使える場所がほとんどない。
「浅草橋ヤング洋品店」で仲良しだった3人。
それでも3人集まって話すのは、
25年ぶりの同窓会だ。
2時間半に渡って大放談。
30年も前に、
みっちゃんと渋谷公会堂へ、
甲本ヒロトのLIVEに
ふたりきりで一緒に行ったことを
走馬灯のように思い出した。
最後に、媒体である『婦人公論』を意識して、
ボクの結婚秘話を披露して、なんとか着地する。
ああ、面白かった!!
お二人をお送りしてから名刺交換。
高田先生通の婦人公論の濱さん。
高円寺在住のリロルモア加藤さん。
運転手のドルフィン・三木は、
「芸能人ってマカロン食べないんですね」と。
皆、おしゃべりだから食べている暇はないのだ。
ホテルから歩いてすぐに駅前の『大盛堂』へ。
中川マネをカリスマ書店員の山本さんを紹介。
水道橋博士コーナーも設立されている。
『ドルフィンソングを救え!』
のサイン本を見つける。
自分たちの芸名の由来なのだ。
幹太にプレゼントする。
何時か著者の樋口毅宏さんにも会えるだろう。
文字通り、自らを救え!
中川マネと別れて、駐車場から一旦、車を出す。
渋谷で昼食へ。
道玄坂駐車場に車を止めると、
行き先は、まずここだろうと。
台湾料理『麗郷』へ。
三木は初めてとのこと。
ソーシャルディスタンスで、
2Fを広々と使わせてもらう。
偶然だが、
ボクも幹くんもプライベートの
台湾旅行経験がある。
また山のように話がある、
「芸能界・麗郷体験アルアル」
を語りながら。
腸詰め、野菜炒め、シジミの炒め、海老入り蕎麦
途中ボクが我慢できなくなり紹興酒。
満腹。すっかり出来上がる。
帰途、幹くんの韓国風俗体験記を聴きながら、
爆笑に次ぐ爆笑。
帰宅後も、
昨日のエル・カブキ上田くんきっかけで、
開いた資料箱から、
昔の手紙、ネタ、手紙が続々と発掘される。
タイムトンネルへ。
前田日明からの手紙。
村松友視の生原稿。
ANNへ送っていたハガキ職人時代の
ネタの数々。
小学校の頃の文通の手紙の数々。
想い出に節度が無くなる。
ミッちゃんともLINEで延々と昔話。
近田さんからは「アサヤン」参戦宣言。
嗚呼、あの楽しい日々が蘇る。
ボクの肩凝りぶりに驚いた幹くんから
「関西ツッコミ必須のチタンバンド」
を借りる。
幹くんが帰宅した後、全集中で、
サンデー毎日に寄稿する原稿四〇〇✕10枚。
15日に向けてのZOOM会議。
ウンウンと唸りながら、
文章推敲しているうちに机の前で寝落ち。
12時頃就寝。
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2021年4月30日
BOOKSTAND.TVがO・Aに。
(クリックしたら飛べます)
この時間を経て、
5月18日・火曜日のアサヤン8。
メインゲスト、近田春夫へつながるのだ。
是非、見て欲しい!!!